意味のないことなど 起こりはしない ─あの日の私にグッドジョブ─
会社の廊下で他課の課長をナンパしたことがある。顔見知り程度の間柄で、相手は私の名前を知らなかっただろう。そこへいきなり、「S課長! 教えて頂きたいことがあるのですが」、と声をかけてしまった。
時折見かけるS課長は、いつも明るい表情で楽しそうに仕事をしていた。社内で1、2を争う激務の課で笑顔で仕事をこなしている、ように私には見えた。
私はS課長のように楽しく働きたかった。だから、どうやったら仕事を楽しめるか質問したいと、ずっと思っていた。数か月も思い続けていた。
当時、私は仕事が辛くてたまらなかった。激務に耐えかね、何年も心が 軋み続けていた。だが、心を病んでもなお、仕事にしがみついていた。
そんな私にとって、いつしか私にとってS課長は、憧れをとおりこして神のような存在になっていた。
その気持ちが爆発したのだ。ある日、廊下ですれ違いざま
「S課長、教えて頂きたいことがあるのですが」
すべての気力を振り絞って、これ以上ないくらい思い切って声をかけた。考え事をしていたらしいS課長の反応は、一呼吸おくれた。
最高に緊張して立ち尽くしていた私への返事は、「教えて欲しいことって、何?」だった。
「あの、詳しくはメールさせていただきます」と、なんとか答えた。
S課長は速足で歩き去っていった。
自席に戻った私は、やっちまったーという感情と、なんてことしたんだ、どーしよー、変な奴だと思われたーーー、などの気持ちが渦を巻き、内心のたうち回っていた。当然仕事はまったく手に着かない。顔から火が出ているようで顔を上げられなくて、机に突っ伏すように低く下を向き仕事をしているふりをした。ノートパソコンにかじりついている格好だけしている私に、上司は何も言わなかった。
この時の私の職場は、上司と二人職場だった。私の挙動不審は充分バレバレだったはずであるが。いや挙動不審過ぎて、声をかけられなかったのか。
勤務終了後、私はS課長宛に社内メールを書いた。その内容の要約は、下記のとおりである。
もう率直に、直球ど真ん中で書くしかなかった。冷や汗をダラダラかきながら正直な気持ちを綴った。必死の思いで全力でメールを書いた。何度も読み返し、幾度となく深呼吸してやっと送信した。
翌朝出勤すると、勤務時間より早い時間のタイムスタンプでS課長から返信が来ていた。
「日程調整をして、再度連絡します。」
これを読んだ瞬間、机の上に崩れ落ちた。S課長に受け入れてもらえた、と心底安心した。どこの馬の骨とも知れない平社員のお願いを聴いてもらえた、と歓喜した。職場でなければその場で飛び跳ねて叫びたいくらい、うれしかった。本当にうれしかった。
* * *
数週間後、私は応接セットの前でS課長と向かい合っていた。緊張でガチガチになっている私を前に、「大変そうですね」と切り出したS課長。ご自分の体験談を話してくださった。
今のS課長からは想像もつかない話だった。S課長は優しく丁寧に話してくださった。
私に言い聞かせるように。「意味のないことなど 起こりはしない」と何度も繰り返してくれたS課長。
社内でもトップクラスの激務部署の管理職でありながら、部下でもない私のために時間を割いて、丁寧にお話ししてくださった。そのお気持ちが何よりもうれしく、励まされた。この時の感謝の気持ちは、今でも色あせることなく私の心にある。
この奇跡の20分間は、5年前の冬至の出来事だった。
5年たった今でも、私は何度も「Jupiter」を聴く。そして聴くたびにS課長を思い出す。
私は仕事を楽しむことができないまま、心身を壊し障害者となって退職した。S課長に合わせる顔がないと思いながらも、もう一度あの人の太陽のような笑顔がみたい。
あの時は本当にありがとうございました、ともう一度お礼が言いたい。
お礼と言うべき相手はもう一人いる。頑張りに頑張って、S課長に廊下で声をかけた自分である。あの時声をかけられなかったら、S課長とお話をする機会はなかった。今思い出しても、ああああああ!となる恥ずかしい出来事だが、あの時勇気を出して本当によかったと思う。
たった一度のチャンスをつかみ取った、あの時の私にグッドジョブ。
お読みくださりありがとうございます。これからも私独自の言葉を紡いでいきますので、見守ってくださると嬉しいです。 サポートでいただいたお金で花を買って、心の栄養補給をします。