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トラウマの箱が開いた 実父からの性的虐待

トラウマの箱を多分完全に開けちゃった。きっかけは分からない。時が来たから開いたんだろう。
中身はずっと前から知ってた。知ってて平気なふりをしていた。それは高校2年か3年生の時の、実父からの性的虐待。
最後までヤラれたのではない。だから性的虐待の被害者の手記を読んだりしたときに、私の被害は大したことではない。被害者面するのもおこがましいと思っていた。

それでも辛いものは辛いし、苦しいものは苦しい!

今の私の体調は一人でメンクリまで往復する体力がない。いつも送迎し診察にも同席してくれている夫は、どうしても仕事を休めない。
なので昨日は安定剤をがぶ飲みして、日中はずっと寝ていた。衝動的に自分を傷つけるより、ましな選択肢だったはず。

で、今日は気持ちの整理をつけようと文章化している。


加害者(父)が浮気をして家に寄り付かなかったのは、私が中学3年生から高校1年生まで。浮気相手の女(19歳、会ったことがある)に振られ帰ってきたのは私が高校2年生に上がったばかりの頃。
当然夫婦仲は最悪で、目の前で殴るけるのDVをみた。父母は機嫌が悪くすぐけんかになった。私は当然加害者の死を願うほど、に呪っていた。


当然家は心安らげる場所ではなく、なにかと学校に残っていた。夜寝るときはパジャマでなくジーンズをはいたまま寝ていた。何かあったら外に飛び出せるようにだ。そしてポケットには小さな折り畳みナイフを入れていた。

当時の家の間取りは6畳と3畳の和室と廊下兼の細長い台所とユニットバス・トイレ。ここに親子4人で生活していた。部屋の仕切りはすべて襖。音はつつぬけ。・・・親の一方的な夫婦生活の気配も分かってしまった。終わるまで布団にもぐって耳をふさいでいた。
父親を嫌悪している、思春期の女子高校生にはこれでも十分な虐待だ。逃げ出したくても行くところもない無力感にもさいまれて、私がどんなに嫌な思いをしたかは男性には分かるまい。

最悪の出来事がいつ起こったのか記憶が定かではない。
夜、3畳間で私は寝ていた。そこへ泥酔した加害者が返ってきた。あろうことか私の布団に入ってきた。男として、いや人として嫌悪している相手だ。私は心底ぞっとした。
「胸を触らせろ。でないと大声を出すぞ」許せないこの振る舞い。私は怖くて、両腕で胸をかくすのが精いっぱい。怖くて逃げることもできず、声を押し殺して泣いていた。
気配を察して助けてくれたのは母だった。
助けてくれたのはこの1度だけ。でも本当にたすかった。

今思い出しても、リアルタイムの記憶のようにぞっとする。加害者がもう、この世にいなくてもだ。感触がやけに鮮明に思い出されて、叫びそうになる。

母は、加害者が私の服の上から胸を触ったり、風呂を覗くことからは、助けてくれなかった。胸のふくらみ始めた小学校5年生頃から就職して家を出るまで、被害を受け続けた。
母は「娘の成長が気になるんでしょう」と、全く取り合ってくれなかった。

すごく、嫌だった。加害者も助けてくれない母も大嫌いだ。なんでこんな親の元に生まれてきてしまったのだろう。

加害者の葬式にはかろうじて出たが、法事などはもちろん欠席した。今は母も許せない。


親に関しての記憶は、何もかも無くなればいいと思う。親に関する接触はすべて断った。
時間が傷口を覆い、気が済むまで、私は自分を守る行動をとる。親子の縁などくそくらえ!


トラウマは33年も埋まってたんだ。ゆっくり手当をする。

どうして被害者が、こんな暗闇に蟻地獄を彷徨うような思いをしなければならないのか。
絶対的理不尽、理不尽、理不尽。

お読みくださりありがとうございます。これからも私独自の言葉を紡いでいきますので、見守ってくださると嬉しいです。 サポートでいただいたお金で花を買って、心の栄養補給をします。