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深夜チョコレート(1)

窓の外では大粒の雨粒が真っ暗な天から絶えず落ちているのだろう。
ざあざあと雨粒がコンクリートやら、トタン屋根やら、硝子やらにぶつかり砕ける音が聞こえている。粉々に砕ける雨粒。ひしゃげた透明な球体が砕けてさらに小さな雫になるのを私はまぶたの下で視る。
ただの妄想だ。
つまらない、何の意味もない空想。
だからなんだと言われてしまっても、何も言えないような、路傍の石ころにさえ劣る、そういう類のものだ。わかっている。
それでも真夜中の空の色を映した雨粒が街灯やネオンに照らされながら柔らかな硝子のように砕けるのはきっと美しいだろうと、脳みその中で上手いこと美化された想像を私は雨が降る夜、一人で過ごす度に飽きもせず何度も何度も考える。想像する。
行儀悪く食卓に両肘をついてグラスに口をつけた。
融けかけの氷がジンの小さな海で揺れる。氷山の上、居心地が悪そうにシロクマが黒い鼻を鳴らした。ごめんよ、もう少ししたら氷を足してあげる。
そんな風に思いながら深く味わいもせず、透明なそれを飲み下した。
熱くて苦い液体が舌を撫でて、喉を焼きながら胸に落ちていく。
胸に落ちた液体はちりちりとたっぷり10秒くすぶってからゆっくりと恨めしそうに胃液に溶け込んで薄められていった。

さて、どうしたものか。
私は正方形の食卓の、ちょうど中心に置いた紙製の箱を見やる。
つや消し加工が施された黒の、どことなく高貴な、いや、もっとわかりやすく言えば「いいお値段がしそうな」か、「お高そうな」、そういう箱だ。
しかも箱の中央には筆記体のフランス語だか英語だか、もしくはイタリア語の、販売していたお店の名前が箔押しで入れられてそこだけ金色に、誇らしげに輝いている。
これはもう、間違いなくお高いやつである。
実際高かった。
たった9個しか入っていないというのになんとお値段税抜3600円。
1粒400円だ。
1粒でスーパーの安い板チョコなら5,6枚買えてしまう。
買いに行くだけでずいぶんと高いハードルを越える必要があった。
購入した帰り道に気づいたのだけれど、ちょっと考えれば最初からネットショップで注文してしまえばよかった。
そこまで頭が回らなかったのと、せっかくだから有名店と呼び声高いそのお店を見てみたいという好奇心と、それと、私だって「好きな人に渡すチョコレートを買いに行く」という経験をしてみたかったという少しばかりの願望があったのだ。
かわいいものだろう。
むしろ自分でいうのもおかしな話ではあるけれど、いじらしいだろう。
そのくらい。
そのくらい、私は浮ついていたのだ。

なんとなく居た堪れず、グラスを傾けた。
ろくに味わうこともせず飲み込む。
アルコールに焼かれた胸あたりの血が熱いままゆっくりと上昇して顔を火照らせてきた。
もう少し、あと5分もすれば脳みそにもアルコールが回ってくるだろう。
いっそぐだぐだの、ぐずぐずに酔っ払ってしまおうか。

人差し指につけた指輪がぬるりと柔らかくなって、しゅるしゅると舌を出しながら瞬きをする。
生き物の冷たさが皮膚を撫でた。
指輪だった蛇は緩慢な動きで私の人差し指から離れ、机の隅の方でとぐろを巻く。蛇の背中を指先でつつくと、蛇は心底鬱通しそうに尻尾を振って私に指を振り払うとまた指輪に戻る。

意を決して、私は箱に手を伸ばした。
マットな質感の黒い箱の蓋を持ち上げる。
ふわり、と隙間から濃いカカオの匂いが漏れ出る。
チョコレートの匂いというと甘い匂いばかりを想像してしまうけれど、どちらかと言えばコーヒーを思わせるような濃厚でほろ苦い匂いだ。
甘いだけではない、むしろ苦味と甘味のバランスに重きを置いたような、そういう複雑な匂いだ。

蓋をすっかり開けてしまうと、その中にはやはり9個のチョコレートが入っているように見えた。
綺麗に間仕切がされた正方形のそれぞれに、ひとつずつ500円ほどの大きさのチョコレートが収まっているように、そういう風に見えた。
それもつかの間。
もぞり、とそのうちひとつが動いたように見えた。
どれだろうか。
息を殺して左上から順番に観察する。
上段は落ち着いた色合いのチョコレートが大人しく並んでいる。
一番右のやや淡い茶色にレーズンが一粒乗ったチョコレートが美味しそうだ。たしか、パティシエのような格好をした店員の女性が言うには紅茶の葉っぱだかエキスだかを練り込んだチョコレートでラムを混ぜた生チョコレートを包んでいるだとか。
自分が食べるものではないので、あまりちゃんと聞いていなかった。
それよりも、そのパティシエ風の格好をした女性は果たして本当にチョコレートを作ったりする人なのか、それともお店の方針でとりあえず制服としてその格好をしているだけの人なのかの方が気になって仕方なかった。
相手の気を悪くさせずに上手く聞き出す方法も思いつかず、ついでに言ってしまえば知ったところで私にとってどうということもないことだというのもあって結局聞けなかったのだ。
そのせいでずっとそればかり考えてしまっていた。
なんてしょうもないことばかり。
どうせ一人で食べることになると分かっていたら、ちゃんと説明くらい聞いておいたのに。
真ん中の段も見たところ動きそうなものはない。
真ん中の中央、この9個のチョコレートの中でも中心といえる場所には真っ赤で艶のあるハートのチョコレートが鎮座していた。
ひときわ目立つそれはまさにハートの女王、と呼べるほどの貫禄だ。
中身はなんだったか。
ラズベリーだかいちごだかのソースが入っていると言っていた気がする。
ハートを割ったら赤い液体が出てくるあたり、微妙にグロテスクだな、と思いながら聞いていたからなんだか赤いソースが入っているのは間違いない。
それとも、さくらんぼのソースだったか。
食べれば分かるだろう、と楽天的に考えてからふと思う。
目かくしされてラズベリーかいちごかさくらんぼか、どのソースか言い当てられるほど上等な味覚なんて持ち合わせていただろうか。私。
下段に目をやる。
綺麗な球体をしたホワイトチョコレート。
砕いたナッツを全面にまとった四角いチョコレート。
そして、一番右端は。
細かな針のような、刺のような繊細なディテールの楕円形が。

動いた。

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