高校野球の現在地 ~「Liga Futura」のリーグ戦導入に対してわたしが思うこと~



わたしが高校野球から離れて、早4年の月日が経とうとしている。

それでもいまだに、夏の地方大会の結果が目に留まって、4年前のような興奮や緊張を感じずにいられないのがわたし。

照りつける太陽の下で、銀色に輝くskybeat、アフリカンシンフォニーの響き、人工芝の蒸した匂い...


そんなことを思い出しながら久々に高校野球関連の記事を読み漁っていると、その中にある記事を見つけた。


「甲子園のアンチテーゼ」を行く高校野球の凄み | 日本野球の今そこにある危機 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
Link: https://toyokeizai.net/articles/-/404321

高校野球で脱「勝利至上主義」のリーグが広がる訳 | 日本野球の今そこにある危機 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
Link: https://toyokeizai.net/articles/-/436889


高校野球に関心がある人にはぜひ読んでほしい。

そして読んだうえでわたしと考えを共有してほしい。



では、わたしの番から!



素人ながら、記事を読んだわたしの率直な感想を言うと、この「Liga Futura」のリーグ戦が勝利至上主義へのアンチテーゼとして効力を持つとはあまり思えなかった

だって、たとえリーグ戦があったとしても、最後には甲子園があるんだもの



「勝利至上主義」の解釈


わたしの考えを詳しく述べる前に、この記事では「勝利至上主義」の定義が曖昧で、多角的な視点が混在していたから、まずはその言葉の意味をいったん整理しておきたい。


記事の執筆者は、トーナメント制を採用する高校野球において、勝利に拘る弊害として
・肩肘に負担のかかる投手起用
・高反発金属バットの使用による、打者の振り抜きや守備に見られる妥協
・それらに伴う高卒後のキャリアでのスランプ
・選手起用の偏りによる出場機会の不均等
・失敗を取り返すためのリベンジ機会の欠損
を述べていた。


要するにこの記事における「勝利至上主義」とは、

その場の勝利を優先するあまり、選手や指導者の現在・未来における野球の楽しさを奪ってしまうこと

という風にまとめられると思う。


もう少し嚙み砕いて言えば、負けてはいけないから指導者は一部の才能ある選手を使い続けるし、選手はより結果の出やすい道具を使う。


こんな感じで、「負けてはいけない」という気持ちが、あらゆる選択の理由として最上位に君臨してしまう状態を意味するのではないか、とわたしは解釈した。


もしそうであるとするなら、ここで問わなければならないのは、

どうして “勝利に対する熱量” が “野球をする楽しさ” を凌駕してしまうのか

ということになる。



「勝利至上主義」の背景にある甲子園の存在


そもそも高校野球は、競技スポーツである以上、勝敗がつけられるものだ。


プレイヤーにとって、勝つことは普段の練習の成果が現れた瞬間の一つであり、ご褒美の一種として喜ばしいものに違いない。

でも勝敗が存在するからといって、必ずしもそれが最も重要とは限らないというのが、高野連や「Liga Futura」加盟校の主張だ。


実際、平成29年2月に改正された日本学生野球憲章においても、

「学生野球は、(中略)学校教育の一環として位置づけられる。この意味で、学生野球は経済的な対価を求めず、心と身体を鍛える場である。」
http://www.jhbf.or.jp/rule/charter/index.html

との文言が含まれた段落に始まって、その基礎の上に「一層普遍的な教育的意味をもつ」ように試合が行われると述べられており、勝敗への拘りは一切言及されていない。


これほど崇高な理念が明言されているにも関わらず、「勝利至上主義」が流布してしまうのは、皮肉にも高野連の主催する甲子園の存在があるからだとわたしは考えている



甲子園が、学生スポーツの中で最も国民の注目を集める大会であることはもはや認めざるを得まい。

高校生の部活の全国大会で、1回戦からの全試合だけでなく開閉会式さえNHKがテレビ放送するものは甲子園の他にわたしは知らない。

NHKに限らず、大会期間中はどのメディアもその日の試合ぶりや活躍選手を取り上げていて、一人の高校生がたちまち国民の英雄になることもある。



もちろん、全国の舞台で活躍するのは素晴らしいこと。

でも、それを1億人が称賛することは、誰かの勝ちへの拘りを加速させることにもなる。



野球による教育が成功したかどうかが評価されることは滅多にないし、その切り口で高校野球を計る方法も確立されていない


それに比べて勝敗はどうか。
圧倒的にわかりやすく、“甲子園出場”などの箔が付く

人は結果が見える事の方が取り組みやすいし、称賛されれば俄然やる気が増すものだ。


こういうわけで、甲子園がある限り、野球の教育的意味の達成よりも、高校球児や指導者が勝ちに拘って競争させられる構図は崩れないだろうと、わたしは思う。


「Liga Futura」に加盟する高校も、全ての高校が2021年の夏の選手権にエントリーしているから、負けられない戦いの呪縛から完全に解き放たれることはないのではないだろうか。





少し別の角度から見ると、わたしたち部外者は、高校球児たちの姿をエンタメとして消費している。


この見方からすれば、高校球児はまるで動物園にいる動物や美術館にある美術品のようにも思える

見たい人に対して、それを見せる場を提供する代わりに、提供者がお金をもらうのだ。



調べてみると、甲子園の経済効果はわたしの予想をはるかに超える、凄まじいものだった。

2018年の夏、第100回の選手権記念大会における経済効果は433億円、逆にコロナの影響で行えなかった2020年の夏の選手権における経済的損失の、同年5月時点での予想額はなんと672億円と試算されている。
https://www.kansai-u.ac.jp/global/guide/pressrelease/2018/No42.pdf
https://www.kansai-u.ac.jp/global/guide/pressrelease/2020/No9.pdf


2020年春のセンバツがあのような感染拡大中に行われた理由の一つに、この経済効果も挙げられることは間違いない。



わたしはこのエンタメ性において高校球児が展示物と似ていると言ったけど、実は明確な違いもあるとも思っている。

それは、経済的利益を受け取るか否か、という点においてだ。


得られた収入の使い道は、まず共通項として動物園・美術館も高校野球も、それを見せる場の維持管理や、そこで働く人の人件費に充てられる。


大きな違いがあるのは、その“見せ物”に直接の報酬があるかどうか。


動物園の動物は、はじめは他の飼育環境から購入するし、美術館の美術品も寄贈者から購入する。

この展示物用意の過程において、展示物提供者に金銭の授受が発生する。


一方、高校野球において展示物である高校球児やチームには、主催者から出場報酬が支払われない。

上で触れた日本学生野球憲章の文章通り、高校野球に経済的な対価は存在しない決まりになっている。


両者の構造的な違いとして、前者に関しては経営側がものを集めるのに対して、後者はチーム自らが大会にエントリーしているということが挙げられ、それがこの違いを生みだす最も重要な原因だと思われる。


高校球児のお金に対する関係は、惑星の衛星に対するそれとよく似ていて、ただ周りをぐるぐるふわふわと回って存在するだけに過ぎない。


人は価値を感じたものに対し、その価値を認め、更なる飛躍を期待するからお金を払うものだ。


高校野球観戦に関してもそれは当てはまるが、出資者の高校球児を応援する思いは、残念ながら彼らには届かず、エンタメ供給者が受け取ることになる



この側面だけを切り取ると、高校球児たちは純粋無垢に、そして知らぬ間に競技性の檻の中に自分自身を閉じ込めているように見える。


それによって世間も彼らを競技人であると見なすし、その一生懸命さによって人々の心を動かすことができるのだが、その反面、そういった清潔な印象が次の世代の競技者をさらに生成することにもつながる。


こうして脈々と受け継がれてきた、修行の身を演じる血統が今の高校球児にも流れている。



言葉を選ばずに言えば、高校球児は特定の人間にとってお金を稼ぐ道具だ。


そのような構造に気付いているのはわたしだけじゃないだろうから、もし本当に野球をプレーするだけで満足でき、清らかな青年たちの搾取なんて嫌だと思うなら、大会になんてエントリーしなければ済むと考える人がいてもおかしくないと思う。


しかし、それを実行するとどうなるかと想像すると、これも少々ぞっとする。

高校野球がメディアに取り上げられることがなくなり、人の目に曝されなくなって、現在の国民的とも言える立ち位置から転落するかもしれないのだ。


そうなってしまえば、高校野球の存在が世間から忘れ去られ、OBや地域からの支援が減ることにより、今ほど良い環境で野球ができなくなってしまうかもしれない。


楽しく野球をする環境を維持するためには、選手権大会から距離を置くという選択肢を選びにくい。


結局、球児が甲子園の食い物になっているにもかかわらず、高校野球が選手権大会と縁を切ることは非常に難しいように思う。



そういうわけで、自然と大会に出場することは決まっており、出場する意味や目標として勝利追求が後付けされることで「勝利至上主義」に洗脳されてゆく



以上の通り、「Liga Futura」が導入されても、甲子園がある限り「勝利至上主義」に歯止めがかからないのだとわたしは感じている。




「Liga Futura」にわたしが寄せる期待


ここまで散々意味がないように言ってきてしまったが、実はわたしは、「Liga Futura」が新たな価値観を提供できる大きな可能性を秘めていると、強く期待している。



ここ数年は、社会環境の変化に伴い、高校野球を取り巻く環境も変化してしているように思う。

特に、多様性という言葉がキーワードになるんじゃないだろうか。


例えば、走り込みを減らしてワークアウトを増やすとか、トラックマンを導入するとか、科学的知見の恩恵を積極的に受けようとする姿勢が整ってきているように思う。

他には、中学生が進学先を選ぶ際に、甲子園に出やすいかどうかがすべてではなく、勉学との両立であったり、高校以降のキャリア形成に役立つ指導法であったり、そういった人生の通過点としての高校野球の意義を自ら考える生徒も増えていると高校野球関係者から耳にする。



この観点からすると、勝つことがすべてではないという考えの浸透も、以前よりは良くなっているだろうし、今後はますます良くなっていくと思う。



わたしが思うに、野球はトーナメント方式に向いていないスポーツだ。

なぜなら、野球の勝敗は確率論的事象に基づいて決するような気がするから。


具体的に言えば、まず人数が9人と比較的多いこと。

自分が完璧に泳ぎ切れば勝てる水泳のような個人競技と違って、自分が完璧な送球をしても捕る側がミスをしたらアウトにならない。人数が増えれば増えるほど、こういった分担作業の性質がより強く現れるものだ。


次に、環境条件の影響を受けやすいということ。

フライを泳がせる風であったり、ゴロを飛び上がらせる地面の凹凸であったり、打球の飛距離を変える気圧であったり。

そういったあらゆる条件が、選手に柔軟な対応を強いている。


そして最後に、グラウンドが広いこと。

これは単純に場合の数が増えるという話で、一辺 1 cm の正方形の取り方を一辺 2 cm と 3 cm の正方形同士で比べると、4つと9つということになり、面積が大きければ選べる場所の数も多い。

そういうわけで、場所が広いほどフライが落ちる点も増えるわけだし、それゆえプレーのパターン数も増えるのだ。


以上のように、偶発的要因に左右されやすいのが野球というスポーツだ。

だから1回きりの勝負だと大番狂わせが起きることもある。

1度の勝利のためにつぎ込むエネルギーと、それによって高められる勝利の確率を考えたら、ややバランスが悪いのだ


もし本当に強いか弱いかという実力で勝敗を決めたいのなら、偶発性の影響を減らすためにデータサンプルを増やす、つまり試合数を増やし、トータルの成績で判断するのが良いだろう。



このように考えると、負けることにも少し寛容になれる気がする。


勝つことはもちろん目指したい。

でも、負ける試合がなくなることはないし、負けたからと言ってチームが弱く、価値がない存在というわけでは決してない



特に強豪校だとプレッシャーが常にかかるようだけど、あなたの高校野球はあなただけのものであって、監督やOBのためのものではないよ。

勝つことは素晴らしいことだけど、あなたの人生が野球に彩られ、満たされるということに目を向けられるほうが、わたしは美しいと思う




わたしは勝つことだけがすべてじゃないと思っているから、その価値観を提供できる「Liga Futura」の動きには賛成だ。


一方で、その考えも備えたうえで、勝ちに執着する時間もあった方が良いと思っている。



人には色々な生き方があって、決まったルールの中で他者よりも優れた結果を残すやり方もあるし、誰も着手していない世界を作って、自分だけの新たな物差しで活動するやり方もある。

これはあくまで一例に過ぎないけど、トーナメントもリーグも経験することで、その人にとっての野球の在り方を考えてほしい


そして、感じたことを仲間と共有したり、世界に対して発信したりして、世の中のあらゆる人に考えるきっかけを与えてほしい



これが、わたしが「Liga Futura」の導入に期待すること。



皆さんはどう思いますか?

次は皆さんの番です!

よろしければご意見聞かせてくださーい!


では、また!!

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