【25】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~
第25話 ライバルは、突然に
冬も深まり、時折豹変する伶弥にもようやく慣れてきた、ある朝。詩陽は目の前に立つ女性を見て、無意識に握った手に力を込めた。
「今日から、企画部で働くことになった藍沢瀬里さんだ」
「藍沢瀬里です。よろしくお願いします」
部長の隣に立つ藍沢はふわふわパーマのかかった明るい茶色の髪を持つ、二十代前半の女性だ。ぱっちりとした目に、艶のあるぷるんとした唇。背は低いが、スタイルはよく、とても目を引く容姿をしている。
「来栖、いろいろ教えてやってくれ」
「わかりました」
シャンと背筋を伸ばした伶弥が軽く頭を下げると、藍沢はじっと見つめ、口元を緩める。その瞬間、詩陽は胸に痛みを感じた。
何の区切りでもないこの時期に、藍沢は突然配属されてきた。詳しい事情はわからないが、中途採用にしても不自然さがある。
全員が怪しさを感じながらも口にしないのは社交辞令とでも言おうか。なんとなく触れてはいけないような、触れると面倒ごとに巻き込まれるような、そんな気がする。
朝礼が終わると、伶弥は藍沢と何かを話しながらフロアを出て行った。
「ちょっと! ことりさん、見ました⁉ あの人、絶対に危険ですよ」
音もなく隣に来ていた心葉が小声で叫ぶ。詩陽は器用だなと思いつつも、その言葉に顔を顰めた。
「まだ、藍沢さんのこと、何も知らないじゃない」
「知らないですけど、私の勘は当たるんですって!」
先程の胸の痛みは、詩陽の勘であったのだろうか。如何せん、詩陽は恋愛偏差値が底辺である。自分の心境もわからなければ、藍沢がどんな女性で、どう危険かなんて、わかるはずもない。
詩陽はそっと溜息を吐き、心葉に向き直る。
「真面目に仕事をしてくれたら、それでいいじゃない。ね? そろそろ仕事に取り掛かろう」
詩陽が華奢な背中をぽんと叩くと、心葉は納得できないという顔を隠すことなく「はーい」と返事をして、自分のデスクへ向かった。その後ろ姿を見ながら、詩陽はまた出そうになった溜息を堪える。
程なくして、伶弥と藍沢がフロアに戻ってきたが、藍沢の楽しそうな顔を見て、思わず目を逸らした。
恐る恐る伶弥の顔を見ると、いつも通りの無表情のまま頷いて、短い言葉を返したようだ。伶弥が職場で面白いこと言うなんて有り得ないはずなのに、藍沢は声を出して笑う。そんな様子に、心葉の言葉が蘇る。
「危険なんて……」
詩陽の小さな呟きは誰に聞かれることもなく、キータッチ音に消された。
藍沢が配属されて一週間が経った。
この日は久しぶりに二人で夕飯を食べることができ、今はお茶を飲みながらゆっくりしているところだ。もともと忙しかった伶弥は藍沢の指導のせいで、忙しさに拍車がかかってしまった。
会社では本当に必要最低限の会話しかできないし、帰りも遅くなることが増えた。要するに、詩陽は藍沢のことがとても気になっていたのに、何も聞くことができずにいたということだ。
これまでは伶弥に女性が近づいていても、詩陽はまったく気にしたことがなかった。それは恋愛に疎いせいもあったが、伶弥は下心を持った女性を冷たくあしらうとわかっていたからだ。
今思えば、無意識のうちに驕っていたのかもしれない。伶弥にも恋愛をする自由があったし、その相手が詩陽でなくてはならない理由もないのだから。
それでも、詩陽はずっと変わらない伶弥の真っ直ぐな瞳を、ただ無条件に信じていた。
そんな詩陽が、今、藍沢を意識している。それは、これまで感じたことのない漠然とした不安を覚えているせいだ。
詩陽は後ろから抱き締めてくれている伶弥を振り向いて見つめる。
「藍沢さんはどんな感じ?」
「……変わった子ね」
伶弥は上を見て、少し考えた後、ぼそっと呟いた。
「変わった子? 可愛い子、じゃなくて?」
「可愛いかしら?」
不思議そうな顔で聞き返す伶弥を見て、詩陽はホッとしたが、すぐにそんな自分に驚いた。誰が見ても可愛らしい外見をしているし、仕草も口調も女の子らしくて、守ってあげたくなるような雰囲気を持っている。
あまり接していない詩陽がそう思うのだから、一番近くで見ている伶弥はもっと実感していると思っていた。
「可愛いでしょ」
あの子が可愛くなかったら、もともと可愛くない詩陽はどうなる。伶弥はムッと口を尖らせ、そっぽ向いた詩陽を後ろからぎゅっと抱き締め、髪に口づける。
「詩陽より可愛い子なんて、この世に存在しない」
そう言って、伶弥は首筋に唇を押し当てる。少し擽ったい触れ方に、詩陽は肩を竦めた。
「甘い」
「もうっ」
伶弥の囁きを聞いた詩陽は勢いよく立ち上がる。伶弥はその勢いに負け、ソファーの背もたれに背中をぶつけた。詩陽は振り向き、伶弥の鼻先に指を突き付ける。
「キスしすぎ!」
本当は嫌じゃないくせに、詩陽は真っ赤な顔で目を吊り上げる。ぽかんと口を開けていた伶弥だったが、すぐに口元を緩めて、体を起こした。
伶弥は素早く手首を捕まえて逃げられなくすると、鼻の頭に触れていた人差し指をぱくりと咥えた。指先に舌が絡み、背筋が震える。
わざとらしい程のリップ音と共に解放された瞬間、詩陽の唇から小さな声が漏れた。
「だって、いくらしても足りないんだもの。本当はずっと繋がっていたいくらいなんだから」
「バカなの⁉」
伶弥はクスクスと笑い、羞恥で震える詩陽の掌に唇を押し当てた。
「どうしよう。食べちゃいたい」
「私は食べ物じゃない!」
詩陽の返しに、伶弥は楽しそうに笑う。詩陽は頭の中が大噴火しているというのに。
「ほら、ここにもキスしてあげる」
伶弥はそう言って、詩陽の手を引き寄せ、服の上から下腹部にキスした。詩陽の腰に長い両腕を回り、ぎゅっと抱き締められると、大好きな爽やかな匂いが強くなった。
甘えるように詩陽にぐりぐりと額を押し当てていた伶弥が、少し顔を離した位置から上目遣いで見つめてきた。その涼し気な目元にはいつの間にか熱が籠っていて、詩陽の顔も熱くなってくる。
きゅんと鳴いたのは、心臓なのか、体の芯なのか、どちらだろう。
熱くなってくるのは顔だけじゃない。まだ何もされていないのに、奥の方から熱が広がってきて、血液を沸騰させようとでもしているみたいだ。
「エッチ!」
「知ってる」
震える唇で抗議したのに、伶弥は可笑しそうに笑うだけだ。次はどう罵ろうかと考えたが、また伶弥は詩陽を抱き締めて、顔を隠してしまった。
いつもは上の方にある頭だが、今はちょうど触りやすい位置にあって、詩陽は罵ることも忘れ、髪を梳かすように撫でた。伶弥がくすぐったそうに肩を竦めたのを見下ろし、詩陽も自然と笑顔になっていた。
「詩陽が心配するようなことはないから」
下の方から聞こえた言葉に、詩陽はドキッとした。
「べ、別に、何も心配してないから」
「そう? それなら、いいんだけど」
クスクスと笑う伶弥の頭をぽこんと叩くと、サラサラの髪が詩陽の指を擽った。
詩陽はこの言葉にホッとした。油断したと言ってもいいかもしれない。会社では恐れられ、嫌われている伶弥が誰かに狙われることになるなんて、想像もしていなかったのだ。
あれから数日。詩陽の心の中にはもやもやとしたものが溜まり始めていた。
「来栖さん、これはどうしたらいいですか?」
デスクで企画書を作っていた詩陽の耳に、可愛らしい声が飛び込んできた。何気なく視線を遣ると、伶弥のデスクで、伶弥と藍沢が会話をしている様子が見える。顔を寄せ合って、一枚の紙を見ているせいか、やけに距離が近い。
二人が同時に紙から視線を上げ、見つめ合った瞬間、詩陽の胸に苦いものが広がった。
「いや、仕事だから」
詩陽は呟き、こっそり溜息を吐く。伶弥とまともに話をする社員は珍しい。そのせいで気になるんだと、詩陽は思っている。いや、思い込もうとしている。
そもそも、普通の人であれば、こうした社員同士のやりとりは当たり前のものだし、詩陽ですら男女ともに、よくやりとりしている。二人きりという状況はないが、昼食に西村がいることもある。伶弥が珍しすぎたのだ。
詩陽はまた顔の近づいた二人から目を逸らし、仕事を再開した。
「あの二人、ちょっと仲良すぎません?」
なんとか伶弥と藍沢を意識の外に追い出したと思ったら、隣にやって来た心葉が耳打ちをしてきた。
「そうかな?」
詩陽は敢えて視線を落としたまま、素っ気なく答える。
「だって、来栖主任があんなに丁寧に仕事を教えるなんて、ありえなくないですか?」
その言葉に、詩陽は言葉を詰まらせる。確かに、冷たく突き放して、人の成長を促すことの多い伶弥にしては、やけに丁寧に教えている気がする。気のせいだと思い込もうとしていたのに、他の人から見ても、同じ印象を受けるとなると、無視できなくなる。
「主任だって、教える時は教えるんだよ」
詩陽は自分の言葉に喉を絞められた気がした。自分の意思を無視するかのように、キーボートを叩く指が空回りし始めている。お蔭で、先程からミスタッチが増えていて、何度もバックスペースキーを押す羽目になっている。
心葉にこの動揺を気付かれたらどうしよう。そう思うと、より焦りが出てきて悪循環に陥る。
「いや、怪しいですよ。結局、主任も若い女の子がいいですね」
二十二歳だと言っていたから、詩陽よりも四歳も年下だ。若さを比べられたら、絶対に勝てない。
「なんだかんだで、藍沢さん、可愛いですし」
胸が痛い。いちいちもっともな言葉が鋭い刃物となって刺さってくるから、煩わしくて仕方がない。エンターキーの音と心葉の溜息が重なった。
余裕がなくて、心葉に話しかけられているのに、仕事を続けていることが失礼になることを失念していた。いつもなら、人と話す時は、必ず目を見るようにしているのに。
詩陽は手を膝に置いて、グッと握り締め、心葉へ体を向ける。
「確かに可愛いね」
上手く返事をしなければ、と思って返してみたが、思っていた以上に低い声になってしまった。心葉が驚いたように、詩陽を凝視している。
「いや、うん。主任も若くて可愛い子には、弱いのかもね」
詩陽は不自然さを誤魔化そうとして言葉を重ねたが、自分の首を絞めるような内容だったことに驚き、唇を噛んだ。後悔したが、当然、遅い。
「ことりさん! こうなったら、二人をくっつけましょうよ!」
「はい⁉」
「だって、藍沢さんとくっつけば、もしかしたら、主任も丸くなるかもしれないじゃないですか」
「いやいやいや……!」
「小鳥、香椎、うるさいぞ」
詩陽はブンブンと首を振って、拒否しようとしたが、タイミング悪く、当の本人から叱責が飛んできてしまった。
「すみません! ことりさん、今度、作戦練りましょう!」
「えっ、いや、待って」
詩陽は、満面の笑みを浮かべる心葉の腕を掴もうとしたが、残念ながらそれは空振りに終わった。藍沢と伶弥の間を取り持つなんて、どんな苦行だ。
だいたい、伶弥の彼女は自分なのに。そう思って、詩陽はガタンと椅子から立ち上がった。
「小鳥、静かにしろ」
再び伶弥の声が聞こえたが、それどころではない。詩陽が伶弥の方を盗み見ると、既に伶弥の意識は隣の藍沢にあるようだった。ツキンと鋭い痛みが胸を刺す。
詩陽はこれ以上二人の姿を見たくないと思い、慌ててトイレに向かった。
誰もいないトイレに駆け込み、鏡の前に立つ。そこに映る詩陽は、不細工な顔をして泣きそうになっている。
「何が彼女よ。付き合ってないじゃない……」
結局、詩陽は『付き合おう』とは言われていない。伶弥は好きだ、大切だとたくさん言ってくれる。それで満足していたが、恋人としてスタートとなる区切り言葉をもらっていないのだ。
恋愛経験のない詩陽は交際のスタートにはそのやりとりが必須だと思い込んでいる。やることをやっていたって、今日から彼氏彼女だと宣言しなければ、それば交際していることにならない。そうとしか思えなかった。
「伶弥は、どういうつもりなんだろう」
そう言ったものの、そもそも詩陽は一度も気持ちを口にしていないことに気付いた。返事をしていない状態のままだったのだから、伶弥も始めるに始められなかったのかもしれない。
詩陽は頭を抱えて、その場に蹲った。返事を保留にし、普段は冷たく遇う詩陽ではなく、若くて可愛くて、素直な藍沢を選んだって不思議ではない。
「どうしよう……」
もう手遅れだろうか。自業自得なのだから、伶弥の選択を尊重すべきかもしれない。
でも、大切な存在である伶弥を奪われるのは許せない。詩陽はしばらくの間、悶々と出口の見えない問答を繰り返した。
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