【29】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~
第29話 帰ろう
詩陽は目の前に立ち塞がる藍沢を見て、ポカンと口を開けた。
『伶弥のバカ! 伶弥なしでは生きていけないようにしておいて、藍沢さんの方に行っちゃうつもり? 昔も今も私には伶弥しかいないし、伶弥にも私しかいないでしょ⁉』
『今更じゃないですか? 来栖さんの気持ちを知っておいて、その上に胡坐をかいていたのは誰ですか?』
『それは、悪かったと思ってる。でも、手遅れだと言われても、私は諦めない。だって、私の好きな人は、後にも先にも伶弥しかいないから。伶弥、ごめん。ずっと言葉にしてこなくて。でも、私は伶弥が好き。大好きなの! だから、藍沢さんに伶弥を渡すことはできない!』
そんな怒鳴り合いのような会話の後、藍沢の笑い声と共に告げられたのは、『本当にバカな人たち』という言葉だった。
詩陽は開いたままになっていた口を慌てて閉じ、藍沢、そして後ろで目を見開き固まっている伶弥に視線を巡らせる。伶弥にも、藍沢の言葉の意味が分からないようだ。
突然、藍沢は詩陽の腕を掴んで引き寄せると、詩陽と場所を入れ替え、入り口側に立った。伶弥の体に肩がぶつかり、反射のように胸が鳴る。詩陽は体を離そうとしたが、それは伶弥の両腕に遮られ、後ろから包まれるように抱き締められた。
顔が赤くなっていくことを自覚した詩陽は藍沢に目を向け、首を横に振る。自分でも何が伝えたいのか分からない仕草だったが、藍沢はクスッと小さく笑った。
だから、これから何を言われるのかと身構えたのに、藍沢は優しい笑顔で、詩陽と伶弥を見つめ返してきた。
「俺、たくさん謝らないといけないんだ」
藍沢の言葉を待っていた詩陽は、不意に降ってきた泣きそうな声に顔を上げた。伶弥のすっきりした顎のラインが目に入り、次いで、涙がいつ落ちてきてもおかしくないような瞳に釘付けになった。
「……うん」
体中に力が入り、胃に鋭い痛みを感じた。今から伶弥に振られるのかと思うと、詩陽の方こそ泣きそうである。そう思っていたのに、伶弥の腕の力が強くなり、詩陽の背中が伶弥の体にピッタリと寄り添った。
「最初に伝えたいのは、俺の好きな子は詩陽しかいないということ。これは、これまでもこれからも、絶対に変わらない。だから、それを忘れずに聞いて欲しい」
詩陽の想像していた内容とは異なることに理解が追いつかず、詩陽はじっと伶弥を見上げる。伶弥の顔には詩陽以上に不安の色が浮かんでおり、少し突《つつ》くだけで弾け飛んでしまいそうな緊張感が伝わってきた。
「伶」
伶弥は詩陽の言葉を遮るように、その髪に顔を埋めた。熱い息が髪を揺らし、体の奥の方を締め付ける。
「実は、藍沢に頼まれて、恋人の振りをしていた」
ショックで呼吸が止まるなんて冗談かと思っていたが、喉が詰まり、まったく息を通さなくなってしまった。
聞きたくないが、聞かなくては進まない。詩陽は声ができない代わりに、伶弥の腕に手を添える。
その瞬間、伶弥の体が大きく跳ね、唾を飲み込んだのが分かった。
「藍沢が見合いを断るための口実だった。当然、俺である必要はなかったと思う。どんなことを言っても、みっともない言い訳にしかならないことは分かっている。でも、聞いてくれると嬉しい」
最後の方は消え入りそうな弱々しい声だった。詩陽は強引に伶弥の腕の中で向きを変え、背を丸めていた伶弥の頬を挟んだ。
「全部聞く」
詩陽は自分の声が思っていたよりもしっかりしていたことに内心で驚きつつも、真っ直ぐ伶弥の目を見つめる。怒るのは全部聞いてからでいい。そう割り切った途端、思考がクリアになった。
「ありがとう」
伶弥は眉尻を下げたまま、微かに笑みを浮かべる。これまでの長い付き合いで、伶弥が情けない姿を見せることはなかった。泣きそうな顔も初めてだし、弱音を吐くこともなかった。それほど、今回のことは伶弥にとって大変なことだったのだと気付き、詩陽まで胸が苦しくなる。
「詩陽を守りたくて、自分が少しの間だけ我慢すればいいと思っていたんだ。正直に詩陽に相談すればよかったのに、こんな話をして傷付けるのが怖かった。何より、藍沢に振り回されて、どんどん正しい判断ができなくなっていく俺を見て、詩陽が愛想付かすんじゃないかと思うと、頭がおかしくなりそうだった。だからと言って、今回詩陽を不安にさせたことも、裏切りのような行動だったことも、簡単に許してもらえるとは思っていない。だから、どれだけ時間がかかっても、許してもらえるまで償い続ける……本当に、ごめん」
詩陽は伶弥の頬を覆っていた手を僅かに浮かせ、パチンと叩いた。
「うん。簡単には許さない。でも、今回のことがなかったら、私は伶弥への気持ちをはっきりと自覚できないままだったと思う。だから、まずは少しだけ許す」
「詩陽……」
伶弥は壊れ物に触れるように、そっと詩陽の体を抱き締め直し、額に唇を当てる。詩陽も抱き締め返そうとした時だった。背後から咳払いが聞こえ、全身がガチリと固まった。
「ええ、いいんです。私のことなんて、忘れていただいても」
「や、これは、待って。ちょっと伶弥、離して」
「嫌だ」
詩陽はもがいてみたものの、却ってその腕の力は増してまった。
「お二人に、私からも謝らせてください」
その言葉でようやく伶弥の腕の力が弱まったため、詩陽は急いで体を反転させた。残念ながら、未だに伶弥の腕の中ではあるが。藍沢は真っ直ぐ詩陽を見つめ、それから伶弥を見つめて、深々と頭を下げた。
「私の我儘に来栖さんを巻き込んでしまい、その結果、小鳥さんまで傷付けることになってしまいました。本当に困っていたのは確かです。勢いで、来栖さんに話を持ち掛けたことも軽率だったと思います。すみませんでした」
藍沢の声が僅かに震えていることに気付き、詩陽は慌てて駆け寄ろうとした。が、伶弥に妨げられ、半歩も動くことはできなかった。藍沢は頭を上げ、所在なさげに指を遊ばせ、視線を彷徨わせる。
「藍沢さんにも、事情があったことは分かったよ。でも、その話だと、私に宣戦布告してきた理由にはならないよね?」
あの不安な一夜からの宣戦布告は、決して忘れることができないだろう。二人の間に何かがあるのだと思わされたのは、あれが決定的だった。
藍沢も伶弥が好きなのだと突き付けられたのだから、他に事情があるなんて想像できなくて当然だ。それに、取られて堪るかと独占欲を自覚した瞬間でもある。
「待て、宣戦布告だと?」
耳元から聞こえた声が地を這うような低い声だったことに驚き、詩陽は思わず肩を竦めた。その怒りが藍沢に向かっていることは分かっているのに、まるで自分まで怒られるのではないかと不安感を抱いたのだが、それはすぐに髪を撫でる大きな手が落ち着かせてくれた。
「お二人を巻き込んでしまった代わりに、私が力になれることをしたいと思ったんです」
「どういうことだ?」
伶弥の言葉に、詩陽も藍沢から目を逸らさず見つめる。どうやら、藍沢は思っていたよりも複雑な思考の持ち主のようだ。単純に恋愛の取った、取られたという話に繋がると思っていたため、まさか伶弥と詩陽のためにやったことだと言われるとは思いもしなかった。
「私、勘がいいんです。だから、お二人の微妙な関係にもすぐに気付きました」
「そ、それは、私たちが分かりやすいということでは⁉」
必死に隠していたつもりだったから、皆にバレバレだったとなっては、恥ずかしくて、明日から仕事できなくなってしまう。
「いえ、きっと誰も気付いていないと思います。来栖さんの気持ちと、小鳥さんの曖昧な態度。これを好転させられるのは、他人なんじゃないかなと思ったんです。だから、面倒なことをお願いし、お二人を苦しめる代わりに、嫌われてもいいから起爆剤になろうと考えました」
不意にドアの向こうから笑い声が聞こえて、伶弥と詩陽は同時に息を飲んだ。ここが職場で、まだ社員も何人かはいる時間だということを、詩陽はすっかり忘れていた。そのことに気付いた瞬間、先程までとは違った緊張感が体を硬くする。
「まさか……」
伶弥の呟きに、藍沢は大きく頷く。
「小鳥さんが来栖さんへの想いを自覚し、私たちの関係を妬き、前に進んでもらうことを狙いました」
詩陽は思っていた以上に正確に状況を把握されていたことに驚き、パチパチと瞬きを繰り返した。後ろからは大きな溜息が降ってきて、伶弥が呆れていることが伝わってくる。
「だったら、そう言ってくれたらいいんじゃないか?」
「もし来栖さんに話していたら、途中で小鳥さんのことが心配になって、作戦は中断していたと思います。だって、小鳥さんが傷付きながら、悩んでいる姿を見ていなければならないんですよ? 時間が掛かっても、助け舟を出さずに堪えなくていけなかった。そんなの無理ですよね」
詩陽は藍沢の言う通りだと思った。そんな状況になれば、伶弥は必ず本当のことを明かしてしまい、結局、詩陽はこの気持ちを明確なものにできなかったに違いない。それほど、伶弥が自分を大事にしてくれていることを知っているから。伶弥は詩陽が変わることよりも、自分が曖昧な関係を我慢すればいいと思っていたはずだ。
「だからって、こんな」
伶弥が口篭ったのは、やはりどこか納得する部分もあったのだろう。ただ、心情的に納得するわけにもいかず、複雑な思いが心を騒めかせているのだろう。
詩陽もそうだ。今回のことを素直に喜び、感謝するには、詩陽にとっても伶弥にとっても荒療治が過ぎた。
「私のやったことは褒められることではないと思います。お二人を振り回して、辛い思いをさせたのは事実ですから。来栖さんの逃げ場をかなり執拗に無くしていったので、来栖さんが小鳥さんに謝る必要はないです。私が勝手にやったことです。本当に、すみませんでした」
深く頭を下げる藍沢を眺め、詩陽は体に巻き付いている伶弥の左腕をきゅっと握った。その手に伶弥の右手が触れ、スルスルと幾度となく滑る。詩陽を安心させようとしているのか、伶弥の思考の整理のためにされているのか、或いは両方なのか。どちらにしても、詩陽の心を宥めるのに効果はあった。
「藍沢の言いたいことは分かった。流された俺も悪いから、一方的に藍沢を責めるつもりはない。でも、今は詩陽を二人になりたい」
伶弥の頬が詩陽の頭に愛おし気に摺り寄せられる。正直、詩陽も早く伶弥と二人きりになりたかった。藍沢に対する感情を整理するにも、ここでこれ以上話していても意味がないと思う。
藍沢は下げていた頭を上げ、もう一度『すみませんでした』と言って、給湯室を出て行った。
しっかりとドアが閉まるのを待って、伶弥は詩陽をくるっと回し、正面から抱き締めた。力強い腕に、引き締まった胸板。爽やかな伶弥の匂いと、心地良い温もり。どれもが、詩陽の心を揺さぶり、涙腺を刺激してくる。
「詩陽、帰ろう」
「……うん」
伶弥の声に焦がれる想いが乗っていることを感じ、絞り出した声が掠れた。恐らく詩陽も伶弥を強く欲している。
二人はそれ以上言葉を交わすことなく、冷静を装いながら会社を後にし、足早に伶弥のマンションへと向かった。
玄関を開け、そのドアが閉まった瞬間、詩陽の体は温もりに包まれていた。苦しい程の力なのに、今はそれすらも嬉しいと感じる。詩陽も伶弥の体に両腕を回し、胸に頬を押し当て、伶弥の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。髪を梳かすように滑る伶弥の指が心地良く、こめかみに触れた唇の熱さに腰が震える。
「辛い思いをさせて、本当にごめん。俺は詩陽の気持ちがハッキリしていなくても、一緒に居られたらいいと思っていたんだ。俺が愛していることで、詩陽が幸せだと思えるなら、同じ気持ちが返って来なくてもいいって。でも、本当は好きだと言ってもらいたかった。結局、俺は弱い」
そう言った伶弥の声が泣いているように聞こえ、詩陽は慌てて体を離して覗き込む。涙は流れていなかったが、伶弥は眉間に皺を寄せた険しい表情をしており、噛んだ唇からは血が滲んでいた。
詩陽は背伸びをして、その傷付いた唇にキスをした。軽く触れただけだったが、伶弥の唇から力を奪うには充分だった。
詩陽の不意打ちに、伶弥は大きく目を見開き、息を止めた。その隙に、詩陽は再び口づける。今度は傷を癒すように何度も啄み、両頬を包んで、伶弥の心の閊えが溶けて消えることを願った。
「伶弥、もう謝るのは無しにしよう?」
キスを止《や》めた詩陽は至近距離から伶弥を見上げ、優しい笑顔を見せた。伶弥だけが一方的に詩陽を悲しませたわけではない。それどころか、詩陽は長年、伶弥に我慢を強いてきたのだから、もしかしたら罪は詩陽の方が重いかもしれない。そう考えると、これ以上、伶弥から謝罪の言葉は必要のないものに思えたのだ。
大切なのは、二人のこれからだ。
「でも」
伶弥の罪悪感は相当なものなのだろう。伶弥の性格を考えると、それも理解できる。強いられたからといって、それを受け入れてしまった自分を許せないし、恐らくそれはずっと消えないものかもしれない。だけど、詩陽は伶弥の笑顔が見たかった。
「愛してくれるんでしょう?」
詩陽は少し悪戯な笑みを浮かべると、今気付いたといった様子で伶弥の瞳に力と煌めきが戻ってきた。それを見て、詩陽の胸が早鐘を打つ。
「これまで以上に、詩陽を愛するよ。俺の全てが詩陽のものだ」
伶弥はそう言うと、軽々と詩陽を抱き上げ、器用に靴を放り投げた。伶弥の靴も玄関に脱ぎ捨てられ、その乱雑な行為が伶弥の堪えきれない気持ちの表れのようで、詩陽は堪らず首に抱き着く。
伶弥から小さな笑い声が聞こえ、詩陽の胸が軽くなった。思っていたよりも、詩陽の胸にも閊えがあったらしい。
伶弥の向かう先は詩陽が望んでいるところと同じだった。リビングを通り過ぎ、寝室へ。そして、詩陽はそっとベッドの上に下ろされた。
心の中に隙間風が吹いていたから、最近では冷たく寂しかった場所。一緒に寝た日も、それまでのような温かさを感じることができなかったが、今からの時間は全く違うものになる。その確信に近い期待が、詩陽の体を疼かせる。
向かい合うように座った伶弥の両手が肩に乗り、遠慮がちにキスをされた。一瞬触れただけの唇の熱さが伶弥の興奮を物語っているはずだが、行動が伴わない気がして、詩陽は首を傾げた。
「詩陽は、俺の宝物なんだ」
伶弥が愛しむような笑顔を見せ、目尻を下げる。元々切れ長の目はクールに見えるが、今は穏やかで、少し可愛らしくもある。
詩陽は目元が熱くなっていくのを感じ、グッと唇を噛んだ。泣きたくないから。せっかく笑顔を見せ合える状況になったのだから、涙は合わない。そう思ったのに。
「その涙も一滴残らず、俺のものにしたい。詩陽の心も体も感情も、過去も未来も、全部、俺にくれないか?」
溢れた涙は頬を伝うことなく、ポロポロと膝の上に落ちて染みを作る。
「……じゃあ、伶弥も私に全部くれるの?」
「当たり前だろう。俺の全てが詩陽だけのものだ。もらってくれなきゃ困る」
詩陽は堪らず、伶弥の腕の中に飛び込む。危なげなく抱き留められ、背中を撫でられると益々涙が止まらなくなってしまった。悲しい涙じゃない。嬉しいだけでもない。この感情を何と表現すればいいだろう。愛おしくて、尊くて、玲瓏たる想い。
「返さないからね」
「俺も、頼まれたって返してやらない」
そう言って、見つめ合い、どちらからともなく唇を合わせる。軽い触れ合いから、深くなっていくのはあっという間だった。頬の内側を擽り、一つになろうと舌を絡め、官能を引き出そうと甘く食む。熱い吐息が雑じり合って、二人の周囲の空気が色を変えていく。
ゆっくりと後ろに倒され、見下ろす伶弥の瞳の奥に抑えきれない欲情を見て、詩陽の下腹部に熱が集まる。大きな手が詩陽の頬を包み、親指がひと撫でした。伶弥から感じる激しい感情とは相反するような優しい手つきに、詩陽も伶弥の髪を撫でて応える。
「大好き」
思わず零れた自分の言葉に、詩陽自身が驚き、心臓が暴れ出す。言葉が勝手に溢れ出す程、伶弥のことが好きだったのだ。今まで自覚できなかったことが信じられない。
「……こんなにも、幸せな気持ちになれるんだな」
伶弥の顔が歪み、詩陽の頬に雫が落ちてきた。
「たくさん待たせてごめんね」
「いい。そんなこと、全然問題ない。今、こうして想いを返してくれるんだから。俺にはそれが嬉しくて、胸が苦しい」
詩陽は愛おしい伶弥の頭を引き寄せ、抱き締めた。
これからは、たくさん言葉にしよう。照れくさくて、意地を張ってしまうこともあるだろう。真っ直ぐ、惜しげもなく想いをぶつけてくれる伶弥と比べると、上手く表現できないこともあるだろう。それでも、詩陽にできる精一杯の想いをぶつけようと思う。
流れる涙を拭うことも忘れ、しばらく二人は抱き締め合う。
少し意地悪な抱き方をするいつもの伶弥は鳴りを潜め、ただただ大切な宝物を壊さないよう、優しく泰然とした様子で甘く触れられる。
窓の外がうっすらと明るくなってきた頃、伶弥が何度目かの欲を吐き出した記憶を最後に、詩陽の意識は安らかな夢の世界へと誘われた。
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