【23】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~
第23話 駆けつけてくれるのは、いつだって
玄関のチャイムに気付き、詩陽は顔を上げた。
突然訪れた人の気配に心臓が跳ねる。ここに自分がいることを知らせることができない以上、助けが来るはずはない。期待してはならない。
詩陽はそう思って、ずっと膝を抱えて涙を堪えてきた。このチャンスを逃せば、二度とここから出られなくなるのだと思うと、否が応でも緊張は高まっていく。
詩陽はドアをジッと見つめ、息を殺した。この部屋は玄関からそれほど離れていないため、大きな声を出せば聞こえるはずだ。詩陽は甲斐の足音を聞きながら、両手を強く握り締めて、ドアの近くまで這って移動した。
玄関の開く音がして、小さな話し声が聞こえる。ごくりと息を飲んで、大きく息を吸い込んだ。
「助けて!」
ドアを力の限り叩き、大きな声で叫んだ。喉が強張っていたのだろう。その声は掠れ、思っていたよりも小さな声だ。
悔しさから唇を噛み締め、もう一度叫ぼうとしたその時、ドアの向こうから怒鳴り声と共に何かがぶつかるような音が聞こえた。
「な、なに」
誰かが何かを叫んでいる。低い声。甲斐の声ではない。まさか、と思った瞬間、詩陽はドアを何度も叩いた。
「伶弥! ここ! ここにいるよ!」
大きな音を立ててドアを叩く度に古い木のドアはガタガタと揺れるが、詩陽の力では開けることはできなそうだ。
だが、すぐそこに伶弥がいる。ずっと待ち焦がれていた、大好きな伶弥が。
「詩陽、今、助けるから!」
叫んでいる伶弥の声ははっきり聞こえるが、甲斐の声は聞こえない。何かを話している様子はわかるのに、内容がわからずに気持ちだけが焦る。
ドアを叩き続けていると拳がだんだん痛くなっていくが、何もできない今はどうしてもやめることができなかった。
「どけ!」
聞いたことがない伶弥の乱暴な言葉に、詩陽は目を見開き、ドアを叩くのを忘れてしまった。耳を澄ませていると、再び何かがぶつかる音と甲斐の呻き声がした後、慌ただしい足音が近づいてきた。
「詩陽! ドアから離れろ!」
伶弥の声が聞こえた瞬間、詩陽は考えるよりも先に、後ろに飛び退いていた。すると、まるで退くのを見ていたかのように、大きな音が響き、ドアから強い衝撃が伝わってきた。
だが、目の前のドアが開くことはなく、詩陽は焦れて両手の拳で太ももを殴る。こちら側からできることはないかと思い、部屋の中を見回すが、夥しい数の自分の写真があるだけで、使えそうな物はおろか、この部屋には何もないのだ。
「伶弥!」
恐怖が無くなったわけではない。だが、伶弥は絶対にここから助け出してくれるという確信が勇気と希望を与えてくれた。
詩陽がドアの木目を睨んでいると、繰り返し衝撃が訪れ、ついにメリメリという音と共に、ドアが内側に向かって倒れてきた。
両腕で顔を覆い、目を閉じる。足元から風が上り、詩陽の栗色の髪が舞い上がった。
「……伶弥」
「大丈夫か⁉」
その声に、勢いよく顔を上げる。部屋の中に入りながら両手を広げた伶弥を見た詩陽は、迷うことなく床を蹴った。
勢いよく腕の中に飛び込んできた詩陽を、伶弥は危なげなく抱き留め、力強く抱き締める。昔から知る心地良い匂いを胸いっぱいに吸い込み、その胸に頬を摺り寄せた。
「遅くなって、ごめん。何かされなかったか?」
「ううん、来てくれてありがとう。私はただ閉じ込められていただけだから、大丈夫」
それだけでも、全く大丈夫ではなかったが、詩陽はこれ以上、伶弥に心配をかけたくなくて、精一杯の虚勢を張った。
伶弥の大きな手が詩陽の頭を撫でると、固まっていた体と心からゆっくりと力が抜けていく。
「何、勝手に詩陽に触っているんだよ!」
突然聞こえた声に、詩陽は伶弥の腕の中で飛び上がった。そんな詩陽を宥めるように、伶弥の手が何度も背中を擦ってくれる。
「お前の方が勝手だろう! これは犯罪だ」
伶弥の怒鳴り声が、体にビリビリと響く。こんなに怒っている姿も怒鳴り声を上げる姿も初めて見た。詩陽はスーツを掴んでいた手を背中に回し、ぎゅっとしがみつく。それから鋭い視線を甲斐に向けた。
「私は、貴方のものじゃありません。貴方と一緒に住むことはないし、もう会うこともありません」
詩陽はすっかり震えの止まった手で伶弥の感触を確かめながら、甲斐を真っ直ぐ見据えて言い切った。一人では言えなかった。結局、伶弥の存在が、詩陽を強くするのだ。
「僕たちは愛し合っているでしょう?」
甲斐は血走った眼で言うと、詩陽の方に手を伸ばした。それを伶弥が叩き落す。
「汚い手で、詩陽に触るな!」
「お前が言うなぁぁぁ!」
目を吊り上げた甲斐は唾をまき散らし、聞いたことない程の大声で叫んだ。詩陽の体に力が入ったが、伶弥の大きな手が強く抱き締め直してくれた。
部屋の前には甲斐が塞いでいて、今のところそこを突破するしか道がない。既に冷静さを欠いている甲斐を見て、再び恐怖心が高まっていく。
体の震えが伶弥に伝わってしまうことが心配になり、詩陽はほんの少し体を離そうとした。
「大丈夫。絶対に、俺が守る」
場にそぐわないほどの穏やかな声に、詩陽はそっと見上げた。見下ろす伶弥は、いつもの優しい微笑みを浮かべている。詩陽がぎこちない笑顔を返すと、ぽんと頭を撫でられた。
「僕を無視するな!」
「もういい加減、諦めろよ」
伶弥は詩陽の体を隠すように向きを変える。その時、詩陽は甲斐の手がポケットに入っていることに気付いた。
詩陽はこれから起こることを想像し、血の気が引いた。
甲斐がポケットから出した手に持っていたものを見て、想像が確信へと変わる。ただ、非現実的で、それが自分の目の前で起こっていることだと実感が持てなかった。
反応できなかったのは、ほんの僅かな時間。
だが、甲斐の叫びの方が早かった。
「僕のものだ‼」
「くそっ」
甲斐の声に伶弥の焦った声が重なる。バタフライナイフが迫ってくるのが見えた瞬間、詩陽は突き飛ばされ、床に倒れ込んだ。
「伶弥!」
慌てて体を起こし、伶弥に目を向ける。そこにはナイフを握る手と肩を掴んで押さえ込もうとしている伶弥がいた。背は伶弥の方が高い。見た目には伶弥の方が有利に見えるが、じりじりと甲斐が押し始めている。詩陽は反射的に立ち上がった。
「来るな!」
間髪入れずに伶弥の鋭い声が、詩陽の行動を制する。
「でも……!」
何もできないもどかしさに、詩陽は行き場のない手を彷徨わせる。そんな詩陽に、甲斐の目が向いた。
「詩陽、詩陽詩陽」
甲斐は譫言のように詩陽の名前を繰り返す。今にも二人の力は均衡を失いそうだ。
詩陽の目に涙が溜まっていく。泣いている場合ではないのに。
伶弥は止めたけれど、詩陽の弱い力でも、伶弥の助けくらいにはなるのでは。
我慢の限界に達していた詩陽は、一歩、二人の方へ踏み出した。
その瞬間、甲斐は瞠目し、気持ち悪いほどの笑顔を見せた。
背筋が震え、詩陽の足が止まる。この些細な行動が、甲斐の異常な力を引き起こしてしまった。
甲斐は伶弥の手を振り解き、強引に伶弥を押しのける。その素早い動きに、伶弥は隙を浸つかれ体勢を崩した。
詩陽の手が捕まり、目の前にナイフが突きつけられる。照明の光がキラリと反射し、詩陽は顔を顰めた。
「詩陽詩陽詩陽詩陽」
壊れたロボットのような甲斐を、詩陽は茫然と眺めた。真っ赤になった白目。開ききった瞳孔。口元に付着した唾液。迫る刃先。
邪魔に思っていて伶弥ではなく、どうして詩陽に。
理解できないが、伶弥に危険が迫るよりはいい。極限まで追い詰められた詩陽はそんなことを考えた。
避けるだとか、反撃するだとか、そんなことはこれっぽっちも浮かばなかった。それが間違っていたのだ。
甲斐が横に引き倒され、その上から伶弥が乗る。もみ合う二人を見て、詩陽は叫んだ。
「やめて! お願い、もう、やめて……」
光るナイフが二人の間で見え隠れする。手を出したくても、為す術もない。伶弥の頬を刃先が掠めた。
一線の赤が走る。
甲斐の足が伶弥の腹を蹴り上げると、伶弥の力が緩んだ。
その隙をついた甲斐が飛び起き、詩陽に駆け寄る。
その様子はまるで映画のようにゆっくりだった。
遅れて立ち上がった伶弥の腕が甲斐の腰を掴み、引っ張る。その反動で、伶弥は甲斐と詩陽の間に入り込んだ。
詩陽の体が強く抱き締められ、次いで、ドンと強い衝撃を感じ、三人はもつれるように倒れ込んだ。
詩陽は後頭部を強く打ち付け、強い光が明滅する。伶弥の体が重く圧し掛かり、薄れゆく意識の中で、手に触れた温もりを掴んだ。
「伶弥……」
伶弥の無事を確かめたいのに、どんどん感覚はなくなっていき、遂に、詩陽は暗闇へと落ちてしまった。
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