ファンレター

12月15日でnoteを書き始めてちょうど1年がたった

文章は、私みたいな言葉や態度で何かを伝えるのが怖かったり苦手な人間にとって
唯一の表現方法であり救いとなるツールだった

高校で周りがやってるからという理由でmixiを始めて
そこの日記機能で初めて不特定多数の他者に向けて想いを綴る経験をした
何を書いていたのかは忘れたけど、部活で毎日のように人格や存在を否定されていたから、それを吐き続けてた気がする
小学校から人格否定はあったけど、存在を否定されたのは高校が初めてだったから
多感な時期に吐く術があったのは今存在できていることを考えるととても良かったのだと思う

大学でメインツールがTwitterとFacebookに変わった
何となくTwitterはプライベート、大人の方がいるからと教えてもらって始めたFacebookはオフィシャルの認識だった
8年前のTwitterはガチる人なんていないし公式マークとかも無くて
「学校だるい」「楽しかった」くらいの“つぶやき”が流れてくる平和な優しいタイムラインだった気がする

ただ、私の生きる現実世界は平和じゃなかった
だから俗称“病みツイート”はとりわけ異彩を放った
つぶやくツールだと思ってたから
つぶやく権利があると思ってた
空気なんて現実世界で読めば許されると思ってた
でも違ったらしい

可愛がってくれていた人望の厚い偉大な先輩がいた
大好きでご飯にもよく誘ってくれた
でもいつしか呼ばれなくなった
SNSで病みツイートをする人は気分を害するから距離を置いているというのを後から友人づてに知った
SNSにも空気が溢れていたことを知った

詰んだ
でも吐かないと生きていくには過酷な環境だった
少しは我慢したけどそれなりに吐いた気がする
人と会わない時に刻一刻と抱えきれなくなる病を
吐いて吐いて吐き出しまくった

明日の朝学校で“普通の人”でいられるように


Facebookはギリ理性を保てていたらしく
どちらかというと人との繋がりの感謝が多く述べられていた
多感な自我形成の時期を人格や存在を否定されながら過ごし
大学では病んでいるという事実を突きつけられたものだから
どこか自意識の中に(こんな私と)という枕詞が全てにかかっていたのは口ぶりから明白だった
(こんな私と)仲良くしてくれるなんて
(こんな私を)可愛がってくれるなんて
(こんな私が)教育実習上手くいくなんて
そんな具合だ
二度目の大学に入り初めて人から尊敬されたり評価されることが、ありがたいことに増えてきたのだか
やはりそこには例の自意識がつきまとい上手く受け止めて自己肯定へと繋げることが今もできていない
言ってくださる方に申し訳ないし、我ながら可哀想な状況ではあるなと俯瞰し自覚もしている

前述の通り二度目の大学に入って否定されることが無くなったため
ツイートは一般的なものに落ち着いた
パワハラや弁護士案件など学外で従来通り苦労は続くわけだが
それでもメインとなる学生生活は人生で最も自分を受け入れてもらえたものだった

しかしである
評価が上がれば上がるほど尊敬されればされるほど
肯定感とのギャップが顕著になっていく
「すごい人」と言われるのが騙してるみたいで辛かった
そんな想いの中でちょうど昨年の今頃noteという媒体に出会った

ワンクリックの手間があるのでFacebookやTwitterのように意図せず他者の目を汚すことがないのが好都合だったし
いくらでも長文がかけるのが、言葉足らずで誤解されるのを恐れる自分にとってはありがたかった

初めて書いたのは辛かった今までの人生の振り返りだった
人によっては不幸自慢や悲劇のヒロイン気取りに捉えられてバッシングもあるかなって不安もあった
また、何より自分の生きることの下手くそさを露呈するのがめちゃくちゃに怖かった
でもその恐れは杞憂に終わり温かい反応ばかりで救われた気持ちになった
noteなら吐いていいんだなと思った(思ってしまった)

2作目からそんな不幸自慢だけの文は読みたくないという意見が届くようになった
過去自分をこき下ろしていた人が今更近況だけなんどもしつこく確認しに絡んでくるようになった

それでもコロナに巻き込まれて目標も無く
家に孤独に閉じ込められた時期に不安を吐く術は持っていたくて
「自分が赤裸々に吐くことで同じ苦しみの人の救いにわずかかもだけどなるかもしれない。そのために書く。」
という都合の良い大義名分を掲げて書き続けてきた

実際に投稿のたびにDMやLINEが届くようになり、zoomで話したりnoteで支援してくれる人まで現れた
自分の長く拙い文の羅列に価値は無いと今でも思ってしまうのだが、それでもわざわざ「救われた」と伝えてくる方の言葉に私の方こそ救われ、支えられていたこの1年間だった


SNS上で尊敬している人がいる
くつざわさんとゆぴさんのお二人だ
二人とも本人は不本意かもしれないがキラキラした日常があり
その上でたまに吐き出す心の影の部分がギャップとなり人々を惹きつけて離さない
彼女たちが抱える心の影の部分は共感せずにはいられないほど私と一緒なのに
それを抱えながらも表では輝きがあせない
ただただ尊敬の念が絶えないのだ

かく言う私はデフォがネガティブに育ってしまった
新興宗教とかビジネスとか熱心なオファーがくるけど
そんなので揺るがないほどにそこで落ち着きこびりついてしまった
ネガティブな人がずっとネガティブな文を投稿し続けるって誰が読むんだろう、逆パワースポットかなってnoteの執筆が最近自己嫌悪になってやめていた

また、仲良くしてくれている人が不幸自慢は嫌いと言っていたのを聞いて
本当の私を知って欲しいから書いていたnoteを隠したいと思ってしまった


だから年末で1周年区切りの良いこのタイミングでnoteを辞めようと思い書いた
全てをぶちまけた2500字越えの超大作
果たしてここまで読んでくれている人はいるのだろうか

全部想いを吐き出して書いてたら
半ベソかいてメンブレしてた
ベットでふて寝しようとしたら玄関の郵便受けに何か入れられる音がした

手紙だった

私を慕ってくれている学生からの手紙だった

中身に“ファン”の文字
生まれて初めてのファンレターだった


その子には先日自分の人生やネガティブなメンタルを全て話す機会があった

それなのに・・・





いつ普段通りのネガティブに戻るかわからない
それでも


せめて明日だけは
胸を張って前向きに生きようと思った









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