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全産業xデジタルの可能性に賭ける   積木製作の創業ストーリー

今回は、弊社の代表取締役、城戸太郎の生い立ちから積木製作の創業に至るまでのストーリーをまとめたみた。

生い立ち
昭和48年福岡県、両親ともに公務員という家庭に四人姉弟の双子の長男として生まれ、幼い頃からとにかく外で遊ぶ事が大好きな男の子だったという。両親からは、「一生懸命楽しく遊びなさい」「人の面倒をよく見なさい」「リーダーになりなさい」「弱い者いじめはするな」そして何より「正義感」を育てられた。「人がやらないことを率先してやりなさい」という事は常に言い聞かされていた。真面目な反面、よくいたずらもしたし、ガキ大将とまではいかなかったが、ケンカも弱い方ではなかったと幼少期を振り返り、楽しそうにいう。家族や兄弟、地元での話をする城戸は本当に少年のような顔になる。数々のいたずらや双子のケンカエピソード(は絶えないので今回は割愛させて頂きます)を聞いていると、かなりわんぱくな少年だったことが伺える。

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地域柄なのか、当時の風潮からなのか「初志貫徹」な考えのもと、勉強もスポーツも何事も真剣に取り組むという精神で、野球、剣道、ラグビー部等に所属。「文武両道」をモットーに辛くても、苦しくてもやりたいことを公言したら、全うする教えのもと勉強との両立もやり遂げ、 高校は、県内でも指折りの進学校、明善高等学校へと進学する。一方で、地元の優秀な生徒が集まる進学校だったためか、周りには弁も立つがルックスも良い同級生がゴロゴロといて、そこで自分より優れている人がたくさんいる事に気付かされ、世の中の広さを知り、同時に自分の向き不向きも学ぶいい機会になったと振り返る。

 小・中学生の頃は将来、弁護士になりたいと思っていたというが、高校生になり一時は医学の道を目指していた時期もあった。だが、テストで高得点を取れない自分の実力から医者は向いてないと諦めてしまう。「ほら、俺、国語力ないでしょ!?」と言って笑う。もともと企画や構想が好きで、何より画を描くことが好きだった事から夢は医者から建築家へと変わり始める。

   高校3年生になると、経済的な理由から浪人するのは(双子のうち)どちらかだけだと両親から言われたそうで、城戸は確実に受かる国立熊本大学を迷わず受験したという。合格を知った父親からは、「お前は熊大受かったんだから、そこ行け」と言われた。それは暗に、弟(以下:次郎さん)が浪人生になる事を意味していたらしい。そもそも確実に受かる大学を受験していた城戸は、幼い頃から自分より優秀だった次郎さんが九州大学を目指す事も知ってての進路選択だったという。
城戸は当時をことを、一切遊ばない、勉強とバイト漬けの4年間だった―と自身を振り返る。

 次郎さんが九州大学に行き、自分は二流大学という劣等感に似た気持ちがあり、絶対負けてられないという気持ちが芽生えたため、周囲の友達がサークルや部活などを謳歌している間、城戸はひとり必死に勉強していたという。大学では三年間、内野教授の自由空間研究会に在籍。そこは有志の集まりであったが、模型を制作したり、自由な発想で間取りを考えたり、コンセプトをまとめた課題を、教授の前でプレゼンする日々で、常に課題に追われていて辛かったが、たくさんのことを学ばせてもらったと話す。しかし、次第にアーティスティックなコンセプトや奇抜なデザイン重視で、雨漏りするような建造物にも、「おしゃれなデザインは機能の一部だ」という建築の教えに疑問を感じ始めため城戸は離籍する決意する。それは城戸本人が本当に身に着けたかったものが「現実的に使える技術」であることに気付いたためであり、その後は多くの教授のもとで課題をこなし、興味のアンテナを他に向けていくようになったという。

 その後、大学院に進学し、建築デザインをCAD、プログラムを駆使してどう建築が変わっていくかなど、意匠系のCADを研究する両角研究室に在籍。元々アナログ派で、スケッチや模型が大好きで、初めは全く興味がなかったというが、自分に持ち合わせていないこのデジタル技術は、今後必ず必要となる!と強く思い、CADや3Dソフトにのめり込んでいったという。また、在籍中に参加した、3か月に及ぶエジプトでの発掘調査などは、海外での生活や人々との触れ合いがとても貴重な経験になり、大切な思い出だそうだ。
当時出会った、本間先生からかけられた「物事はすべてインプットとアウトプットである」という言葉はとても印象的に覚えている。

大手ゼネコン会社に就職、そして独立
 大手ゼネコン会社熊谷組に就職し、諸先輩方から叱咤激励されながら、設計に携わり、あらゆる事を学ばせてもらったという。忙しい業務の傍ら一級建築士の資格も取得し晴れて建築士となった城戸だったが、設計者という重く苦しい立場の仕事にやり甲斐を感じる事ができず、それよりも自分のスケッチで建物を視覚化することや三次元にすることで、現場やお客さんに、もっと建築を分かりやすく伝えることができるのではないか。と考えるようになったという。それは、設計者とも現場とも渡り合え、お客さんの気持ちも理解できる、自分にしか出来ない事で、CG制作業であれば誰よりも上手くやれるのではないかという思いが芽生え、5年務めた熊谷組を退職を決意し、独立する。
「図面はプロが読むためにある」という考えは今も変わっていない。

 退職後、CG制作会社を立ち上げ城戸は、当初全く貯金がなく、CG制作に必要なソフトを奥様に買ってもらったという。更に当時は奥様の実家に居候していたため、さすがに一銭も稼がない期間が3~4ヶ月続いた頃は、奥様やそのご家族への申し訳なさで、とても心苦しく肩身の狭い思いをしたという。程なくして、城戸は家庭教師時代の教え子にパソコンやシステムに詳しい生徒がいたことを思い出し、一緒にCGをやってみないかと声をかける。すぐに彼から「一緒にやりたい」返事をもらったが、実際、城戸は「本気か?」と半信半疑だったようだ。彼の本気度や決意を見極めるため、二人だけの台湾一周バックパックの旅を決行。言葉の通じない外国で不自由な旅を続ける中で、出会った時は中学3年生(城戸は大学生)10年が経ち大人へと成長した彼の内面を確かめる旅行にしたかったようだ。道中、彼は食事する店を探す時も、宿を探す時も常に城戸の後ろから着いてくるような、「THE消極的」という受身の姿勢に、「ホントにこんな子とやっていけるんだろうか?」と内心不安になったという。しかし、とある温泉に行った時のこと、いつの間にか現地の人たちと仲良くなって、露天風呂に居合わせた子供たちをゲラゲラと笑わせている姿に、彼の無邪気な性格や、素直な人への愛情や人間味を感じられた瞬間だったと話す。その教え子というのが、現在カンボジアを生活の拠点として積木製作のモデリングを担っているビスケットランド代表、境大輔氏である。旅の最終日、台北で待ち合わせた奥様と3人で、高級台湾料理店へ足を運び(貧乏旅行の初の贅沢だったらしい)、豪華な食事を囲みながら、これから一緒に頑張っていくぞ!とお互いの気持ちを確かめ合ったという。その夜は、長旅でヘロヘロに疲れていたが、酒の飲めない境氏と奥様を相手に熱く未来を語ったという。この瞬間が、積木製作のはじまりとなったそうだ。

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台湾から日本へ戻ったあと、退職後にたまたま参加したAutodeskのセミナーでパース制作会社をしている熊谷組時代の先輩、田中氏に再会。技術に伸び悩んでいた事もあり、彼の元でアルバイトとして働き、CGのスキルを磨いたという。その頃、境氏の上京に合わせ、行徳での共同生活をスタートさせる(新婚なのに別居がはじまる)。まだCGの技術がない境氏は、昼はコンビニでアルバイトをしながら、夜は城戸が先輩から学んできたスキルをひたすら覚えるという日々が続いたようだ。
そんな中、熊谷組の大先輩である大澤氏から連絡が入る。城戸は自分で手がけたパースを持参し先輩のもとへ。そのパースを見て「お前もやればできるじゃん、少しは苦労したな!今度使ってやるから、絶対に俺に恥じかかせんな」と言われたという。この一見冷たいようにも聞こえるこの言葉を、城戸は「あの大澤さんが使ってくれる!!」と自分の技術が必要とされている喜びと、やっと恩返しが出来るという想いで、ものすごく嬉しかったと話す。
その大先輩、大澤氏からの仕事が積木製作の最初の案件となる。

積木製作を設立
ここで城戸に積木製作という社名の由来について聞いてみた。
 立ち上げ当初、未熟な二人だけで会社を作っていくんだから、泥水をすすってもいい、底辺でもいい、人を裏切らず、背伸びせず、オシャレじゃなくてもいい、地道に真面目に、ひとつひとつの積み重ねで応えていく、制作していくという決意の気持ちを込めたかったと話す。ただ美しいものを描けばいいというわけではない。説明的な画を求められている場合、写実的なものを求められている場合、その時その時でクライアントが求めているものを、プロジェクトの想いなどを感じて、誠実に応えていくのが仕事であるという話す城戸は、そういった姿勢を表すのは、「英字」ではなく「漢字」で社名を表したかったようだ。
また、創業当初から常に危機感を感じながら、無我夢中で突っ走てきたというが、それは立ち止まったらマイナスな事を考えるから、突っ走る。ただそれだけ。そうするとやるべき事の順番が見えてくる、そして最終的な答えがでたら翌日行動するのみと城戸は語った。そして、もう絶対無理!って思った時に、「必ず俺、神風が吹くんだよなー」と冗談まじりに付け加えた。

設立から18年経った今でも城戸が大切にしている価値観について教えてくれた。
 まず一つ目に、ダサいことをいかにカッコよくやるか、これは積木製作の社名にも由来する考えで、地道そして真面目に、ひとつひとつの積み重ねという気持ちを大事にしている。二つ目に、未踏の地をいくことに怖がらない。その姿勢が僕の存在意義でもある。という。三つ目、自分が考える社長像でもあるようですが、皆が生き生きとするための理屈を考える黒子でありたい。四つ目、新たな夢への挑戦で、残念ながら積木を離れる人に対して、教育でどれだけ金をかけたかや、時間を割いたかなんて説教すべきではない。それはその人の人生であり、新しい道を歩んでいく人を引き留めるべきではないし、気持ちよく送り出して夢を応援したい。そして五つ目に、仲間である社員を家族より何よりも大事にする。という社員ファーストを常に考えているそうだ。

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課題と可能性
積木製作の今後の課題について聞くと、
 企業としてもまだまだ発展途上であり、設立当初では想像も付かなかったが、4つの部署もあり、伸びしろの多いスタッフが在籍していている。このメンバーたちが出来ない理屈を並べるのではなく、悩み事を共有し合い、物事をプラス思考に変えて考えて解決していける組織を今後は作っていってほしい。そして顧客が何を求めているのか?世の中が何に不自由で不便なのか?迷わず新しい技術にチャレンジして進んで取り組む事で、世の中の期待に応える企業を目指してほしい、全スタッフにはコロナによるリモート環境の迅速な業務の効率化のように、そこにどう順応し、最短距離でアプローチできるのかを常に考えるプラス思考を持ってほしい。それと同時に、城戸は社員から発想の自由を奪うことのない企業でありたいと思い悩み、立ち止まり、まわり道をしてもいいじゃないか!!前に進めばそれで良し!!とスタッフへの熱い思いを語ってくれた。そして最後に、枠にとらわれていない我々の3D技術は、今後、全産業に通ずるものになる。積木製作は、大きな可能性と発展期を向かえていくよ とニコニコと楽しそうに少年のような笑顔で話してくれた。

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常に自然体で聞き手の緊張をほぐしてくれる城戸社長の人柄が垣間見えた貴重な時間でした。初めてのインタビューにも関わらず、赤裸々にお話頂きありがとうございました。

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