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【全作読破 第1回】『冥途』をよむ。

 みなさまこんにちは。内田百閒全作読破、ようやく本編を始めます。

 企画の説明はこちら。月に一〜二回更新できればいいなという、これから年単位かけるつもりの計画です。さて、それではいってみましょー!

第一回目は、創作集『冥途』です。

 大正11年(1922年)2月、稲門堂書店刊行。内田百“間”は33歳。今からちょうど100年前です。短編小説…と言うにも少し尺が短いような、文庫本にして各編3〜12ページ程の話が18本収められています。

 内田百閒は『冥途』に始まる。初の単行本であり代表作です。刊行順に読んでいくこの企画も、もちろん『冥途』から始めます。

 しかし私にとってはいきなりラスボスと対峙するような難しさがある。最初っから気も腰も重い。いや好きなんですよ。好きなんですけども、「得意」かと言うとそうではない作品で……。

 なんというか、読む時のコンディションや感度にだいぶ左右される読み口なんですよね。一文一文が沁みるように読める日もあれば、つるっと走り抜けてしまってあまり残らない日もある。初めて読んだ時なんて、それこそ「??なんだったんだ今の??」くらいのあっけなさでした。

 もちろん、それはあくまで「私にとっては」の話です。合う人はいつだってしっくり来るでしょう。求めているものはこれだ!となる人もいる。いっぱい観測してきたもんそういう感想。

 しかし私はそんな風にこの作品たちと「合う」部分があまり多くはなくて、没入しきれないところがあるわけです。そのため、元の感性が『冥途』と「合う」方々に対して、羨ましさとコンプレックスが少しあります。いいな…私も「そっち側」の人間になりたい…。しかしこればかりは感性の話なのでどうしようもない。

 ただ、歳を重ねるほどに読んでいて「わかる」部分が増えてきてはいて、それはきっと私の中に蓄えられてきた経験や感情や景色の記憶の幅に、『冥途』の感覚と「合う」部分がいくらか増えてきたのでしょう。読む度にまた違う味わいを得られるのが読書のいいところです。これからまた定期的に読み返しては、その時々の「合う」「合わない」を確かめていきたいですね。

見たままに書いた夢の話である。

 ……と、芥川龍之介は「点心」で冥途を評しています(青空文庫で読めます)。私が改めて作品と向き合うようになってから、何度も思い出す表現です。『冥途』の内容と味わいについて考えるほどに、芥川の評がしっくりくる。

 先ほど私はあまり『冥途』と感性が合わなくて…という話をしましたが、それでもこの作品群が好きで、何度も読みたくなる理由のひとつは、夜見る夢としての質感がすごいからです。

 『冥途』収録作品をどう言い表したらいいのかはだいぶ難しいのですが、今のところ私には「夢の写生文」と言うのが一番しっくり来ます。

 そんな解釈をしたのは、2021年岡山・吉備路文学館における内田百閒展オープニング講演会で、百閒の文章の道の出発点に、「俳句」と「写生文」があるという話を聞いていたから。

 百閒は17歳のとき、雑誌「ホトトギス」連載後に単行本として刊行された夏目漱石『吾輩は猫である』と出会い、漱石作品にのめり込みます。そうして自分でも文章を書いて、「中学世界」「文章世界」などに投稿するようになる。その時の文章は紀行文や写生文、短い小品です。小説を書き始める前に、そういった文章の修練があった。

 写生文の定義については、私はいまだによくわかってないところもあるのですが、まあ基本は「見た通り、感じた通り」に、絵画の写生のごとく物事を写し取った文章で、正岡子規が提唱し、雑誌「ホトトギス」界隈を中心に盛んになったジャンルです。漱石の『吾輩は猫である』も写生文とされています(と、いうのが、じゃあ小説と写生文の境界ってどこよ??と毎度よくわからなくなるのですが)。

 子規が病床から見た庭の自然物を写生したように、漱石が猫の目を借りて世の中を皮肉に写し取ったように、百閒は夜に見る「夢」を見つめ、観察し、分析して、かつて見た夢やこれから見るかもしれない夢の景色を写生文としてまとめたのではないか。もちろん『冥途』に載っているのは短いながらも筋のある小説です。実際に百閒が見た夢をそのまま書いたわけではない。だけど書き方として、写生文の手法や感覚があるのではないかと、そう勝手ながら思うのです。

 これらは創作物として、本物の夢よりも夢らしく、綿密に練られた文章でもある。そのため、これらの話では人の夢を追体験して読むことができる。

 考えてみれば不思議ではあります。人間は他の人が見ている夢を見ることができません。だから、もしかしたら自分が昨夜見たような夢を見ているのは、実はこの世に一人だけなのかもしれない。だけどそうではないことが、『冥途』を読むとわかるんです。そうそう、夢ってこういうとこあるよね…という共感の元がそこには描写されていて、明治に生まれた百年前の人間も、現代の私と同じような夢の見方をしていたのだとわかるわけです。

 それは『冥途』が持つ普遍性で、時代が変わっても残る強みです。それぞれの話にはじっとりとした明治大正の風俗がまとわりついてはいますが、夢はいつの時代にも変わらない質感を持っていて、それが描き取られているために、古くさい遺物として置いていかれたりはしない強度がある。…と、私は思っています。

『冥途』収録の作品について

 今後、随筆本など収録作品が多い巻は3、4本をピックアップして感想を書こうと思っていますが、今回はボリュームもそんなにないので18本全てについて書きます。あらすじを語ると全部言ってしまうような短い話も多いので、そのあたりにはあまり触れず、一言二言の自分用メモのような感じです(高尚なレビューを期待してはいけません)。

【花火】読むとうなじがゾワッとする。状態としては燃える葦の方が大変なことになってるはずなのに、冒頭の音のない大きな波の方が強く印象に残っている。女について突然思い出す瞬間の、夢の中特有の唐突な万能感が鮮やか。

【山東京傳】冒頭で毎回『夢十夜』ぽいな〜と思うけど読んでいくと夢十夜ぽさはない。蟻ーッッとなったあとでの最後の一文でふふっとなる。

【盡頭子】「女が可愛くなつて来た。」からの間男アタフタ展開に、読んでいてこちらもハラハラする。どんどんその設定のまま進むところが、不安ながらも可笑しくて、最後にゾッとする(ちょっとユーモラスでもある)。

【烏】羽根をむしる時の謎ルールがさも世界の道理のように話されるところ、とても「夢」あるあるだな…となる。得体の知れない宿の、どんなに見ても形のわからない置物。

【件】冒頭の「色計りで光がない」月。光源の見えない、それでも暗すぎず何故かものがよく見える色合いが、私のイメージする百閒の小説作品の色合いの元になっていたのに今回気づいた。幅広い広野の中で化物の「件」になってしまって、よくわからない化物なのにいやに設定が詳しくわかって、獣の不気味さと自然の天候を感じた後での、突然の人事による身近な生々しさ。いきなり距離が詰まってまた解散する最後ののんびりとした感覚。

【木霊】思い出すのが恐ろしいけれど、思い出そうとしてしまう。帰ろうと思うのに、「堪へられない程淋し」くて、夢中でそれを追ってしまう。

【流木】崩れていく足元からの、(きっと目が覚めて冷静に考えたらそんなことはないのに)罪を犯してしまった、一線を超えてしまった感覚につられてウッ…となった直後の最後の仕草、だいぶ面白い。

【蜥蜴】『冥途』に出てくる女の人、基本的にみんなヤベー女だし絶対関わり合ってはいけないんですが、それでもめちゃくちゃ可愛く見えるのは何ででしょうね…。この話の彼女が一番可愛いと思うんですが、コケットリーがヤバさと比例してる気もします。最後特にヤバい(物理)。

【道連】星の「散らかつてゐる」空の美しさと、よそよそしい人家の灯り。「他人の家の灯りさ」からの距離の急な詰め方にゾワッとする。畳み掛けてくる「道連」の勢い。「生まれて一度も人を呼んだことのない言葉」。

【柳藻】殺…えっ!?となりませんでしたか、私は割と毎回なっています。そう来る…。もう全体的に女難があるんじゃよ。

【支那人】「支那人」の印象が可愛くもあったり、頼もしかったり恐ろしかったりと、ころころと転じるのが楽しい。

【短夜】大変台無しなことを言わせて頂くのですけれども、モニタリング番組パロディで見たいです(???)。幕落としの放り出される感覚が鮮やか。

【石畳】ルールがわからないところで何かをしなくてはいけない夢、時々見ます。沈黙と拍手の恐ろしさからの、最後「エッ?」と放り出される感覚(またもや)。

【疱瘡神】それそのものは目に見えない、だけど結果としての症状は恐ろしく現れる「病気」が近づいて、追い立てられて、とうとう「もう駄目だ」となる悪夢の感覚そのもので、「み、見たことある…」となる。

【白子】「白子」の描写がおかしくもあり、だけど起きたことは凄惨で、気持ち悪くなっているうちに耐えられない笑いに繋がって凄惨さがよくわからない方向に向かう。笑いすぎて息を苦しくさせながら目を覚ますやつですね、これ。

【波止場】終わりのところ、その男の美しさが鮮やかにイメージできてしまってからの、最後の一文。なんだかちょっとおかしみがある。

【豹】初めに読んでびっくりして以来、最後の場面がみんなで仲良くワッハッハ、という風に見えてしまうんですけど違うんですよね。こう…実際には嘲笑とかで…。だけど最初に見えた絵本みたいな画がずっと頭に残ってて、読むとにこっ…としてしまう。

【冥途】「その声」の語る情景が、落ち着いた、よく耳に入るナレーションのように聴こえてくる。その語りが進むほどに鮮やかに「わかって」いって、そうだと理解した時にはもう置いていかれる。

『冥途』が世に出た時代

 雑誌「新小説」等に『冥途』収録の作品が掲載されたのは1921(大正10)年。同じ年に発表された他作家の作品は、菊池寛「蘭学事始」「入れ札」、芥川龍之介「秋山図」「山鴫」、志賀直哉「暗夜行路前編」、武者小路実篤「或る男」、小川未明「赤い蝋燭と人魚」、佐藤春夫「黄五娘」「星」など。

 文学年表から有名どころをピックアップしているとはいえ、なかなかのラインナップで…この中に混じる『冥途』掲載作品を思うと、やっぱりこう…独特だよなぁ…と。

 さらに澤村修治『ベストセラー全史【近代篇】』で大正後期を見てみると、倉田百三『出家とその弟子』からの宗教的著作人気、社会主義についての本の売れ行き、島田清次郎『地上』の爆発的ブーム、谷崎潤一郎作品絡みの愛欲肯定…と、眺めるほどに「ここに…冥途が…」という気持ちになります。魑魅魍魎のいる大海に手漕ぎの小舟で乗り込むようなもの…。時代の波に乗るには、ちょっとジャンルがね。違いますよね。

 また、『冥途』が単行本として刊行された1922(大正11)年には芥川龍之介「藪の中」「河童」が発表され、久米正雄は「破船」の連載を開始し、松岡譲は『九官鳥』を、中勘助は『銀の匙』を刊行していて、漱石亡き後の門下生たちが代表作を世に出しています。

 しかし『冥途』はこれといった評判も立たず、さらに翌年の関東大震災によって印刷紙型も失われてしまいました。

 1933(昭和8)年に『百鬼園随筆』がヒットし、1934(昭和9)年には『冥途』も再厥(けつ)版として再び世に出るのですが、それまでの11年間、文筆家としての内田百閒はひっそりと息を潜めるのでした…。(※とはいえ、その間も多くはないながらも雑誌に創作や随筆を発表しています)

 というわけで、次回はその11年の沈黙(してない)を破って堂々たるヒット作となった、『百鬼園随筆』を読んでいきます。

【参考】『冥途』を読むには

 この企画では、今はなき旺文社文庫で百閒作品を追っていますが、『冥途』は現在書店流通しているものでももちろん読めます。

 新刊で一番入手しやすいのは岩波文庫『冥途・旅順入城式』(緑127-1)でしょうか。他にちくま文庫内田百閒集成3『冥途』もまだ出版社在庫があります(こちらは巻末に芥川龍之介の百閒評も入っています)。また、金井田英津子の版画による文学画本『冥途』も、2021年に平凡社から新装版が出て入手しやすくなっています。

 他に、こちらは一般書籍流通ではないのですが、『初稿 冥途』がえでしぉんうみのほしから出ています。雑誌掲載時の表記を再現した本で、購入は書肆盛林堂で受け付けられています。

 古本では今回読んだ旺文社文庫の『冥途・旅順入城式』の他、福武文庫『冥途』もあります。

 番外として、漫画化されたものもご紹介しておきます。谷口ジロー『いざなうもの』収録の「いざなうもの その壱 花火」は、『冥途』の中の一篇(花火)を漫画にしたもので、谷口ジローの遺作です。最後まで描き終える前に亡くなられたため、後半は下書きでの掲載ですが、それでも伝わるクライマックスの臨場感と、その後の場面が素晴らしいので、ご興味ありましたらぜひ…(電子書籍あり)。

【今回参考にした本など】
・内田百閒『冥途・旅順入城式』(旺文社文庫)
・芥川龍之介「点心」(青空文庫)
・『内田百閒集成24 百鬼園写真帖』(ちくま文庫)※百閒の年譜と作品の発行・発表年月等はこちらを参考にしています。
・平山三郎『百鬼園先生雑記帳』(中公文庫)
・平山三郎『実歴阿房列車先生』(中公文庫)
・小田切進・編『日本近代文学年表』(小学館)
・澤村修治『ベストセラー全史【近代篇】』(筑摩選書)