どこへ行こうか【掌編】888字

 1人の旅人がある寂れた街の寂れた宿を訪れた。旅人は疲れていたのでカウンターで金を支払い鍵を受け取るとすぐに部屋に行ってしまった。旅人は懐から金を出した拍子に折りたたまれた手紙を落としてしまったのだが、この時点では気づかなかった。

 宿の主は旅人が支払った1枚の紙幣を手に取り、肉屋へ向かった。宿の主は肉屋にツケがあり、支払いを催促されていたのだ。旅人が来なければ支払いができないほど宿の経営は危機的状況にあった。そして、得意先に何度も催促をしなければいけない肉屋の経営も同様であった。しかし、一歩遅かったのである。宿の主はとんでもない光景を肉屋で目撃することになる。

 宿の主は肉屋へ向かう途中、アリの行列に出くわした。出くわしたといっても宿の主は気づいていない。しかし、アリたちにとってみれば大事故であった。アリの隊列は大いに乱れ、5匹が重軽傷、1匹が死亡した。巣穴到着予定時刻に45秒の遅れが発生した。

 45秒は短いようであるが、アリたちにとっては長い時間である。アリの行列の隊長であるリアは焦っていた。行列は持ち直すことはできたが45秒も遅れてしまった。巣穴に戻れば上司に嫌味を言われるだろう。それだけではない。最悪の場合、女王にもこの失態が伝わる可能性がある。この巣穴の女王、トンアにはある秘密があった。だからこそ時間にとてもシビアなのだ。

 トンアが女王になる前の話である。彼女が出身コロニーを旅立つ日、ある1匹のアリが死んだ。そのアリこそ、本当は女王になるべきアリだったのである。今はもう名前さえわからない。そのアリは他の大勢のアリたちと同じように1匹のチンパンジーに食べられてしまった。その日、その時間、その巣をチンパンジーが襲ったのは偶然だろうか。そのチンパンジー、アースの普段の餌場はかなり遠く離れたところにあったというのに。

 前日、アースはある夢を見た。人間だった頃の記憶だ。前世だろうか、そのもっと前だろうか、それはわからない。

 摩天楼の隙間からのぼる朝日を見ていた。眩しくて目をそらしたいと思った。でも、分かっていた。目をそらしたところで太陽はのぼるのだ。誰の頭上にも。


2021年7月


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見出し画像に写真をお借りしています。


爪に火を灯すような生活をしております。いよいよ毛に火を灯さなくてはいけないかもしれません。いえ、先祖代々フサの家系ではあるのですが……。え? 私めにサポートいただけるんで? 「瓜に爪あり爪に爪なし」とはこのことですね!