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石仏【掌編】(2,996字)

 怒り顔、笑い顔、泣き顔など様々な表情の仏像たち。仏像は赤ん坊ほどの大きさながら目の前に立つと見下ろされているようにも思える。特に憤怒ふんぬに顔を歪めた仏像には直視できない迫力があった。

 寺の門の上に無造作に並べられた六体の仏像。和夫かずおは日中、心奪われた仏像をもうひと目見たくてホテルを抜け出して来たのだった。妻の加奈子かなこは旅の疲れで寝てしまっている。

 定年退職して初めての旅行だった。この山陰の地は加奈子の希望である。和夫は近場の温泉地を提案したが、加奈子のたっての希望で縁もゆかりもないこの地を訪れることになった。

 行きの新幹線での会話の中で加奈子が山陰を希望した理由を聞いた。昼間見ているドラマの影響だと知った時は頭に血が上りそうになった。そんなくだらない理由で夫である自分の提案を突っぱねたのかと。しかし、せっかくの旅行だからと和夫は湧き上がる怒りを我慢した。

 年のせいかカッとなりやすくなっているのは自覚していた。若者に馬鹿にされる老人にはなりたくはない。区役所で課長まで務めたことに和夫は誇りを持っていた。

 座席の端を千切れるほど握りしめて抑え込んだ怒り。それが砂漠で見つけたオアシスのように一瞬で消え去った。さらに、たまには加奈子の言うことも聞いてみるもんだと、上機嫌で何度も何度も口にしたので加奈子に呆れられた。もちろん、それは目の前の仏像たちを発見したからに他ならない。

 ここは名のある寺ではない。ガイドブックにも名前しか載っていない寺。だからこそ感動もひとしおだと和夫は感じていた。もちろん寺の中にも仏像はあったのだが、和夫が気に入ったのは門の上の苔むした仏像たちであった。

 門と仏像を一望できる場所まで下がる。日中何度もシャッターを切ったのでベストポジションまで迷わずに来れた。離れて見てもその存在感は失せていない。凝縮され凄みを増したようにさえ思える。

 自分が見つけた、自分だけの仏像。和夫はそんな風に思いながら6体を眺めていた。ふと視界に黒い影が入り込んで来た。耳障りな排気音。バイクのようだ。自分だけの空間を邪魔されたのはしゃくだが、それほど遅い時間ではない。自分のように夜の仏像を見に来たのかもしれないと和夫は考えた。

 しかし、黒い影は和夫の目の前で思いもよらぬ行動に出た。バイクを降りておもむろに仏像の一つに手をかける。左右に揺らして台座から外す。一抱えもある石の塊に手間取りつつもバイクの荷台に乗せてしまった。

 和夫は初め状況が理解できなかった。驚きから立ち直った頭で業者だろうかとまずは考えた。修理か清掃のためにどこかに持ち運ぼうとしているのだろうかと。しかし、日が沈んでから一人で作業するだろうかとすぐさま打ち消した。

 これは紛れもなく窃盗だ。

 奴は陰から見ていた和夫には気づいていない様子。不審者に近づく恐怖よりも怒りが勝った。和夫はこれを正義感と認識した。六十半ばではあるが学生時代は柔道部。その辺の若い奴らには負けないという自負もある。

 黒い影は近づくと若い男だということが分かった。バイクの荷台にヒモで仏像を括り付けようとしている男は和夫には気づかない。仏像は和夫が一番に気に入った怒りの像だった。

 それに気づいた和夫の頭は一気に沸騰した。和夫は男に「オイ!」と声をかけながら、カゴのヘルメットを掴み男の後頭部に降り下ろした。

 殴りつけた瞬間、やってしまったと思う冷静な部分もあったが、鈍い手のしびれ、男のうめき、ドクドクと音立てる自らの心臓の音。これらは和夫の怒りを、興奮をさらに掻き立てた。

 手が止まらない。何度も何度もヘルメットを降り下ろす。ヘルメットと仏像に挟まれた頭はグォングォンと音を立てる。和夫の中の冷静な思考はもう手遅れだということを悟っていた。

 ヘルメットが大きくへこんだ頃、ようやく怒りが収まった和夫はまず周りを見まわした。運よく誰もいないようだ。ヘルメットをカゴに戻す。あれだけ執心していた仏像はもはや薄汚れた石の塊にしか見えなかった。

 ホテルとは逆の方向に歩き出す。大丈夫、大丈夫。冷静になれ。いまだ熱くなっている自分をなだめることから着手する。和夫は歩みを進める。

 二十メートルほど進んだ路上に男2人がたたずんでいた。まさか。

 先ほどはいなかったはず。見られてはいないと思う。和夫は二人に目を向けないように通り過ぎる。痛いほど視線を感じる。これは気のせいだろうか、それとも見られているのか。

 見られているとしたら、なぜ。興奮冷めやらぬ自分の挙動がおかしいのか、それとも見慣れぬ観光客に目を向ける田舎者の習性か。二人から十分離れた所で和夫は立ち止まる。

 自分を客観視してみることにする。夜の田舎が珍しくて散歩する都会からの旅人。そんないち観光客にしか見えないはず。鈍い痺れが続く両手を胸まで上げてみる。痺れからか恐怖からか細かく震えている。

 手を見るつもりで下げた視線が自分のシャツをとらえる。血だ。和夫のシャツには返り血が付いていた。先ほどの二人はこれを見たのだろうか。大丈夫だ。ここは電灯の下で明るいがさっきは暗かったはず。見られてはいないと和夫は自分に言い聞かせた。

 シャツは脱いで側溝に沈めた。肌着一枚になり少し肌寒さを感じた。しかし、熱くなった頭を冷やすのにちょうどいいと和夫は思った。

 俺は捕まるのだろうか。いや、こんな田舎の警察、すぐには動かないだろう。そもそもあいつも死んでいないかもしれない。今頃、バイクを走らせて帰っているかもしれない……これはありえないと希望的観測でしかないそれを和夫は打ち消した。

 こうしてはいられない。明日すぐにここを発とう。加奈子には急用ができたと言えばいい。貯金を下ろして海外に出よう……これもありえない考えかと和夫は思い直す。いつしかまた和夫は歩き出していた。

 そもそも、加奈子が悪い。あいつがここを選ばなければこんなことにはならなかった。女のくせに亭主の意見を尊重しないからだ。夫の意見よりくだらないドラマを尊重するとは何事だ……ここまで考えて和夫は頭を振る。今はこんなことどうでもいい。

 気づけば和夫は砂浜に来ていた。海に沿って和夫は歩を進めていく。
 
 あいつは泥棒だぞ。それを止めようとした俺がなぜこんな目に遭うんだ。正当防衛にならないか。あいつは刃物を持っていたかもしれない。ヘルメットだって先に使わなきゃ殴られていたのは俺だったかもしれない。そんなことを考えながら和夫は再び頭に血が上るのを感じていた。

 俺は六十五だぞ。あいつはせいぜい二十か三十だろう。老人に殴られて死ぬ若者が悪い。貧弱すぎるだろう。

 泥棒を殺して何が悪い。仏様も俺の味方のはずだ。いや、あんな黒ずんだ仏像なんか守らなきゃよかった。俺は被害者だ。

 恩を仇で返すってのはこういうことだな。こんな田舎の寺の仏像なんか……

「オイ!」不意に後ろで声がした。和夫は思わず走り出した。しかし、すぐに押し倒された。

 先ほどの二人組か、それとも警察か。どちらでもいい。和夫は確認する必要を感じなかった。これでいい。これでいい。

 冷静になった和夫の頭には、あの憤怒の仏像だけがあった。大きく吊り上がった目、左右非対称にゆがんだ口元。怒りも恐れももうなかった。

 押し倒された衝撃で眼鏡が吹き飛び、口に砂が入り込む。が、どうでもいい。もう一度あの仏像を拝みたい。そう思いながら和夫はゆっくりとゆっくりと目を閉じた。


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2020年12月に書いたものです。


爪に火を灯すような生活をしております。いよいよ毛に火を灯さなくてはいけないかもしれません。いえ、先祖代々フサの家系ではあるのですが……。え? 私めにサポートいただけるんで? 「瓜に爪あり爪に爪なし」とはこのことですね!