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亀さんこちら手の鳴るほうへ【小説】901字

薄く張ったラン藻の膜を破り水面から尖った顔を覗かせている。シアノバクテリアの独特の臭いは感じなかったが、沼の縁に立っているだけでツンとする泥臭さと屁を溶かしたようなヘドロ臭さがあった。このドブ沼に足を入れ手を入れすれば臭いはもっと強く感じるだろう。

そんなことを考えているうちに、沼亀は顔の横の赤いラインを見せつけながら遠ざかっていってしまった。細い手足をシャカシャカと動かしながら男から離れていく。亀が鈍間だなんて誰が言ったのか。せこせこと動く姿からはおおらかさの欠片も感じられない。

腹が減って仕方がなかった。いよいよどうしようもないことをしそうになった時に、この沼のことを思い出した。役所の仕事で一度訪れたことがある。重なるようにして岩の上で甲羅干しをする亀を見ていた。

太陽が出ていないからだろうか、それとも男の思惑に感づいたからなのか、以前に見た呑気に寝ている亀は一匹も見当たらなかった。先ほどようやく見つけた亀もせわしない様子で行ってしまった。

男は空腹と思い通りにならなかったことでどうしようもなくなり沼の傍に膝をついた。数日前まで汚れなど一度も付いたことがなく折り目の付いていた作業着だったが、今はあるべき姿になっていた。

男は目をつむり逃した亀を想像した。効率や力の抜き方など少しも考えられずにがむしゃらに全身を動かすしかない。そうしなければ底の見えない沼の下の下に沈んでいってしまうのだ。たまに顔を上げないと臭い沼に鼻が詰まる。しかし、それすら息抜きになどならない。命を繋ぐための最低限の呼吸でしかない。

尾を泥の中に曳きながら沼の中を動き回る自由はある。亀は水道水のカルキ臭さを知らないが泥ヘドロの臭いとどちらがマシだろうか。

泥水に膝をついたまま男は空を見上げた。雲は割れ日が差してくることを期待したが、雲は先ほどよりも深くなり、今にも一粒二粒と雨が落ちてきそうであった。

雨が降ったら亀は嫌がるのだろうか、もう既に濡れているからと気にしないのだろうかと男は考えてみる。

答えが出る前に、拡声器で拡げられた廃品回収車の音が聞こえてきた。幸せな妄想をぶち破られて男はすがすがしい気持ちで立ち上がった。


2022年6月



書いた当初のラストはこうでした。その後ちょっと考えさせられるできごとが起こったので、今回変更してみました。

答えが出る前に、拡声器で拡げられた選挙カーの音が聞こえてきた。幸せな妄想をぶち破られて男はすがすがしい気持ちで立ち上がった。


爪に火を灯すような生活をしております。いよいよ毛に火を灯さなくてはいけないかもしれません。いえ、先祖代々フサの家系ではあるのですが……。え? 私めにサポートいただけるんで? 「瓜に爪あり爪に爪なし」とはこのことですね!