希望の一歩【掌編】(932文字)
柵を後ろ手に掴んで身を預ける。 風が凄い。涼しいというよりも音のうるささが勝つ。
だがシーンとしているよりもうるさい方が気が楽だ。 俯瞰しているこの街で自分よりも不幸な奴が一体何人いるだろうかと考える。
何のことはない。仕事も家庭も上手くいっていないだけ。
よくある悩みだというのはわかっている。
だが、救いがない。 これといった趣味もなく友人と呼べる人間もいない。
会社でも責められ家でも責められ頭がおかしくなりそうになる。仕事終わりに家に直帰せず、街を放浪するのがいつしか日課になっていた。
当然、そのことを妻に責められる。寝る時間も削られ仕事にも支障が出る。悪いサイクルだ。 だが、やめられない。
この場所は放浪の中で見つけたお気に入りの場所。当然、夜間は立ち入り禁止だが、裏の非常口から侵入できた。 警備員もここまでは来ない。
もうどうにも我慢できない時ここに来る。終電までの間こうしてジッとしていると気分が楽になる。
何の解決にもならない。気休めでしかない。傍から見たら頭のおかしい奴でしかない。当然見つかれば警察の世話になるだろう。
だが、これが唯一の救いといえる時間。やめられない。
今、いくぶんか気が楽になったとして家に帰れば妻に責められる。反応の薄い私に最近は口だけではなく手も出るようになってきた。
そして明日も会社では責められる。責められてできるならとっくにやっている。入社した当時の熱意はとうにない。
第一志望の会社だった。創業者の伝記に感動して入社を志したんだっけ。内定が出たときは人生バラ色ってぐらい喜んだんだ。どうしてこうなった。
そういえば創業者がまだ存命の頃に一度だけ声をかけてもらった時があったっけ。一週間ぐらい興奮して眠れなかったよ。今の不眠とは大違いだな。
「やる時はやれ! 君ならできる。時には人の迷惑も顧みず派手にやるのもいいもんだ」
……俺も派手にできるのかな?
我慢して我慢しておかしくなるぐらいなら、思いっきりやってしまおうか?
会社の奴らにも妻にも変わった俺を見せてやるか!
「やる時はやれ! 君ならできる……俺ならできる!」
嘘のようにすがすがしい気分になった俺は一歩踏み出すことにした。
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2020年9月に書いたものです。
爪に火を灯すような生活をしております。いよいよ毛に火を灯さなくてはいけないかもしれません。いえ、先祖代々フサの家系ではあるのですが……。え? 私めにサポートいただけるんで? 「瓜に爪あり爪に爪なし」とはこのことですね!