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千二百六十分の一【掌編】2,584字

 七月二十一日から八月三十一日までの四十二日間×三十人分。合計千二百六十日分の日記に目を通してコメントを赤ペンで入れていく。大変な作業だが嫌ではない。

 児童一人一人がどんな夏休みを過ごしたのか、この絵日記を見れば一目瞭然、というわけにはいかないが……。一年生なので児童によっては正直何を書いているのかよくわからないこともある。それでも、一生懸命、文章と絵を書いているのだ。親御さんも読んでいる(書いている・描いている)こともあるが、基本的には読者は担任である僕一人。なるべく読み取ってあげたい。

 多いのは事実だけを淡々と書いているタイプ。例えば、出席番号二番の安部翔太あべしょうたの七月二十七日の絵日記はこうだ。

「じんじゃに犬がいました。じんじゃの犬ではありません。じんじゃのそとからきた犬だとかんぬしさんはいっていました。犬はいなくなりました」

 絵の方には犬と棒立ちした人間たち、おそらく翔太と友達、神主さん。起こったことに対して何を感じたのか、あるいは考えたのか書けと教えているつもりだが、小一だとまだピンとこない子もいる。

 感情のみを書いているパターンもある。出席番号二十二番、浜野心寧はまのここねの八月一日の絵日記はこうだ。

「とてもとてもかなしかった。だからわたしの心はいたくなりました。かなしいきもちをおかあさんにわかってもらいたい。でもおかあさんはわからない」

 何事かと思って、後でよくよく聞いたら七月の休みが終わって八月に入ってしまったから悲しかったんだそうだ。そりゃお母さんはわからないよ。

 空想の世界をつづる子もいる。出席番号九番の加藤唯かとうゆい、八月十三日の日記。

「まい日、お花に水をあげます。お花はありがとうといいます。わたしはどういたしましてといいます。わたしはもっとお花がすきになりました。お花にはようせいさんがすんでいます」

 こういうパターンもある。出席番号十七番、鈴木健太郎すずきけんたろうの八月十六日の日記を見てほしい。

「今日はおとうさんとおかあさんと花火大会にいきました。はなびはとてもきれいでいいおもいでになりました。らいねんの夏もみんなで花火をみたいです」

 そして繊細なタッチの花火の絵。ちなみに、健太郎の七月二十一日の絵日記はこうだ。

「たねに水をやる。めはまだでません」

 七月二十二日「めはまだでません。きのうとおなじ」

 七月二十三日「とくになにもない日だった」

 七月中は代り映えのしない一筆書きの鉢植えの絵と、芽が出ない朝顔の種について延々と繰り返し言及している。観察日記と勘違いしたのか、意図的か。

 健太郎の日記は八月一日から急に理路整然とした絵日記になった。そして三十一日に近づくにつれ漢字が多くなってくる。健太郎が急速に漢字を習得していっているわけではないだろう。これは家族に手伝ってもらったパターン。大人は漢字を使わないで文章を作成するのが段々と苦痛になってくるのだ。指摘はしないが、毎年クラスに一人はいる。

 そんな中、出席番号三十番の渡辺隼人わたなべはやとの絵日記は読みやすかった。出来事とそれについて感じたこと、考えたことが過不足なく記されている。現実と空想を混同することもなく、親御さんに手伝ってもらった形跡もない。ひと言コメントもサクサク入れていくことができた。

 ただし、八月三十一日、僕にとっては千二百六十日目。つまり、隼人にとっても僕にとっても最後の絵日記を除いて。

 渡辺隼人は多少引っ込み思案なところはあるが、自分の意見を明確に述べることができる。国語や道徳の時間に求めるとしっかりと意見を述べてくれる。杓子定規しゃくしじょうぎ的で教科書から拾ってきたようなありきたりな意見ではない。隼人自身が自分で考えたことがわかる意見なのだ。読書が好きだというのもうなずける。まだ少ない人生経験を読書体験で補うことで、初めて出会った事象に対しても自分の意見を持ちポジションを決めることができる。正直、去年まで担当していた四年生の誰よりも自分の頭で考えることができると僕は評価していた。

 そんな隼人の最後の絵日記。僕はこれにどんなコメントを入れるべきか迷っていた。ほとんどの児童の最終日の絵日記には「すてきななつ休みだったようですね。二がっきもそのちょうしでがんばりましょう!」というようなテンプレのひと言を入れる。

 ただ、この隼人の絵日記はどうだ。なぜ、急に秘密基地が出てきたのだ? 唐突に、最終日に。そもそも隼人は秘密基地を作って遊ぶようなタイプではないと思うし……。なんだ、この違和感は。

 それに打ち上げ花火? 三十一日はどこでも花火大会は開催されていなかったはずだが……。家庭用の花火のことか? だとしてもなぜあんなところから発射される? 本当に花火なのか?

 空の漂流物って何だ? 漂流物っていったら海の物だろう?

 アイスコーヒーのようなものを出されたって、誰に? なぜ誰かを書かない? 隼人だったらそんなミスしないはずだろう? それにようなものって……。

 それにこの日記に添えられている絵はどう見てもアレにしか見えない。隼人は絵も上手い方なので他の物には見えない。

 これは絵日記なのか。教師生活五年目、こんな日記には出会ったことがない。どう対処したらいいのかわからない。もともと、おちゃらけた児童や、加藤唯のような空想好きの児童が書いたのならわかる。でも、渡辺隼人はそんな児童ではない。現に、八月三十日までの日記は普通であった。それが、なぜ……。

 これは僕に対する挑戦か。いやいや、冷静になろう。隼人との仲は良好のはず。好意的に受け止めればこれは僕に対するいたわりなのかもしれない。クラスの児童三十人分の四十二日間の絵日記、合計千二百六十日分を読まなければいけない僕のために。千二百五十九日間分を読み終わった僕のために。

 これは空想や嘘とは違う。創作だ。僕のためにお話を作ってくれたのだ。出席番号最後の自分の最終日の日記が最後に読まれると予想して。憎いことをしてくれる。僕は「すごいですね! 先生ものってみたいなぁとおもいました。そんなすてきなおはなしを二がっきもきかせてくれることをたのしみにしています」とコメントをしてクラス三十人分の絵日記点検の締めくくりとした。

 二学期に入ってから、渡辺隼人の秀才ぶりに拍車がかかったように思える。正直、大人の僕よりも……。隼人の右耳の下には休み前にはなかった小さなコブが出来ていた。それはいつまでも消えることはなかった。


2021年8月

爪に火を灯すような生活をしております。いよいよ毛に火を灯さなくてはいけないかもしれません。いえ、先祖代々フサの家系ではあるのですが……。え? 私めにサポートいただけるんで? 「瓜に爪あり爪に爪なし」とはこのことですね!