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幅のある生活【掌編】2,134字

 最初はもっと幅があった。だから、そこにふかふかのソファを置いていた。そのソファの上でくつろいでいた。そこが断崖絶壁だということも忘れて。

 しかし、時が経つにつれ、崖の幅が狭くなってきた。壁が迫ってきているのだ。このままではソファが落ちてしまう。だから、ソファの肘掛けを幅に換えた。肘掛けの一つがなくなったところでソファはソファだった。肘掛けを幅に変えたことで一時は平穏に過ごせた。

 しばらくして、また幅に余裕がなくなってきた。もう片方の肘掛けを幅に変えた。肘掛けは両側なくなったが、ソファとしては別に困ることはなかった。

 また、幅が狭くなってきた。次なる選択肢は二つ。ソファ自体を手放すか、肘掛けのように部品を幅に換えるか。後者の場合、肘掛けと同じように、というわけにはいかない。次に部品を換えるとなると、土台の脚の部分か、カバーを外すか。そうなるとそれはソファとして欠けた状態になってしまう。次から一つのソファとして手放すことはできなくなる。

 考えている時間はもうない。答えが出ないままジリジリと崖の幅は狭まっていく。考えるのを止めて、とりあえずソファのカバーを外して幅に変えた。何とか座ることはできるものの、それはもうふかふかのソファとは言えない。

 つまり、ソファとして手放し、その間に幅が狭まること自体を食い止めることはできなくなったということだ。この時点で私が落下するまで幅が狭まっていくことが決定した。

 とはいえ、カバーがなくても座ることはできるのだから、なんちゃってソファとして自分で使う分には問題なかった。

 幅のことも忘れ、否、忘れるように努力してようやく頭から消えたと思ったら、また幅が狭くなってきた。そりゃそうだ。私が忘れようが、見ないようにしようが関係なく、幅は刻一刻と狭くなっているのだから。

 土台の脚を幅に換えた。そうしてしばしのいで、次はスポンジ部分を換えた。そうなると、もう枠の部分しか残っていないので座ることなどできなかった。もう少し分割できたが、未練はなくなったので一気に幅に換えた。こうして崖の上には自分しかなくなった。

 部品を一気に幅に換えたので崖の上には余裕があった。ソファがなくなったとはいえ、十分な幅があったので心にも余裕があった。身一つになり、さっぱりしたとも言える。『かくご』のようなものができたような気もする。私は大の字に寝転んだ。

 寝転んでいるとそこが崖っぷちだということを忘れてしまう。青い空を見ていると平穏を感じてしまう。いつかの『かくご』など気のせいでしかなかったことに気づき笑う。

 青い空を見つめ空想の世界へ。そこは崖の上などではない。それが現実で、崖の上の方は夢なのだ。普通に生きていたら崖の上なんかにいるはずがない。崖など存在しないのだ。

 瞬間。壁に押されて身体がほんの少し動く。大の字に広げた手の、その小指の先端が崖の縁に触れる。その一瞬でそれまで波風一つなかった心が大荒れに荒れる。恐怖が、崖の恐怖がようやく現実のものとなる。

 大の字にはもうなれない。崖が恐ろしくて恐ろしくて身体を出来る限り縮こめる。青い空すら、そこが崖の上だと思い知らされるので、もう見ることはできない。ただひたすら目を閉じて身体を小さくする。

 そのうち、体を丸める幅すらなくなった。恐怖を通り越して無の状態になりながらも、このままでは落ちてしまうので身体を出来る限り真っ直ぐにした。ある意味、覚悟ができたのかもしれない。もうこの頃になると、空想すらしない。嫌だった青空をただひたすらに見つめている。何も考えない。考えたくないのではなく、もう考えられないのだ。

 わかっていたことではあるが、すぐに寝ていられなくなった。どんなに身体を細めてももう横になる幅がないのだ。迫りくる壁に手をかけて中腰になった。あんなに忌み嫌っていた壁を命綱にしている状態である。

 そのすぐ後、壁を後ろ手に掴み直立する状態になった。眼前には崖下。もう終わりは見えている。この時になって再び頭が回り始めた。落ちたくない、落ちたくない、落ちたくない。やはり、覚悟などできていなかったのだ。

 パニックになってもう一気に自分から落ちてしまおうかという衝動に駆られる。しかし、手はしっかりと壁をつかんだまま。こんな時になってもまだ、なんとか落ちないようにできないかと考えている。もうわけが分からなくなって知らないうちに落ちていたという状態になればいいのに、そうはならない。しっかりと崖下を見つめ、落ちたらどうなるかという想像もできている。

 ああああと声を出してみる。叫んで叫んで自分の叫び声でおかしくなればいいのにと思う。これでおかしくなってそのまま落ちたらどんなにいいか。しかし、そうはならない。冷静に自分の行為を把握している自分はいなくならない。もう、秒読み。落ちればどうなるか。わかっている。あの時、と後悔してももう遅い。

 もう落ちる、という時にギリギリで助かる方法がわかった。身体のパーツも幅に換えられたのだ。脚の片方を幅に換えた。そうすると今までにないくらい崖の幅が広がった。

 ふぅーと深く長いひと息をつく。片脚はなくなったが、しばらくはまた平穏に暮らせる。見上げると、空がひたすらに青く美しかった。


2021年10月


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見出し画像にイラストをお借りしています。


爪に火を灯すような生活をしております。いよいよ毛に火を灯さなくてはいけないかもしれません。いえ、先祖代々フサの家系ではあるのですが……。え? 私めにサポートいただけるんで? 「瓜に爪あり爪に爪なし」とはこのことですね!