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躓くロバ、 noteはじめます。

はじめまして。躓くロバと申します。
「躓く」と書いてツマズクと読みます。漢検1級レベルだそうです。
日常的に使うよ、という方は多くないのではないでしょうか。

さて、ロバは何に躓いているかというお話ですが、信仰に躓いています。
キリスト教の信仰に躓き続けています。結構転びそうです。
自己紹介も兼ねて、躓いた経緯と現在の関心事について記します。

まあ初投稿だからね。自己紹介大事。

同じ名前でTwitterをやっているので「はじめまして」ではない方も居らっしゃると思います。ご存知の内容もあるかも分かりませんが、悪しからず。

お忙しい方は「さいごに」へジャンプ!

ロバのこれまで | 祈りは必要か?

アッラーフ・アクバル!
アザーンってご存知ですか? 百科事典によれば「イスラムにおける礼拝の時刻を告げる肉声による呼びかけで、ユダヤ教のらっぱ、仏教・キリスト教の鐘に相当する」ものです。そのアザーンの冒頭が「アッラーフ・アクバル!(神は偉大なり!)」なんです。力強い肉声です。

このアザーン、毎日5回大音量で流れます。
早いのは5時前、遅いのは21時過ぎ。
私はそんなイスラーム世界で多感な青年期を過ごしました。

しかも両親はプロテスタント(キリスト教)の信仰を持っており、日曜日には家族で教会へ行く習慣がありました。

アザーンは、憎むべき2つの現実を照らし、
悩むべき2つの難問を突きつけました。

第一に「サンデークリスチャン」としての私を照らしました。
サンデークリスチャンというのは、日曜日に教会に居るときにのみ、神様に心を向ける(ポーズをする)信徒のことです。
毎日5回お祈りする彼らと、毎週1回お祈りする私。
「お祈りは回数じゃなくない?」と思われる方、その通りです。
しかし、その頃の私はどうも、信仰というものは「怒りっぽくてケチんぼで、何かあるとすぐ地獄をちらつかせるおっかない神様をなだめる行為」だと解していたらしいのです。
だから「やばい、こんなんじゃ地獄行くかも」と思ったんですね。
それと同時にこうも思いました。
......あれ、神様ってこんなに子どもっぽいっけ?

第二に、イスラームにあまりに無関心な私を照らしました。
「私は貴方の信仰に干渉しないから、貴方も私に干渉しないで」というような、排他的で相互不干渉を是とする、閉鎖的な態度の私が居ました。
ふと不安になりました。......あれ、信仰ってそんなもんだっけ?

アザーンによって揺さぶられた、無邪気で貧弱な神観念と信仰的態度。
それ以来「祈りは必要か」という問いが関心事となりました。

そんな私の、一応の結論。

祈りの必要性あるいは不要性を論理的に基礎づけることは出来ない。
私が人間である限り。(ロバ, 2021)

ハロー、アポリア。

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ロバのこれから | どんな祈りが必要か?

アポリア(行き詰まり)から脱出する手がかりを先哲は残しました。
せっかくなので先哲の肩にちょこっと乗せていただきましょう。

オリゲネスは如何なる意味の祈禱をも是認しようとしてゐるのではなく、その内容に於いても方法に於いても正しき祈りの必要のみを説いてゐるのである。(有賀鐵太郎 1943『オリゲネス研究』長崎書店.  p.73)

読み辛いですね。雰囲気を共有したくて、可能な限り当時の漢字と送り仮名を採用します。私なりに若干解説します。
オリゲネスは現在のキリスト教神学に多大な影響を与えた2世紀頃の人物で、有賀はその研究者です。
有賀曰く「祈りは必要か」という問いにオリゲネスならこう答える。
「祈りは必要である。その内容と方法が正しい限り」。

それではどんな内容や方法が正しいというのでしょうか

正しき祈りの内容は、現世利益の祈願にあらずして、靈的賜物を冀う祈願であらねばならない。神は或る場合には物的恩惠を賜ふこともあるであらうが、又或る場合には、祈る人から物質を奪ひ給こともある。かかる物質の事柄は全く神にのみ任せまつるべき事であつて、人間が之を神に祈り求むべき性質のものではない。人間は只管(ひたすら)靈的賜物をのみ祈願すべきである。(ibid. pp.73-74)

霊的賜物を求めるのが正しい祈りの内容だってことですね。
キリスト教思想に触れた人には「ふむ」と思っていただける内容ではないでしょうか。

方法についてはこんなことを言っています。

「さて正しい方法を以って祈る者に、卽ちその力の許す限り、さうしようと努力する者に、利益(りやく)が來ると云うことは、種々の態(さま)に於て起こるものと余は思ふ。第一、祈りの爲に心を集中する者は、旣に或る利益を受けてゐる。卽ち若し、その心を集中せる祈りの態度に於て、己を神に献げ、實在しますところの神に語りまつるのだと云うことを、神が彼を見また實在しますとの確信を以て表現するのであればである」(ibid. p.74)

これはオリゲネスの『祈りについて』の一節を有賀が訳したものです。
ここで「正しい方法 = 力の許す限り集中」と言っています。
なんだか微妙な説明ですが、とりあえずヨシとしてください。
めちゃくちゃ気になることを言っているからです。

正しい方法で祈ると、利益を得ることができるというのです。すごい!
もちろん霊的な利益であって「恵み」と呼ぶべきものです。
曰く「神の存在を確信し、心を集中にして霊的賜物を求める」という行為、すなわち祈りそれ自体が恵みだというのです。

なんだってー!  続きが気になります!!!

かかる心の態度を以て祈ることを繰返す中に、人は幾多の罪から護られ且つ正しきに向かって進み得ることを「實驗を以て知るであらう」(ἴσασι τῇ πείρᾳ)。(ibid. p.75)

別の研究者(小高毅, 1985)は、この "ἴσασι τῇ πείρᾳ" を「経験をもって知っています」と訳しています。

有賀が指摘していることでもあるのですが、これはオリゲネス自身がその「實驗」あるいは「経験」をしていないと語り得ない、興味深い見解です(もし「實驗」抜きに語ったとすれば、かなり愚かで滑稽ですね)。

ここまでちょこっと(3ページ分)先哲の肩に乗ってきましたが、正直なところ、オリゲネス(有賀の紹介するオリゲネス)の話に理解し難いところは多いです。時代も場所もあまりにも違うので当然です。

しかしそれでも、 "ἴσασι τῇ πείρᾳ" って言える人生っていいなと思っちゃったんです。いつか、言えたらいいなって。

この「祈りへの憧れ」がある限り、私は躓き続けることでしょう。
躓きつつ、道を探し続けることでしょう。

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さいごに

最後まで読んでくれた貴方も、忙しい貴方も、ありがとうございます。
不器用なやつだと伝われば、とりあえず十分です。

ちなみに現在はカトリックに接近中。
近いうちに「ロザリオつくってみた」を公開する予定です。
今回の記事より読みやすいよ、圧倒的に。
だから飽きずに読んでくれると嬉しいです。
それでは、またね。

……あ、いい忘れた。
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では、さらば!

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