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自殺未遂した方のブログと、自殺した後に遺された方のメッセージを読んだ。

こんにちは。
どこか息苦しい現代社会、死にたい、死んだら周りはどうなるんだろうと考えたことがある人は少なくないだろう。

僕が初めてそれを口にしたのは小学2年生の時。その頃から意図しないやらかしのために人に迷惑をかけ、そんな自分を憎んでいた。
とはいえ小学2年生。後から考えればノリで口にしただけだったが、当時は大いなる勇気を持って打ち明けたものだ。

この頃の僕も、自分を許せないでいる。たくさん迷惑をかけてしまうし、それが周りには意識が低いからトラブルを起こしているようにしか見えない。僕自身もずっとそう思っていた。実際、やらかしているときは意識が低く、異常に鈍感で突発的で、注意力に欠ける。

それが何年も続いてようやく気づいた。僕は"そういう"人間なんだって。そう思ったら少し気が楽になったけど、同時に一生向き合っていく重さにも気がついた。本当に重い。

ただ、"そういう"人間だから仕方ないと思考停止するわけにはいかない。言い訳しているみたいだし、人に教えることもある立場が言えるセリフでもない。思考できてるうちは無責任にはなれないし、僕より遥かに重い"エラー"を抱えながら必死で生きている、本当に偉大な人たちに対して失礼極まりない。

とはいえめちゃくちゃ気は滅入るし、マジで死にたくなることもある。部屋も汚いし。

東京に来て驚いたことの1つは、人身事故の多さ。もう1つは、そのことに対する人間の慣れ。つい最近も、学生の自殺がTwitterの重い話題になっていた。やばいね、みんな。

どうして死ねるんだろう。周りの人がどうなるとか考えたりしないのかな。気持ちは分かるけど、僕はどうしたって、僕に全てを与えてくれた人たちや、僕が関わってきた人たちへの負担が頭をよぎって、死ねない。自殺という罪が、あまりにも重すぎると思うし、死んだ後意識はなくとも、この世に残る僕の名残りはその罪から逃げられない。そう、人はどうしたって逃げられない。これはきつい。

それで気になって、自殺未遂の人のブログをたくさん読むことにした。意識がはっきりしない時、参考にしようと思ってだらだら見ていただけだけど、結構色々考えさせられた。

自殺未遂した方のブログ

読んでいてまず気になったのは、希死念慮という言葉。死にたいと思うことを指すそうで、まずそんな用語があることに驚いた。

彼らの中には、希死念慮のことを鬱病などの1つの症状として捉えている人がいた。病気の症状として希死念慮があるから、死にたいと考えてしまう、ということだ。

僕も死にたいと思うタイミングはあるけれど、それが何かの症状だなんて客観的に考えられない。その気持ちには、迷惑をかけてしまうとか罪悪感とか、自分なりの根拠があると考える。

この客観性は、彼らのブログに総じて見られた。みんなどこか達観したように、自分の行いや周りの様子を語っていく。
僕にはそんな書き方はできない。このnoteですら結局は自分語りでしかなく、どこまでも主観的に書いてしまう。

主観的に考えると負荷がかかりすぎるために、客観的に考えざるを得ない状況であるという説があるだろうか。他人事のように考えないとやってられないのかもしれない。そうだとすれば、僕には自分の気持ちを考える余裕がまだあると言えるか。

妻と子どもを残して、自殺しようとした男性の文章を読んだ。彼はもう自殺はしないだろうと言っていた。やはり周囲の人のことが気になったかと思ったが、自殺には恐怖を無視する尋常でない精神が求められるからだという。
こういう点では、限りなく主観的で、客観的ではないと言えるだろう。

大切な人を亡くされた方のメッセージ

自殺未遂した方のブログを読んで、僕は自殺した後の世界のことがますます気になった。
そこで見たのが、NHK福祉ポータル「ハートネット」にあった「大切な人を亡くされた方のメッセージ」だ。

これは本当に胸が締め付けられた。僕は死にたいと思うたび、僕の死に怒る人や、悲しむ人の様子を想像してきた。だからこそ、遺された人たちの本気の悲痛と怒りの声が、リアリティを持って心臓をザクザク刺してくる。

ぜひ多くの人に読んで欲しい。人間とは、生きるとは、死ぬとは、命とは、家族とは、恋人とは、愛とは、悲しみとは、自分の人生とは何かというあらゆる難題を考える、とても大切な契機になると思う。

僕はこれからも死にたいと思った時、これらの人々の言葉を覗き見に行くだろう。きっと僕はその度に胸を刺され、死について深く考えることになるだろう。極限まで深く深く考え込むことが、かえって死から逃がしてくれるような気がする。
実際僕は、とりあえず生きようと思っているのだから。

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