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ぼくちんの痛々しいオ痛チシリーズ

どうも、新しい企画というわけではなく、以前別のサイトで書いていた私の生い立ちについてのコラムの転載です。学生時代の痛々しい様をとくとご覧あれ!

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<幼児期編>
製鉄の街、福岡県北九州市八幡にてうまれる。退院後からは北九州市小倉南区のアパートにて生育。特に問題なし。お母さん友達繋がりの関係で、幼稚園前から友達が3~4人いた。が一人くらいしか(それもニックネームしか)覚えて無い。プラレールが大好きだった。平均よりもやや早いペースで、立ったり言葉を喋ったりと将来性を感じさせる子供であった。
未来の方向性を試す心理テストみたいなのをやった。まだハイハイしかできない頃に、とんかちとそろばんとえんぴつとか色んなものをバラバラにおいて、どれにハイハイしていくかで、その子の得意分野や将来の方向性を悟るというもの。俺はそろばんに向かっていったらしい。その頃から数学的なことに対する興味を予知していた。
おもちゃでは数字の書いてある木の積み木みたいなブロックやひらがなのスタンプや乗りまわせる車がお気に入りだった。車は当然幼児期にしか遊ばなかったが、スタンプは小学生の頃もたまに遊びに使っていたし、数字ブロックにいたってはさまざまな用途で20歳過ぎても使うことがあったし、今でも実家にある。
この頃から物持ちのよい面が多々垣間見れた。

3歳くらいに小倉北区に引っ越す。それからバスに乗る機会が増え、バス大好きッ子に。最寄りのバス停から小倉駅まで10つのバス停を暗記。この頃から交通関係に興味が湧く。団地だったので御近所付き合いも増え、可愛い子供だったのでまわりからチヤホヤされる。実は人見知りが全くなかったらしく、バスを待ってる間に知らないおばちゃんと喋ったりもしていた。そしてついに幼稚園入園の時期が近づき、母親に、「K幼稚園とA幼稚園どっちがいい?」という今考えればおかしな質問をされる。ちなみにK幼稚園の方が家から近く、A幼稚園はその倍くらいの距離にある。ただ、K幼稚園は私立だったか何だったかで、少し高く親としては遠くてもA幼稚園の方にいってもらいたかったぽい。そんなこと4歳の子供は知るよしもなく、俺は「なんとなく」という理由でA幼稚園を選んだ。親のテレパシーが通じたのだろうか。
真冬も超ミニ半ズボンで通園する元気な幼稚園生。入園式の後、園内の遊技物を一人で遊んでいたがその時間があまりにも長く、親がいくら帰ろうといっても帰らなく、無理矢理帰らせようとしたら泣いてしまった。当然そんなやつは他にいず皆とっくに帰ってたので、初日からしっかり先生に覚えられた。
男女共に友達も多くできて普通に楽しかった。しかし初恋の女の子だけは喋った記憶がない。好きでもない女の子とは意識しないのに好きな女の子には意識しちゃったんだなぁ。もったいない。今思えば、女友達の中にかなり可愛い子いたな。そん時は全く意識がなかったけど、今絶対超キレイになってるだろう…

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<小学校編>
入学式。緊張で下痢。最悪のスタートを喫する。
学研を始める。しかしほとんどやらない。基本マジメで頭のいい子。まわりからの認知もそうだというのが自分でわかっていて、それにあまり面白く思っていなかったような記憶がある。今思えば冷めたというか、子供らしくない子供だったのかも。
6月頃に体育のかけっこの時に後ろから走ってきた子に押されて前に倒れる。少し腫れたのでシップをはって様子を見ていたのだが、十日以上たっても治らなかったので病院にいってみると右足親指を骨折していた。たかがそんなことで骨折するとは…。カルシウム不足を自覚する。お陰で、プールは見学スタート。足が治ったのがたぶん8月に入ってからで、夏休みのプール授業の終わりの何日かしかでれなかった。皆は基礎からちゃんとやっているのに、俺は出遅れてしまったので、これをきっかけにプールに苦手意識を覚える。頻繁にトイレにいき小サボっていた。
翌年の夏が近づく頃のある休み時間のこと。好きな子にいいところを見せようと、ろく木の一番上から颯爽と飛び下りた。着地に失敗。クラスメイトにおんぶされ保健室へいく。好きな子には心配されてはいたがなんと不様な格好を見せてしまったんだろう。この後病院で右足小指骨折が発覚。カルシウム不足を改めて自覚。お陰で2年連続プールは見学スタート。2年合わせても10回ちょっとくらいしかプール授業に参加できていなかったため、やはりプールに対して苦手意識が植え付けられた。
初めてイジメにあう。画用紙の中に何かグチャグチャに線やら何やら書かれていた。イジメられたという意識ではなかったが、何なんだろうと思い先生に報告。その後それは俺のことを好きな女の子が気を惹くためにやったことだと発覚(だったと思う)。しかし俺はその子はあんまり好きじゃなかったので何ごともナッシン。
ある日の掃除時間、机を全部下げて教室の半分が使える時に、友達と対面になって両手をつないで、二人でぐるぐるまわっていたら、突然手が離れて、その反動でなぜか俺だけ壁に激突(友達の方が俺より軽いのに)。あごをパックリわってこれまた病院いき。4針縫う。しかも、前に書くのを忘れていたが、実は幼稚園年長の時にも遊具から手をすべらせあごをきっている。ほぼ同じ場所を2度も4針ぬって合計8針。

習字の面倒臭いところが嫌いだったのだが、1年の時に福岡県毛筆なんとか賞の佳作を受賞。他にいくらでもうまいやついるだろうに何故俺が受賞したのかわからない…
変わって、硬筆は得意だった。1年の時にも福岡県銅賞を受賞。2年の時には福岡県銀賞を受賞した。特に何をやっていたわけでもなかったのだが、この頃字はけっこう綺麗だった。今では見る陰もないが…。プラス模写的なものが得意なのかもしれない。
うちの団地のとなりの、小マンションみたいなところにいるクラスメイトの女の子と放課後とか遊ぶことがよくあった。それだけでなく、その女の子が住んでいるマンションの他の年下の子供とか混じってドッヂボールしたりとか、自分の知らない子と遊ぶことも多かった。その女の子の家にもよく遊びにいっていた。理由は「ファミコンがやりたいから」。その女の子、かなり男勝りなヤツだったので全くといっていい程女という意識をしていなかった。当時うちではファミコンを買ってもらえなかったので、やりたいなら友達の家に遊びにいった時にやらせてもらいなさいと親に言われていたので、よくファミコンを持っている友達の家に遊びにいっていた。それ程仲良くなくてもファミコンに釣られて遊びにいっていた。一度、いとこの家でドラクエフォーをやっていた時、熱中しすぎておしっこを漏らしてしまったこともある。

自由帳が大大大好きだった。ある人には「妄想ノート」と呼ばれる程独自の世界が展開されている内容もあったり。「にゃんたんのゲームブック」のパクリで、「うさたんのゲームブック」等も書いた。うさたんのゲームブックはこの後もパート2、3…と続編がでてくる。他にも、独自のゲームを編み出して一番気の合う友達とやったりしていた。

自由帳のある1ページには、クラスの恋愛模様みたいな図式も書いていた。A→Bみたいな感じで。自分のも含めてあるのだが、自分から→がでてる相手がなんと4~5人いた。といっても本命は一人だったのだが、この頃から気の多い少年だったのであろうか…

どうやら落ち着きのない子供だったのだろう。

3年になりクラス替え。うちの小学校は2年ごとにクラス替えがある。幼い頃から知らない人とうまくやっていけたので、すぐ溶け込む。弟がこの頃幼稚園の年長で、弟の一番仲いい友達は親同士も仲がよく、お互いの家をいったりきたりしていたので、俺もそこに混じってよく遊んでいた。けっこう特殊なアレなんだろうが、母親と弟だけでその友達の家に遊びにいっているのに、俺も学校から帰ってその人の家に遊びにいくこともけっこうあった。年下の子と遊ぶのがとかくうまかった。
転校生がやってきて、なんと同じ団地に住む。のですぐ仲良くなり、もう一人1年の時から同じクラスで、この頃同じ団地に引っ越してきた人がいて、この3人で、団地三人組、通称「だんさん」を結成。他のクラスメイトや近所の子とも一緒によくドッヂボールしたり野球したりしていたが、1年の時からの人はどうもヒッキーの要素がこの頃からあったため、あまり遊ばなくなって、かわりに俺の弟を加えてだんさんメンバーチェンジ。遊びの中には、「トレジャーハンター」もやった。これは、宝と称する何かを主催者が隠して、それをいくつかの暗号やヒントをもとに探していくもの。やりだしたのは俺。というか主催者は俺しかやらない。

また、父方のいとこは皆俺より年下なので、その辺自覚を持って、毎年お正月と御盆とゴールデンウイークの旅行等に会う時には、大運動会なりマジカル頭脳パワーなり何かしら企画して盛り上げて遊んでいた。やはり企画的なものやリーダー的なものをこの頃から自然と実践していた。いとこ達もそうだが、年下の人にはすごく慕われていた。

父親が転職。退職金で別府に初めての家族旅行に行く。何を思ったのか、このできごとを作文(というかほぼ日記)にしてクラスに公表。この旅行の中で、バーコードバトラー2を買う。初めてのゲームらしいゲームを買ったので興奮。そこそこ流行って、小学館の「小学3年生」とかそっち系の本にも特集されたりおまけついたりはしていた。が、まわりにやっている人はほとんどいなかった。持っていてもやらない人が一人。4年の頃にはこれの進化版バーコードバトラーCW20が発売され購入。これは、小4の頃に転校生がやってきてその人が持っていた。こいつとは色んな面で気が合ったので一番仲良くなった。

クラスの友達に秘密基地を教えてもらう。家のすぐそばにあるA山の途中にある丘みたいなところで、軽く森や有刺鉄線等がはり巡らされていて、普通には入れなくなっているのだが、侵入口を伝授してもらい中へ入っていく。一応何かのタンクとか、出入り口の鍵とかあったり、たまに草が手入れされているので、ただの丘じゃなくて必要のある場所なんだろうけれども、友達は「へびとか出るから気をつけてね」とか言う。この日はでなかった。友達はさらに武器とかいって、その辺の茂みにのこぎり等数点を隠していた。使い道ないだろうに…

ある日、学校の裏の茂みあたりから水路に入れるポイントを発見した俺は友達2人と弟で探検をする。下水道とまではいかないが、時には地上が見えないところに入ってしまうようなコンクリートで囲まれた水路。街の色んなところに繋がっていそうでわくわくしてたまらない。大きなひらけたT字路にでた、と思った瞬間、コケに足をすべらせ汚い川へ落ちる。助けを求めて手をのばしたら、友達がその手をつかんだら俺にひっぱられたのとコケにすべったのとで犠牲者2人め。弟には足止めさせ、もう一人の友達は反対側に跳び移って回避。そく家に帰ってお風呂に入るが、痒くてしょうがない。その辺の川なんて何が入ってるかわかったもんじゃない。しかしゲーマーだと噂されながらも外で遊ぶことが好きだった。

だんさん仲間とは3年の時の出会いでその頃一番仲良かったが、4年の時の転校生と仲良くなってしまって、だんさん仲間のやつに嫉妬された。別にそっち系ではないけど、男に嫉妬されたのは後にも先にもこいつだけ。それだけ深い仲だったのかな。今でも連絡とるし。

恋愛ごとにはとかく奥手だった。クラスが替わって違う人を好きになったが気持ちは伝えられず。一度社会見学か何かで近くの川にいった時に、飛び石をつたって進むところがあって、その時に好きな子が困っていて手をさしのべて、その手を一度だけつかんだ。それがおそらく初めて自分が好きな人へ対してスキンシップをした瞬間。プラトニックだ…

ある時廊下でボールをついていたら小1、2の時の担任に注意された(校則)。それに何か気に入らなかったのか、ボールを没収されそうになったので、友達とかとボールをまわしあって先生を翻弄した。マジメな子が初めて教師に反抗した瞬間。

5年生でまたクラス替えがある。担任の先生はちょっとELT持田入ってる皆に愛されるエロイ話も好きな女の先生。担任、クラスメイト共に恵まれ仲良し組に。幼稚園からの親友と初めて同じクラスになる。この親友はマンガを書くのが趣味で、同学年の人達にも有名だったくらい。俺も小3くらいからマンガを書き始めていたので、マンガ熱も多少加速した。

だんさん仲間が5年の途中で引っ越す。
ついにスーパーファミリー購入。この頃から外で遊ぶことがけっこう減った。

クラスには色んな係があるが、その中で今思えば意味不明というか珍しい係があった。その名は「歌声係」。名前だけでは到底想像できない係だが、この担任が3~4年にうけもっていたクラスの人はその頃からやっていたらしい、この担任のクラス独自のもののようなのだが、毎日帰りの会にその頃流行っている歌謡曲を皆で歌うというもの。周期的に曲が変わる。覚えている中では篠原涼子の「恋しさとせつなさと心強さと」や岡本真夜の「TOMORROW」や広瀬香美の「ロマンスの神様」等等。人によってはきっとウザイ制度であったに違い無い。

女の子にS○Xを教えてもらう。いや、上になってもらったとかそういうことじゃなく、それまでS○Xの意味を知らなくて、女の子に「テレビとか映画とかでよくベッドでしてるやつだよ」と教えられた。授業の一貫としてでも性について多少やった。その時男性の生殖器を女性の生殖器に入れるという事実を聞いて、とても驚き愕然とした。「ありえない…!」と。それまで、愛があればそのうち勝手に子供できるものだと思っていたのだから…

先程登場した女の子は俺の好きな人2人を知っていて、誰にも言わないと言っていたのにも関わらず、あろうことか本人に言いやがった。昼休みの時にその女と好きな子2人がせまってきた。好きな子2人が「上野くんの好きな人誰~?」とか言ってきやがる。こんな状況小学生以下じゃなきゃないぞ。

小学校には生徒会の代わりに「児童会」というのが存在した。俺が風邪で休んでる間にその新規役員の話し合いがあって、俺が会長に推薦されていた。驚きの話。断るつもりだったのだが、担任自ら自宅に電話してきて担任も推してきたので立候補することになった。一学年4クラスで、たいてい毎年会長候補は各クラス一名でるので候補が4人なのだが、その年は自分含め2人しか立候補がなく、さらに対抗馬はなぜこの人が?っていう女子だったので自分でも勝つことは目に見えていて当然のように当選、会長の座ゲッツ。そこから俺のあだなが「会長」になる。中学3年間もそのあだ名で通る。地元の友達には未だにそう呼ばれている。
会長だったのに、卒業式で悼辞とかを読んだ記憶がない… けっこう頼りない会長だったことは間違いない。

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<中学校編>
(1年)
大きな小学校3校分くらいの規模の中学。しかし、クラス発表で奇跡がおこる。
なんと、クラス30数名のうち、11名が小6の時同じクラスだった人。同じ学校、じゃなく、さらに同じクラス。担任もその事実を知ってビックリしていた。当然でしょう、こんなこと日本中探してもないんじゃないかな。それがよかったのかどうかはわからないけど、中学にあがって不安な想いしている人にしてみれば羨ましいクラスかも。

小6の時卓球クラブに入っていて、友達と中学にあがっても卓球続けようと話していたのに、なんと何故かうちの中学は野球部と剣道部と卓球部は坊主制。卓球は関係ないだろぉ!というわけでテニス部に入る。

この頃から自分が口ベタであることを必要以上に意識しだす。というのも、お父さんがけっこう無口で、俺はずっとお父さん似だと言われていたもので…
新しい人が一気に増えたので、埋もれてしまってはいけないと思いキャラをたたせることにした。春のふれあい合宿で軽く“ホモキャラ”を演じる。これはみごと好評でたちまち違う小学校の人とも溶けこんだ。その後多少尾をひいたけど…(モノホンじゃないって、の主張に苦労)
何故か「面白い人でありたい」と思うようになっていったので、授業中とかもクラスに一人いたムードメーカーの人に負けないくらい、先生につっこみいれたりボケかましたりしてた。たぶんマジメに見られたくなかったんだろう。なんで最初が肝心、一年からキャラたたせ、準ムードメーカーみたいなポジションゲッツ。

体育祭の練習か何かの時、とある女子の半袖の体操服の袖から見えてしまったJangleジャンゴー 女子もワキ毛生えるんだ…また愕然。何もオヤジ並に育てなくても…あんな美人なのに…
それがトラウマなのか、未だに夏になるとすぐ女性のワキをチェックしてしまいます。一緒に電車に乗ったりしたら絶対一回は見てますのでつり革は掴まない方がよろしいかと。

さぁ少しずつイタイタしくなってくるぞ~♪

(2年)
「デビル」というあだ名をつけられてしまった人が学年に存在していた。触ると溶けるとか男子は陰で言いたい放題。皆も納得するその名をつけたのは他でもない俺。これが浸透して半年程たったある日、ややヤンキー系の男子とかが「あいつ、デビルとか呼ばれてて何か可哀想くね?」とか話してた。ヤンキーに同情されてるぅ!一学年約300人。男子はその半数。そのうちのおそらく80%以上がデビルが誰かと認知していたという恐るべき快挙。本人に直接何かしたりはしなかったが、おそらく本人も気付いていただろうしイジメていたことは間違い無い。

人生初の告白をする。しかも喋ったことない相手に。だったのでとりあえず保留。次の日にOKがでて電話番号を教えてもらった。当然携帯じゃなく家電。しかし、それまで電話をお喋りの道具として利用したことはほとんどなかったので何を喋ればいいのかわからなかった。それまでも喋ったことなかったわけだし…。しかもまさかOKされると思ってなかったので、付き合うことになったはいいが、付き合うって何なのか実はよくわかってなく、何もできなくて10日程で別れを告げられる。


(3年)
独自の遊びを開発しまくった年であった。担任からも理数系の高校を強く薦められる。その時は不適正だと思ってたが、今思えば適正も適正。この時点でそれを見抜いた担任はすごい。

テニスの大会中に胸が痛くなってうずくまった。顧問の先生達が心配して駆け寄ってきた。痛みはすぐにおさまったのだが、脈拍が異常に早かったらしく初めての経験だったため用心ということで不本意な救急車を呼ばれる。小雨が降り出した。濡れるといけないと先生が判断して、数人でビニールシートを持って俺を囲んで雨を防いでくれた。色んな人に超見られてる。しかも棄権試合になるし散々。結局緊張からくる不整脈だっただけで点滴うって帰宅。
冬には胃痛が頻繁にでたので病院にいく。すると進路のことなどでの悩みなどから来ているストレスが原因だと。自分でそんなストレスを感じてる自覚がなかったので、本当にどっか悪いのかと思ってさらに悪化させてたぽい。その診断を聞いただけで、それから薬とかも使わず全く痛みが消えた。父親もそうだったけど、どうやら俺も精神的な状態が体調に表れやすいぽいと思い始めた。

進路的なもので、高校は自分のレベルより少しランク低めのところを受けることが決まっていたので、そこまで受験勉強に力を入れてなく日々遊び倒していた。先に推薦で決まった友達の家がけっこう皆のたまり場となってたので、12月とか1月とか2月とかも普通に学校帰りにそいつん家いってキングオブファイターズ等やってた。そしていよいよ明日は公立試験日という時にも、最後までそいつん家に遊びにいってた。しかも風邪気味だったのに。翌日発熱。弟にインフルエンザをうつされた!鼻水がとにかくとまらないし高熱でヤバいが受験しないとどうしようもないのでいく。ランク落としてるし何とか大丈夫じゃないかと思ってたが結果的には不合格。まぁ仕方ない。

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<高校生編>
<1年>
中3の時一番仲がよかった友達と同じ高校。しかし俺は特進にうかっていたのでクラスが一緒になることはない。クラスは違ったがよく友達のクラスにも遊びにいったりしていた。
始業式の最中に前列に座っていた隣のクラスの女子に話し掛けられて、初日から友達になる。なんて幸先のいいスタート!中学の時のモテないポジションその他を返上したい気持ちが強く、キャラも多少変えて臨んだ高校生活、だったがこれが大失敗。何か同中のヤツらとノリが全く違い戸惑う。それでも前半は“誰とでも接せられるオールマイティなヤツ”というポジション(実際そう言われたことがある)で問題は特になかったのだが、だんだん皆の仲が強くなり始めグループ化してくると、広く浅くだった俺は乗り遅れる。

高校のテニス部は中高一貫のくせにコートが1つしかないというあり得無さから入らず、かわりにたまにOBとして中学にいっていた。そんなある日のこと、2つ下の後輩の姉ちゃんが俺の知り合いなので、「姉ちゃんによろしく言っといて」と言って次に後輩に会った時になんとピッチの番号を教えてくれた。憧れの先輩だったのでもちろんテル。この先輩、かなりお喋りなので、俺の口ベタ調教&電話慣れのため長電話に付き合ってもらったりした。この頃から、これまでの奥手を一転、積極的に動くようになった。

秋に高校でスポーツ大会だったかがある。出番じゃない時に同中の友達と喋ってたら、そこへ友達と同じクラスの女子数名がやってきた。その中に可愛いコ発見。こいつのクラスは何度もいってて一通りチェック済みだったはずなのに、まだこんな逸材がいたとは、ということで積極的に動き、この後とても仲よくなる。何を隠そうこの人が、俺の人生の中で一番好きだった人。それからというもの、絶対一日一回はそのクラスにいくようになった。同時にこの頃から自分のクラスの人との交流が薄れていく。
ひょんなことから俺の気持ちが相手にバレ(その前から本人は気付いてたけど)、相手に彼氏いることは知っていたので、これまでと同じく接していきたいと思っていたが、気持ちが知れたことで何かが吹っ切れたのか、必要以上に感情表現したり付きまとっていってしまい、関係がダメになる。最後本人に言われるまで自分がそうなっていたことが見えてなかった。自覚し反省した上でもう一度仲を復活させたかったが無理で、あまりに衝撃でこの時謝ることすらできなかったのが、後高校卒業まで、いや今でも、人生上唯一の後悔といってもいい程後悔している。
これをきっかけに、同中のそうとう仲よかった友達とも接さなくなる。傷は大きかった。そのまま寒い冬を寒いクラスで過ごし完璧に孤立してしまい、早くクラス替えで、もう一度高校生活を立てなおせるチャンスが欲しいと願うようになった…

俺の高校生活はイタイぞぉ!今後も覚悟せよ!

<2年>
やっとおさらば、そしてクラス替え。2年から文系理系にわかれる。俺は文系へ。クラスの雰囲気はかなり変わり乗り遅れないように努力してあるグループにくいついていくのだが、まただんだんついていけなくなり1年の頃程ではないが馴染めず。それでもそのグループの一人とはまぁ仲良くなれたしまぁマシではあった。しかし一年の頃知り合った女の先輩達や同中の友達や始業式から仲良くなった女等ともつながらなくなっていて、かわりに隣のクラスが進学コース(俺は特進)だったのでそことは体育でも一緒になるし仲良くなった。あとうちは中高一貫だったので中学生とも仲良くなった。

ひょんなことから同じクラスのちょいワルい系のヤツと麻雀をすることになった。それまではプレステのシンプル1500シリーズの麻雀しかやったことなく、これがリアル麻雀デビューだった。学校が終わってそいつんちへいく。最初3人で後から一人来るということで、最初サンマをやった。しかしサンマはやったことない。しかもよくわかんないうちに、よくわかんないレートをつけられ相手のペースに。しかも、他の人の話ではこいつはけっこう強いらしい。どれくらいのレートだったかは覚えてないが、結果的には確か500円負けくらいですんだ気がする。

とある日ある先生から呼び出しをくらう。しかしその先生とほとんど面識がなく、なんの用事だろと思っていた。しかし放課後が近づくにつれ嫌な予感が募ってきた。予感はあたった。別れた彼女の担任で、彼女が話があるらしく先生を使って呼び出した模様。会議室を一室借りてあって、そこに彼女と彼女の友達数名が待ち構えていた。先生もそこに立ち会う。用件は「すれ違ったりした時に見ないでくれ」とか。はぁ?!なんて自意識過剰なんだろうか。弁解してもわけのわかんないことを次々言ってきやがる。もちろん俺には非はないし、先生も俺の味方をしてくれてた。こんな後味悪かったのは後にも先にもこいつだけ。

秋には修学旅行へ。イギリスだったので、福岡→羽田 成田→ロンドンと、往復で4回飛行機にのった。初めて飛行機にのったわけだが、この初めての飛行機、福岡→羽田便の中で俺はあるスッチーにときめいてしまった。基本的に俺はアナウンサーとかスッチーの様に清純知的系は好きじゃないんだが、そのスッチーは例外だった。羽田に到着して皆が飛行機を降りようとしている中、俺はここぞとばかりにそのスッチーとお喋りを繰り広げて、満足して飛行機を降りた。降りて30秒後に重大なことに気付く。
「写真とるの忘れたー!!!」
なんとカメラを持っていたのにも関わらず、そんな失態をおかしてしまったのである。
その日の夜ホテルの部屋で俺は彼女のことを思い出しながら、何度も後悔して、詩もかきかけた。
翌日、成田→ロンドンの飛行機で、そのできごとをその飛行機のスッチーに話したりした。そして教訓をいかし写真をとる。ツーショットで。その後も飛行機にのる度スッチーの写真をとった。後になって親戚の人に修学旅行でとった写真を全部見せた時に、スッチー見て可愛いね~とか言ってたが、それは序の口だと心の中では思ってたりした。

うちの学校は若い女の先生がいっぱい!美人の先生も多かったしそれだけで学校にいく楽しみも少し増えるというもの。一人仲いい先生で、声が声優さんじゃないかっていう感じで言うならば、性格いい天然ロリさとう玉緒みたいな人がいた。この先生見かけによらず野球が好きで、一度(二度だったかも)本当にやることになった。この時一緒にやったヤツらは俺の2こ下の後輩とその友達だったが、先生連れてきたのはむこうからしてみたら驚いただろうなぁ。今考えても貴重だと思う。その後は少し車で二人っきりで…ナハハハ

<3年>
さて、高校生活も最終年となりました。進学校特進コースの中、ただ一人…に近いくらい進学以外の道をこの時点で決定していたのが私。もうやりたい放題(?)でした。
高2と高3はクラス替えあるものも、そこまで激しく入れ替わりはなく、付き合いもあまり高2とかわらず。始業式、担任発表の時に俺が○○先生だったらいいなぁと友達に言っていたら、なんとその先生がうちの担任だった!つってもその先生は今まで授業とかでも関わったことなく他の学年の先生だったので面識はなかった。が、嬉しくて式後そっこう先生のとこへとんでって、ファンなんです!的な感じで挨拶する。また俺は特殊なケースだったことや特殊なポジションだったこと等もあり、これを機に先生と個人的に会話することも増えた。

夏頃に担任にバイトさせてくれと言うがダメだと言われる。しかし、4月の時点での話では、夏になれば条件を満たせばできる的な話だった。また、この頃プロダクションにうかってレッスンがうけられる時期で、一刻も早くレッスンをうけたかったのでその事も合わせ申請書まがいの手紙を生徒指導の先生にだす。後日、担任、学年主任、生徒指導と俺と母親の5者面談が繰り広げられた。色々それらしいことを言われてまるめこまれそうになるが頭にくる。レッスンの件は卒業後で仕方ないにしてもバイト不可に納得がいかずやろうとするが親に反対され断念。そんなこともあり、ある意味で教師側からは一目おかれた存在だったかもしれない。

皆が受験勉強等頑張ってる中、俺はただ試験で赤点とらない程度に勉強すりゃいいので、かなり授業中暇であった。そんな中何故か、1年の時に習った数学の数列にハマってしまう。それを機に数列だけでなく、数学を全体的に好きになってしまい、暇さえあればいらないプリントに数式その他を書きなぐり、証明や公式発掘をやっていき、そのうち自分で発見した公式ノートをつくり、高2編で登場したロリ先生(数学教師)に見せたりしてた。先生からは評価されてて、「数学科に進学すればいいのに…もったいない」と言われてたのだ。実際、過去問とかが授業でプリントとしてだされてたりして、普通に難しめだが、数列の時に限り俺は毎回全問正解していた(数列以外はほとんど手をつけなかったが…)。

保健室の先生と言えば、マンガ等ではたいてい美化される存在で、実際は年輩のオバさんとかが多いのだが、うちの学校に至ってはそこまでも若い女性の先生!ただし美人ではなかったケド…。でも性格がサバサバしててとっつきやすい感じなので、エロイ感じとはちょっと違うけど普通に好感のある人だった。ひょんなことからこの先生に興味を持ち出した俺。以前より保健室に(遊びに)行く回数も増える。23~24歳のむこうからしてみりゃ、イメージとしては高校生なんて青くさいガキに見えるのだろうが、俺はちょこちょこ軽く口説いたりしてた。「最近寝る時絶対先生のこと考えてしまう」って言ったら顔赤くしてたのが嬉しかった。

卒業が近づき、文集を作るみたいな話になり、俺が率先して作成・編集に立候補した。まぁ暇を持て余してるのは俺と、推薦で決まった人くらいだからね、当然でしょう。こういう作業は好きだから自分からやって、色々アイデアだして面白くなるよう工夫しようと思っていたのだが、その中の一つ、「好きな先生ランキング」の項目に数人の先生からダメだしをくらったらしく、担任からそこの部分を変えてくれと言われる。これはもうすでにクラスの皆に書いてもらって回収済み。いまさらそんなことを言われたことや、その項目に対する自信、反感心、そして意地から、キレてしまった。俺はこの作業を放棄。他の生徒に引き継がれることとなった。そしてそれ以来担任とは全く口を聞かなくなった。もちろん担任が悪いわけではなかったし、担任は俺にひたすら謝ってたし、俺から冷たくつきはなされることを悲しんでいたように見えた。それはずっと続き、ついに卒業式の日まで話すことはなかった。卒業式の日、事情を知らない母親に「先生に挨拶しにいこ」とそそのかされ仕方なく行く。たいした挨拶もできないまま学校を後にする俺。卒業したらすぐ上京するし、もう会うことはないのかも…
心の中では80%は許していたけど、許せない意地みたいなものもあった。3年になって半年くらいたった時か、先生と何の話だったか忘れたがしてた時、「こんな話は上野くんにしかできないから…」とか言われそういう話をするくらいの仲だったはず。もし今会うようなことがあるとすれば、素直に話をすることができるのだろうか。


はい!
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