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アイデンティティ


この間、自分の腰くらいの高さのサボテンを見た。
しかし、商業施設の中にあったそのサボテンは、
トゲが全部取り除かれていた。

それは売り物ではなく、
装飾として飾られていたものだ。

たしかにサボテンに何かの拍子に勢いよくぶつかったら、
と考えるとぞわぞわする。
もし俺が勢いよくぶつかったら、泣きながら
「なんでこんなの置いてるんだ…」と言うにちがいない。

それでも、サボテンを飾りたかったから
サボテンがサボテンたるあのとげを
一本一本切ったのか抜いたのかわからないが
しっかりリスクヘッジした人がいるみたいだ。

しかし考えてほしい。
サボテンの気持ちを。
自慢のとげを全部取り除かれて人前に出される気持ちを。

ただ、もしかするとあのサボテンは
サボテン界で犯罪を起こして人間界につれてこられたのかもしれない。
人間界で、「トゲ無し、商業施設5年」という刑罰を受けていたのかもしれない。
それならば仕方がないが、、

仕方がないが、「トゲ無し」はサボテンにとって刑罰レベルだと思う。

アイデンティティを失うのはそれだけのことだと思う。
つまり、自分を自分たらしめるものを失うのだ。

自分にとってのアイデンティティはなんなのか、と考える。

天パ?

身長?

国籍?

正直それらを失っても「自分」ではいられる。
なんなら天パについてはなくなってくれと思った時期もある。
きっとなくなってどうしようもなく辛いものが
アイデンティティなのではないだろうか。

サボテンにとっては目に見えるトゲが、それだったが
人間にとっては、
自分を自分足らしめるものは、他人だとおもう。

他人と言っても、不特定多数ではなく、
自分の人格形成に深く関わった他人だ。

自分を自分にしてくれたのは自分ではなく、
少なくとも親、愛する人、大切な友人のはずなのだ。

人間というものを一から始めたとき、「こうすべき」はない。
攻略本はないから、身近な人を参考にするしかない。
その人たちの好きなところ、嫌いなところをミックスしたのがいまの自分だ。
だから深く関わった人は他人であり自分の一部なのだ。
その人を失うのは自分を失うことでもあり、だから心に穴が開く。 こわい。

でも親を失うとき、自分には新たな自分がいるだろう。
それは子供だ。だから辛うじて生きていけると思う。
わたしは。

子供がいとおしいのはそこに自分を見るからかもしれないし
子供に腹が立つのはそこに自分を見るからかもしれない。

子供が何を見て、何を選ぶのか
自分の子供として生まれた時点で大枠は決まってしまう。
それはすこしもどかしくもある。

ただそこを補完するのが友人や恋人や芸術なんだとも思う。

どんな子供になってもらいたいか、
一言で言うなら

「朗らかな子」

オープンマインド的な意味で。

えっ、「朗らか」を子供の名前にいれたいなって
みんな思ってるから
大体の子供の名前が太郎なのかよ!!すご!!太郎すご!


……………………………………………追記というか反省
太郎 の郎 は
朗らか の朗と字が違うのよ
勢いでオチに持ってっちゃだめ

by嫁

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