(73)"黒い太陽"はいつ起きたか

074皆既日蝕のリング

黒い太陽とコロナ

『書紀』の神代編(巻一、二)のハイライトは「天の磐戸」のエピソードです。

原文は、スサノヲの乱暴狼藉に驚き傷ついたアマテラスが「乃入于天石窟閉磐戸而幽居焉」(乃ち天の石窟に入りて磐戸を閉じ幽居す)です。「天の磐戸」というものは登場していません。

アマテラスが磐戸を閉じると「故六合之內常闇而不知晝夜之相代」(六合の内、常に闇となり昼夜の相代を知らず)となりました。「六合」は天・地・東・西・南・北の6つを合わせたもの、つまり「世の中」とか「世界」を意味します。アマテラスが日神である所以です。

そこで、このエピソードは皆既日蝕のことだ、という解釈があります。また「倭人伝」に卑彌呼女王の死後、壹與という「宗女」を王に共立したとあることから、皆既日蝕が確認できる地こそ邪馬壹国の所在地だ、とする考えが生まれてきます。

この謎は「アマテラスの日蝕」「卑弥呼の日蝕」と名付けられ、多くの天文学者や地球物理学者が解明に挑みました(挑んでいる、と言ったほうが正しいかもしれません)。その結果、西暦247年3月24日の日没時と、248年9月5日の朝、九州北半で「ほぼ皆既に近い」日蝕が発生していたことが分かってきました。

247年の日蝕は日没後だし、248年の日蝕が目視できたのは東北地方に限られる、という異論も示されていますので、確定ではありません。

太陽が欠けながら西方に沈んでいき、薄暮の余韻もなく真っ暗闇になる。人々は日神が死んだと考え、恐慌に陥ったかもしれません。 あるいは明け空が訳もなく翳っていき、日輪(ダイヤモンド・リング)を伴う真っ黒な太陽に変わる。何が起こったのか分からずオロオロするうち、再び残暑の陽が輝くーーどちらが衝撃的かは感じ方の違いでしょうが、前者は暗澹と絶望ですし、後者は済度と希望と言っていいと思います。

九州北半の人々が、247年、248年と2年連続で皆既日蝕を体験したなら、日神は一度死んで蘇る(太陽→日輪→太陽)ことを知ったわけでした。冷涼気象による凶作が断続的に続いていたので、人々は巫女(巫蠱)を王に共立した。その場合の王とは、再びの天変地異にあって霊力を失ったものと見做され、命をもって贖う存在でした。

その状況で巨大地震と津波が倭人社会を襲ったのです。伊都國の王が卑彌呼女王に死を与え、ややあって宗女壹與を立てた、とも理解できます。筋書きを書いたのは張政を長とする帯方郡(魏帝国)の使節団だった可能性も残っています。

その目線をもってすれば、『書紀』の「天の磐戸」譚はもう一つ、次のような読み方ができます。 スサノヲに象徴される勢力は、アマテラスに象徴される勢力の領内に攻め入って対峙していた。石窟の前に参集していた神々とは、アマテラスを共立していた集団の頭目たちです。

双方が引くに引けない長陣になりかかったとき、皆既日食が起こったか、アマテラスが隠れた(死んだ)ので、戦いは中断され、何らかの交渉ののちスサノヲは陣を解き、自領に帰還していったーーというわけです。

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