(30)ミマキ王権は武断的だったか

030ミマキ武断政権

視点を変えて、ミマキイリヒコ王権(以下「ミマキ王権」「ミマキ大王」)の性格を見ておきます。というのは、ミマキ王権の性格が武断的であれば「東征」が現実性を帯びてきます。ミマキ大王が剣・鏡・玉を伴って鉾・銅鐸の集団を上書きしたのか、という質問への一つの答えになるでしょう。

『書紀』のミマキ大王紀から軍事的・武力的な記事を拾うと、治世十一年の「四道将軍の派遣」「タケハニヤス王の反乱」が目につきます。『書紀』はこの話の前後の時系列が混乱を起こしていて、タケハニヤス王の反乱は実は四道将軍を派遣する直前のエピソードです。

まず、タケハニヤス王の兵が山背(京都)、大坂(大阪)方面から「帝京」に攻め込んできたので、「那羅山」で迎え撃ったという話があって、次に四道将軍を派遣したのです。派遣先は北陸、東海、吉備、丹波ですが、具体的な戦闘の記述はありません。タケハニヤス王の反乱の方がはるかにリアリティがあります。

「那羅山」は平城京の北方の丘陵ですので、ミマキ王権の支配が確定していたのは奈良盆地の南半(三輪山を背後に王宮を置き、西は香芝市、北は大和郡山市、南は明日香村あたりまで)だったことが推測されます。

ところでミマキイリヒコの漢字表記は、『書紀』が「御間城入彥五十瓊殖」「御間城天皇」「御間城尊」、『古事記』は「御眞木入日子印惠」「御眞木天皇」、『先代舊事本紀』は「御間城入彦五十瓊殖」となっています。漢風諡号「崇神」は『書紀』巻第五の冒頭にある「崇重神祇」に依っていると思われます。

「崇」はスウと読み、「山が高く聳えるさま」から「見上げる」「あがめうやまう」の意味に使われます。総じて「重ねて神祇をあがめる」の意。

「城」という文字が入っていることから「ミマの城の入彦」と解し、「任那の城の王」のことではないか、という見立てがあるのは周知の通りです。この説では「九州の筑紫地方で代を重ね、力を蓄えて畿内に入った」とする論説もあるようです。

しかしそうなると側室の王子「トヨキイリヒコ」(豊城入彦)、ミマキイリヒコの孫・オシロワケ大王(景行)の王子「イホキイリヒコ」(五百木入彦)をどう解釈するか、ということになってきます。「トヨの城」「イホの城」とするなら、任那とのかかわりか、どこの「城」なのかが説明されなければなりません。

ここでは「キ」は高木神=高皇産霊(御実質的な天上界の主宰者)、その憑代としての「木」と理解すると納得感が高まります。高い木に祖霊が降りてくるというのは、ヤグラを囲んで輪になって踊る盆踊りの背景にある土俗的な信仰です。

つまりミマキは「真なる木」に表敬の「御」がついたもの、トヨキは「豊かな真木」、イホキは「たくさんの真木」としておきます。

ミマキ大王の正妻ミマキ姫(御間城姫)も「ミマキ」の名を持っています。ヒコとヒメが一対で一つの機能を果たす『書紀』神話の構成を、ちゃんと引き継いでいるのです。ニギハヤヒ直系の女性が巫女として神の託宣を告げ、男王が実行する。ミマキ王権は祭祀的性格が強いと考えていいと思います。

写真:「タケハニヤス王斬首の地」碑

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?