(37)物流から見ると別の景色

画像1

紀元前5世紀以後、どれほどの量の青銅の利器がこの列島に持ち込まれたのか、という素朴な疑問に関連して、どうやって運んできたのか、という疑問が湧きます。海で囲まれていますから船で運んできた以外にありません。

島根県の荒神谷で発見された358本の銅剣は、おおむね長さ50cm、重量500gと規格化されていて、出雲地方で鋳造されたことが分かっています。その元が中古の青銅器だったのか、インゴッドだったかは分かりません。

同遺跡ではこのほかに銅鉾16本、銅鐸6口が見つかっています。これは九州北半で鋳造されたものだそうです。青銅利器の工房だったのか、全国でも珍しい規模の祭祀場だったのか、出雲地方の大王の王宮だったのか、空想は膨らみます。

ともあれ剣だけで200kg以上、その他を合わせて400kg以上の青銅が運び込まれたわけです。何度かに分けたにせよ、また何か所は中継地を経由したにせよ、例えば池や湖で観光用に供される手漕ぎボートのような舟では、日本海を乗り切れるものではありません。

弥生時代の船(舟)は現物が発見されていないので正確なことが分かっていないのですが、土器に描かれた絵によると、舳先や舷側を備えた準構造船が利用されていたことが分かっています。帆を広げて風を動力とし、通常は4人から8人の水夫が乗り込んで櫂(オール)で漕いだのです。

岐阜県大垣市にある荒尾南遺跡の方形周溝墓から出土した弥生式土器には、82本のオールで漕ぐ大型の準構造船が描かれていました。82人で漕ぐような大型船であれば、外洋に漕ぎ出して、長距離の移動ができて不思議はありません。

青銅器から船(敷衍すれば物流=交易)に話を進めると、日本古代史の景色がちょっと変わってきたことに気がつきます。弥生国邑は水稲耕作を基盤とする農耕集落というイメージですが、どうもすべての集落にそれを当てはめるのは間違いなようです。

弥生集落のいくつか、あるいは特定の地域の集落は、農耕や漁労を営むかたわら木工品を作り、金属器を鋳造し、土器を焼き、綱や紐(ロープ)を編み、船を作り、湊を整え、海運や物流に従事していたということです。

それは「職業」の概念があって、専門職(職人)が分業する社会が形成されていたことを意味しています。乗組員が4人であれ8人であれ、まして40人、80人となれば、組織的な動員力と指揮命令系統が確立されていなければなりません。

それだけではありません。

交易(海運・水運・陸運)を一過性でなく持続性を維持するには、中継拠点が整備される必要があります。九州北半から出荷された青銅のインゴッドが荒神谷に届くまでに、江戸時代の菱垣廻船、北前船のような荷役と取次のルールがあったのでしょうか。

前章で、青銅の武器は戦争を誘発していないということを書きました。物流の視点で眺めると、それは当然のことと理解されます。中継地や届け先の人たちとイザコザを起こして、何の利益があるのか、ということです。ただし、鉄器の武器は違います。

写真:荒神谷遺跡の銅剣、銅鐸の出土状態

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?