(34)日本での製鉄は5世紀から
剣は両刃で、通常片手で扱う細身で直線的な中国式と、幅広で木製の柄を付けて使う遼寧式、朝鮮式が知られています。日本刀と同じような殺傷法ではあるのですが、遼寧式のうち幅が広くて重量がある剣は、振り回して打撃を与える機能もあったようです。
また鉾(矛)の音は「ボウ」、戈は「カ」ですが、ともに訓が「ほこ」であることから分かるように、長柄の先に付けて使わるという点で、日本人にとっては同じものに見えたのです。鉾は遼寧式銅剣のような形状の刃で突き刺し、戈は鎌のような刃を振り下ろして殺傷します。
しかし日本に入ってきた青銅の武器は戦争の道具として使われず、銅鐸の材料として溶解されました。
実験考古学というアプローチで、当時の銅と錫の割合で銅鐸を作ったところ、驚くべくことに、黄金に輝いていたことが分かりました。キラキラと金色に輝くからこそ、青銅器は大型化・装飾化して、「壇上に飾るもの」に変わっていきました。
弥生の村々に黄金の銅鐸が祀られるようになったB.C200年ごろ、中国・燕地(現在の北京周辺)、次いで朝鮮半島の韓地に鉄の鉱脈が発見されました。その結果、朝鮮半島南端の工房で作られた斧や鉋が筑紫平野にもたらされ、材木の伐り出しと加工に使われたことが分かっています。
鉄の農具と工具によって農業の生産力が増し、住居がよくなり、彫刻などを伴う特殊な建物が建てられるようになりました。筑紫平野の村々は鉄の価値を認めたのですが、製鉄の技術を持っていなかった。韓地の工房(鍛冶屋さん)と仲良くしておかないと、自分たちがほしい鉄器を作ってくれない事情がありました。
『書紀』によると、鍛治を生業とする技術集団は、オキナガタラシ姫(神功女王)のとき、カツラギのソツヒコ(葛城襲津彦)が新羅国の草羅城(さわらのさし)から連れ帰ったとされています。オキナガタラシ姫もソツヒコも伝説上(架空)の人物ですので、古墳時代の早い時期に鍛冶屋さんが誕生して、鉄製品を作れるようになっていたのでしょう。
前述の草羅城は旧伽耶地域の南西部、現在の大韓民国慶尚南道梁山(Yangsan)に比定されています。倭国の橿日(福岡市香椎)から海に乗り出したソツヒコは蹈鞴津(たたらつ、釜山広域市多大浦:海水浴場で有名)に上陸したと記述されているので、古代はこのあたりに鉄の一大産地だったことが分かります。
蹈鞴が鉄に関係することは周知の通りです。古代の日韓関係は鉄が基軸でした。
日本国内で砂鉄を溶解して鉄を精錬できるようになったのは、5世紀の中ごろ以後と考えられています。鉄器が入ってきたのはB.C4世紀、普及し始めたのはその100年後ですから、およそ10世紀近く、この列島の人々は鉄を輸入するしかなかったのです。
いやいや鉄の優位性を知ってから千年近くも鉄を作れなかったということはあり得ない、その証拠に弥生遺跡から鉄滓が出ているじゃないか、という指摘があります。ただし鉄滓がただちに鉄を作っていた証拠といえないのが厄介なところです。製錬で出る場合もあれば、鍛冶で出る場合もあるからです。
写真:弥生遺跡から出土した鉄滓(発掘情報いばらき)