(35)殺傷人骨が物語るもの

035首なし

弥生の埋葬遺跡から出土する「殺傷人骨」(「受傷人骨」とも)に関する調査があります。

それによると、弥生中期前葉(~B.C300年)までの殺傷人骨から読み取れるのは、個人的、集団的、組織的を問わず、殺傷に用いられたのは石斧や短剣、弓矢だそうです。

骨に残っている傷の形状や角度から、どのような利器がどのように使われたのかも分かってきました。

分かったのは、・背後から至近距離で刺す ・窪みに潜んで見上げる角度で弓矢で射る ・遠くから弓で射るーーというパターンです。正々堂々の尋常な立会いではなく、だまし討ち、不意打ちと言っていいでしょう。この戦い方は縄文時代の殺傷人骨と共通します。

ところが弥生中期中葉(B.C300~)以後になると、鋭利な刃の痕跡や鏃の痕跡が認められ、かつ正面から利器を利用したケースが目立つようになってきます。正面に向かい合って遠距離・近距離から弓矢で射る、しかも数人が一斉に矢を放つ、矢や刀剣、棍棒、石など複数の利器で殴打・殺傷するというケースです。

専門家は「まず遠くから一斉に矢を射って、倒れたところを剣で刺すという組織的な武闘が考えられる」としています。 特に後期(A.D100~300)になると、1か所から大量の殺傷人骨が出てくることがあるそうです。

なかでも吉野ケ里遺跡の甕棺墓からは、頭蓋骨がなかったり、手首や肩に深い刀傷を負っていたり、腹部から鏃が十個伴出するといった殺傷人骨が複数発見されています。吉野ヶ里では明らかに組織的な戦闘が行われたのです。

何を意味しているかというと、弥生中期前葉までの武闘は、個人対個人の闘いか小規模な小競り合いだったのが、後期になると組織だった戦闘による死傷が増えたということです。

その背景には鉄製農工具の普及→食生活の安定→人口の増加→余剰生産物の蓄積→非農耕従事者(政治・軍事の指導者や管理者、軍事専従者)の発生というサイクルがあったと考えていいと思います。

甕棺から発見された殺傷人骨から、弥生後期(A.D100~300)の筑紫平野では組織的な戦闘が行われていたことが推定されるーーこの調査を行ったのは国立歴史民俗博物館の松木武彦教授を中心とする研究チームです。弥生時代の人口動態が社会に与えた変化を解析するのが研究の目的で、その一例として戦闘、戦争が取り上げられました。

食料供給が安定的に増加すると人口爆発が起こる、というのは有名なマルサスの法則です。人口は等比級数的に増加するが、食料は等差級数的にしか増えないので、食料の略奪が起こります。

広場を中心に20戸30戸が集まり、周囲に溝を深く掘って逆茂木を設け、柵で囲み物見屋を建てる。 小規模な戦闘(小競り合い)を経て、戸数20~30の集落が数百戸超の規模に拡大し、弥生邑国が形成されます。

集落が保有していた祭器が集められ、一括して祭祀されたり新しい祭器に変わっていく。警備・防衛の専門職が誕生したのがA.D100年ごろ以後というわけです。新しい生活スタイルが思考モデルを変化させ、多くの銅鐸が鏡に作り替えられたのかもしれません。

写真:吉野ケ里の甕棺から発見された首なし人骨(吉野ヶ里遺跡)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?