見出し画像

根源(心の柔らかい部分)を触ることについて

自分は、アーティストとして作品を作り、趣味で小説を書いている。アーティストは自分の感性や感情を解像度高く正確に表現に落とし込む必要があるし、小説は自分の感性や感情のレセプターがどのようなロジックで動いているか正確に知ることができる。「夕日が綺麗」より「夕日は地平線に近いから手が届きそうだと思うけど歩いてはいけない場所にあって、気温は暖かいけど冷たい風が肌を撫でて心地良さを増大させる」といった方がアーティストっぽく、「夕陽に惹かれるのは子供の頃に母親の帰りを待って外を眺めていた光景を思い出し、あの日々が戻ってこないのかと思うと胸の辺りが締め付けられる」というと小説っぽくなる。

アートも小説も他人の作品を見ることで学ぶこともできるが、リアルで共感をうむ表現には自分の経験が必要になってくる。他人との会話をはじめとした「思い出」と言われるコミュニケーションは、広義の意味での共感によって他人の体験をまるで自分の体験のように追体験しインポートする行為に似ている。自分のようにアートや小説などを通じて自己表現を行っている人間は、常に日常の出来事に対し「自分は本当は今何を感じ考えているのか?」を考え、自分の発言(表現)が正しく相手に伝わっているか不安になり伝わらないことにストレスを感じ、言葉を慎重に選ぶ。今、斜線を引いたように「不安」という感情とは言い切れない時は「ストレス」という抽象的な言葉も選ぶ。わかりやすいが間違っている表現より、伝わりにくいが自分の伝えたいことを包含している表現を好む。

人と話す時も相手の言葉遣いが気になる。「思った」「考えた」「ふと頭をよぎった」「なんとなくそう感じる」「〜のはずだ」というように、自分の思考が生まれたプロセスを表現する言葉は無数にあるし、その言葉を意図的に選ばなくても無意識で選ぶということには理由があるはずだ。このように考えてしまう。

自分は慎重に言葉遣いを選ぶ状態になると、相手の言葉遣いを深読みしてしまう。何かに怯える様子から、ネズミ状態と自分は言っている。お酒を飲むと逆に気が大きくなってライオン状態になることが多い。相手の言葉遣いに意識が向くと、相手の心に触れたくなる衝動に駆られる。そして、それを悪いこととも感じていないため、不用意に土足で他人の心の中に踏み入ってしまう。自己開示から始まり、相手の深層に根ざしていると思われる悩みや葛藤が当たっているかを聞く。そして、相手が抽象的な言葉を選ぶと、具体的な感情を表現できる言葉が当てはまるか聞いていく。そうして、手探りで相手が普段気づかないようにしている部分を掘っていく。自分が泣いてしまうこともあるし、相手が泣いてしまうこともある。悲しいからではなく感受性が敏感になりすぎるからであると自分は推測している。

なぜ相手の心の奥底を見たくなってしまうのかは自分にもわからない。自分と同じような感情を抱いてくれることで孤独感を埋めているのかもしれないし、達成感に満足しているのかもしれないし、相手にとって特別な存在になれることに優越感を感じているのかもしれない。だが、衝動を生み出している怪物の正体は、絶対と言っても問題ないほど「自分の本心がわからないこと」へのモヤモヤが生み出している。このモヤモヤが、前進的で好奇心のようなものなのか、後進的で不安感のようなものか、正直今の自分にはわからない。ただ、「自分の本心がわからないこと」が生み出している衝動であることは間違いがないと思う。

自分は「本心がわからないこと」が不自然だと感じている一方、すごく人間的なもので面白くも感じる。だからこそ、「根源への旅路」と呼んでいる自分の本心や原体験に迫ろうとする姿勢こそが人間のあるべき姿だと考えてしまうのかもしれない。しかし、全ての人にこの考えが当てはまらないことも知っている。自己表現を行わない人にとっては、「根源」とはトラウマでしかなく、なるべく向き合わない方がいいのかもしれない。自己表現をアートなどで昇華できる人はそれをガソリンと考え利用するが、自己表現を行わない人がガソリンを飲み込むと消化できないし毒でしかない。

この前「あなたはいつか人に刺されるよ」と父親のような人から言われた。他人の心に”土足”で上がる行為は暴力よりももっと残酷なことをしているのかもしれない。「根源」の消化(昇華)は他人にはできないし、一方的に存在を教えて苦しめる行為は確かに残酷だ。それでも、自分は「根源」に歩みを進めることで救われている部分もあるし、折り合いがついて成長した部分もある。この出来事も原体験であり、ある種の「根源」だ。僕が救われたように大切な人達は救われて欲しいし、誰もがいつかは「根源」と向き合わなければならないのならば手の届く範囲で向き合ってほしい。エゴであることはわかっているが、大切な人が苦しんでいることすら気づけなかった無力感はもう感じたくないのだ。結局どこまで行ってもエゴでしかないことも自覚している。

「あなたがトラウマの蓋をわざわざ開けることはないかもしれない。いきなり蓋を開けられたらパニックで苦しいから、相手が蓋を開けるタイミングを待ってあげるといいのかも。」自分が尊敬している人に相談をするとこう返してくれた。
自分はどうするべきなのかまだ答えを出せていない。これからの人生で身をもって学んでいくのだろう。だとしても、相手の心の蓋を見て見ぬふりすることは難しいし、間違っているのではとすら感じてしまう。
文章表現は自分自身を移す鏡でもあり、本当は自分が救われたいだけかもしれないこともわかっている。

今日はこの辺で!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?