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【Dear my Amnesia】第九話

第九話 望まれなかった再会

 次にヴィギルが目を覚ましたのは、自室のベッドの上だった。
兄のアンが現れた事で気を失った事を思い出し、改めて己の臆病さを恥じた。
ふと、視界の端に人影が見える。どうやらまたオフィーリアがついてくれていたようだ。

「ギールさん、大丈夫?」
「…すまない。不様な所を見せてしまった」
「本当だよ。淫魔型だからって、あんなにお兄さんを怖がるなんて。私だってあんな事をされて、凄く怖かったのに」

少女の苦言に、悪魔は気まずそうな顔で目を逸らした。トームはと言うと、アンが破壊した窓をナイツェルと共に修理しているそうだ。
そこでオフィーリアは、今の内にヴィギルから兄のアンについて訊いてしまおうと思ったようだ。

「ねぇ、あの人が私達の父親を名乗っていたの。お兄ちゃんは虚言だと言ってたけど、悪魔は嘘を吐けないのでしょう? どういう事?」

 悪魔は顔を顰めた。兄が何故この兄妹にそんな感情を抱いたのかまでは分からなかったが、兄が何を考えてそう言ったのかは手に取るように理解出来た。

「……確かに嘘は吐けないが、思い込みが強ければそれは嘘にならないんだ。だから兄さんは、本気で君と君の兄さんを自分の子供だと思っているんだよ」
「それはどうして?」
「分からない。兄さんは自分の気に入ったものの事は全て把握したいが、自分の素性を語ったり他人に知られたりするのは嫌がる人だったから……」

そう言ったヴィギルの手は、また震えていた。余程兄の事が恐ろしいのだろう。心配よりも好奇心の方が勝ってしまった少女は、彼に兄を恐れる理由を尋ねてしまった。
 言い淀みながらも話した悪魔の返答は、どれも驚くものだった。まず歳が五百程も離れていて、歯向かう事など到底敵わない事。食事をしようとしない弟を見兼ねて、拘束された状態で無理矢理人間を食べさせられた事。果ては戦況が不利になった事への八つ当たりに我が子を殺そうとした父から弟を救う為、魔王を直接手にかけた事。その時ヴィギルが感じた恐怖は、想像するのも悍ましいものだった。

「魔王は、天使達に殺されたんじゃなかったの?」
「天使達はそう言うだろう。だが俺の目の前で起こった事だ。出来る事なら、幻であって欲しかった……」

そう締め括った悪魔の唇は、すっかり青くなっていた。それを見たオフィーリアは、己の言動を後悔してしまう程にヴィギルに同情していた。
どうにか彼の気を紛らわせてやれないか、少し考え込んだシスターはあっと声を上げた。

「そうだギールさん、気晴らしに町へ行ってみない?」

 暫くの間、悪魔は瞬きを繰り返したまま何も返せずにいた。そしてオフィーリアの気遣いを察すると、すぐに首を横に振った。
オフィーリアの備忘録として眷属の蜘蛛だけを置いておくのは心許ないというのもあったが、ただでさえ孤独に過ごしてきた彼女を一人にしたくないという思いの方が強かった。
更に言ってしまえば、この悪魔の正体が知られていないのは教会の力が働いている可能性も捨てきれない。外で出た直後に天使達に見つかり、殺される未来を想像してヴィギルはまた震えあがってしまった。
しかしオフィーリアはにこりと笑って、少しだけ声を落として悪魔に顔を近付けた。

「大丈夫だよ。昨日お風呂に入った時、ギールさんが天使達に見つかりませんようにってお祈りしたから」
「お風呂……?」
「そう。お兄ちゃんには内緒よ? 私、お風呂に入ってる間だけは神様にお祈りを聞いてもらえるの」

悪戯っぽく笑うシスターの言葉は全く根拠が無いというのに、ヴィギルは何故だか心の底から安堵してしまった。
だがやはり、彼女を教会に独りにさせたくない気持ちには勝らない。首を縦に振ろうとしない悪魔に、シスターは少しだけ哀しそうに微笑んだ。

「あのね、買って来て欲しいものがあるの。駄目?」
「買って欲しいもの?」
「私、お裁縫をやってみたいんだ。でも針は危ないからって、お兄ちゃんは買って来てくれないの。だから針と糸と、綿と布を買って来て欲しいの」

そう頼まれてしまうと、ヴィギルは断れなかった。二つ返事で了承すると、オフィーリアはパッと明るい笑顔を見せた。
部屋を出ると、トームが驚いた顔でこちらを見た。運が良い事に、ナイツェルは外の巡回に戻ったらしい。ノートに「少し外の空気を吸いたい」と書いて見せると、神父は気まずそうに笑って見送った。
教会を出ると、空は吸い込まれそうな程に青かった。坂を少し下ってから周囲に誰も居ない事を確認すると、悪魔は無数の蜘蛛を呼び集めて全身に纏わせた。そして蜘蛛達が散った後は、ヴィギルはシスターから一般の男性に姿を変えていた――。

 ――町に出たヴィギルは、すぐに自分の行動を悔いた。道行く人々が視界に映る度、己の喉と腹の虫が鳴るのだ。
やはり人間の手料理では腹は膨れないらしい。教会の中に居たためなのか、空腹に駆られたのは最初にトームの顔を見たその時のみだ。
歩を進める体力も衰えていき、直にその場に座り込んだ。
鳴り続く腹の虫を必死に押さえていると、通りがかりの女性が声をかけてきた。
その女性の顔を見た途端、更に食欲を掻き立てられた。悪魔としての本能が、ヴィギルの理性を打ち砕こうとしていた。
その時、背後から誰かに首元を乱暴に掴まれた。そして引っ張り上げられたと思えば、また懐かしい声がそこから聞こえた。

「悪いね、この人いつもこうなんだ。皆に心配されたくて、わざと不健康になるのさ」
「あら、知り合いなの?……いえ、兄弟ね?顔がよく似てるもの」
「まぁね、全く恥ずかしいよ。ほら、帰ろう?」

ヴィギルにそう語りかけるその声は優しかったが、彼の首元を掴むその手からはぎしぎしと力が込められていた。そこから強い怒りを感じて、彼は為されるまま声の主に引き摺られてしまった。
そしてある建物に入ると、ヴィギルは壁に叩きつけられるようにして放り投げられた。

「生きていたとは思わなかったよ。僕の獲物を横取りしようなんて、余計な所がアン兄さんに似てきたね」

そう言われて顔を上げると、ヴィギルが探していた顔が侮蔑の表情で睨みつけていた。彼の弟であり魔王の三男、吸血型のフラッセオである。
弟の顔を見た途端、ヴィギルは何かを話そうとした。しかしその言葉は彼の喉奥で渋滞し始め、結局詰まったような声しか出せなかった。
そしてまた腹の虫が鳴り始める。情けない兄は精一杯それを手で押さえて堪えようとするが、既に限界だった彼の胃袋は悲鳴を上げ続けていた。
見兼ねたフラッセオは棚の扉を開けると、そこから赤黒い液体の入った小さな小瓶を取り出した。

「気休めにしかならないだろうけど、非常食の兎の血さ。一つ貸しだよ」

そう言って手渡された小瓶を、ヴィギルは齧り付くようにして一気に飲み干した。途端に胃袋は落ち着きを取り戻したようで、しんと静まり返った。
頭も少し冴えてきたらしく、ヴィギルは弟の顔をじっと見つめるとこう言った。

「ありがとう。ところで、あの山の教会に行った事はあるか?」
「薮から棒だなぁ。答えたところで何になるのさ?」
「俺はあそこのシスターに匿ってもらっている。ラシーという男が修道士としてあの教会に居たらしいが、彼女は健忘症で名前しか分からないと言っていた」

フラッセオは大きく目を見開いた。大きく失望したような、怒りにも似た表情を見てヴィギルは確信した。弟もそれを悟ったのか、観念したような顔で力無く笑った。

「ああそうさ。僕はあの教会で、修道士として働いていたんだ。あの神父は僕の正体に気付いていたから、奴が唯一頭の上がらないフィリーとも随分仲良くしていたんだけどなぁ……。通りであの男、何の躊躇いも無く僕を祓おうとしてきた訳だ」
「正体に気付いていたのに、あの男が易々とお前を教会に入れるとは考えられない。どうやって取り入ったんだ?」
「簡単さ。あいつの前で、弱い悪魔達を殺して見せたんだ」

怖気が背筋を駆け抜けた。この狡猾で薄情な弟は、トームの信頼を得る為とは言えいとも容易く同族を手にかけたのだ。
そしてあの祓魔師が妹に甘い事を知った彼は、すぐさまオフィーリアと友好的に接したらしい。そうまでして、フラッセオは安心して暮らせる場所を欲していたのだ。
しかしそうなると、もう一つの疑問の浮かび上がる。何故弟は今あの教会ではなく、こんな町の寂れた場所で身を潜めているのか。
そう問うと、フラッセオは歯を軋ませて怒号を部屋に響かせた。

「全部あの男の所為だ。全く忌々しい! 何故あんな奴が僕の長兄なんだ! フィリーは僕が先に狙っていた獲物だったのに!!」
「何だと? お前まさか、オフィーリアを食べるつもりだったのか!」

ヴィギルも思わず怒鳴り返した。恩人でありたった一人の理解者である彼女を狙う者など、例え弟であっても許せなかった。
しかし珍しく次兄が声を荒げた事にも臆さず、逆にフラッセオは呆れたような顔でこう言った。

「何をそんなに怒っているのさ。悪魔が人間を食べるのは、自然の摂理だろう? 人間達も牛や植物を食べるんだ。ギール兄さんだって、さっき兎の血を飲んだじゃないか。兎は良くて人間は駄目だなんて、随分と差別的だなぁ。どれにしたって、等しく命である事に変わりはないだろう?」

ヴィギルは言葉を詰まらせた。フラッセオの言い分に、一つも誤りが無いと思ってしまった。
だがやはり、弟がオフィーリアを食べようとしていた事だけは許せなかった。死に至る程の量を吸う事などないと分かっていても、それだけは認められなかった。
終いにフラッセオは溜息を吐くと、兄を睨みつけて見下したような顔でこう吐き捨てた。

「もう用が無いなら、さっさと消えておくれよ。あんたの顔を見ていると、本当に苛ついてしょうがないんだ。二度と目の前に現れないでくれよ、この偽善者が」

ヴィギルはやはり返す言葉も無く、項垂れて部屋の出口へと向かった。だが部屋を出る前に一つ、これだけは弟に言ってやりたかった。

「お前が無事だと知れて良かった。これからも達者で居てくれ」

一瞬だけ、フラッセオは憎悪を込めた顔でまた兄を睨んだ。だがすぐに落ち着かせると、今度は嘲るような笑みを向けてこう返した。

「一つ予言してあげるよ。ギール兄さんにも必ず、あの子を食べたくて食べたくて我慢出来なくなる日が来る。そうなる前にさっさとフィリーの前から消えて、天使達にやられて欲しいものだね」

ヴィギルは弟の言葉を背中で受け止め、彼の家を後にした。

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