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現代の絶滅危惧種?ある文芸評論家の”書生”をしていた青年の数奇な半生

 「書生」をしていたという人に会った。この平成の世においてである。

 浪漫派の作家・泉鏡花は尾崎紅葉の書生をやっていた。私小説作家・藤澤淸造も斎藤隆夫という弁護士の書生であった。しかしそれらは明治の話である。

 そんな21世紀において絶滅危惧種である職業の経験者は、世希哲(せきさとる・筆名)さん、47歳。彼は某文芸評論家の書生を10年間やっていた。


君の住むところを確保しといたから

 世希さんと師匠となる文芸評論家との出会いは、彼が18歳のとき。師匠はそのとき40代。世希さんが通っていた予備校で師匠の講演会が開かれた。それに出席していた世希さんは、講演終了後に師匠に質問をする。

「いま言われたことがさっぱりわからなかったので、もう一度教えて欲しいんですけど。なにがわからないのかすらわからない」となんとも正直に。すると師匠は、「ちょっとそこに待っていなさい」と世希さんを待たせ、喫茶店に連れて行って話を聞いてくれた。

 師匠は世希さんに何か感じるところがあったのだろうか、その後、ふたりは毎週水曜日の夜に喫茶店で2,3時間会うようになる。師匠は博学な人で、哲学、文学、風俗と、それこそ多岐にわたる話をし、それを世希さんは浴びるように聴かされ続けた。

 そんなことが1年ほど続いた。ある日、世希さんは師匠からこう言われる。

「君の住むところを確保しといたから」「餌も確保しておいたから」

 世希さんは師匠の家に近いマンションの一室をあてがわれ、その近所の喫茶店と予備校近くの喫茶店で何でも何度でも食べ放題の権利を得た。さらには“研究費”と称する月3万円のお小遣いが支給された。

絶対にしてはいけない禁止事項

 こうして世希さんは師匠の「書生」になったのだが、仕事は何かというと、何も無い。毎日好きなだけ寝ていてもよい。それは、「書生」ではなく「愛人」なのでは? という疑問がわくが、あくまで、「書生」とのこと。ともかく、世希さんのまるでお蚕さんのように囲われた生活は始まった。

 ところでこの生活、たった一つ、これだけはしてはいけないという禁止事項があった。それは何なのか? というと、答は「アルバイト」。仕事というのは全身全霊を傾けてやるものであり、生活の為にやるアルバイトは仕事ではない、と、師匠の美学のようなものによって、それだけは禁止されていた。

与えられた仕事は「世の中の疑問を質問すること」

 書生としての仕事は無いとはいっても、さすがに師匠の家の掃除とかやらなくてはいけないのではないか、そう思った世希さんは、「何をしたらいいですか」と師匠に尋ねる。そこでやっと仕事を与えてもらえるのだが、それは、「世の中をよく歩き回って、疑問に思ったことを質問してこい」というもの。

 言われた通りに1週間、歩き回った世希さんは師匠に言った。「先生、歩き回ったんですけど、何にも疑問に思わないんですけど」すると師匠は首をもたげて煙草をぷかぷかさせながら、「何も疑問に思わないってことはね、君がそういう目線で見てないからでしょ」と言う。

「そういう目線でみるってどういうことですか?」

「世の中、文章でもそうだけど、疑うことからはじめなきゃならない」

「先生、疑うって、嘘が書いてあるかどうかですか?」

「書いてあることが真実であるとは思ってはいけない」

「でも先生、最初から嘘を書こうと思って書いているわけじゃないですよね」

「でも誰も真実を書こうと思って書いちゃいねーよ」

「じゃあ先生、書くってどういうことですか」

「どういうことなんだろうね」

「それがわかないから聞いているんですけど」

「僕も知りたいよ」そう言って、師匠はにたにたと笑う。

 師匠と世希さんの会話は、万事こんな調子であった。師匠は煙草をぷかぷかさせながら、ああ言いえばこう言い、文字通り世希さんを煙に巻くのだ。そして、にたにたと笑う。完全に掌の上で遊ばれていた。

みっちり書いた藁半紙を、ビリビリに

 その後も街中を歩き回った世希さんは、少しずつ疑問を持てるようになってきた。そうしたら次に第二段階目の仕事が与えられた。今度の仕事は、「研究社の英和辞典を書き写してこい」というもの。藁半紙を半分にし、★と★★と★★★と♦の印がついてる単語全部について、左に英文を、右に訳文を書いてこい、という。

「先生、これをやるには2か月くらいはかかりますけど」と世希さんが言うと、「僕だったら1週間でやっちゃうね」「それくらいのスピードでやらなきゃ僕の仕事はできない」

 師匠にそう言われ、それじゃあやるしかないと思った世希さんは、睡眠時間を削ってその作業に取り組んだ。師匠から「時計を見ちゃいけない」「布団で寝ちゃいけない」という条件を付けられていたので、それも守ってやった。

 「僕なんかやるときはポテトチップスを置いといて、それをかじりながらやるよね」と言った師匠の言葉を真に受け、ほんとうに世希さんもポテトチップスをかじりながらやった。

 1か月後。藁半紙の裏と表、みっちりと書いて、360枚。へとへとになりながらもやり遂げた。世希さんは感動を覚えながら師匠に見せに行った。師匠は肘をついて煙草をぷかぷかさせていたが、顎を少しあげて、言った。「よくやった」

 そして「よくやったけど、僕は1週間って言ったから」「もう一回やったら縮まる」そしてその場で藁半紙をびりびりに破いてしまった。

 もう一度同じ仕事をしなくてはならなくなった世希さんは、またも無我夢中でやった。そうしたら、1回目には1か月かかったものが、2回目には2週間で完成した。そして1回目ほどはへとへとにならなかった。師匠に出来上がったものを持って行った。「よくやった」「もう一回やれば1週間でできる」またもや藁半紙はびりびりに破かれてしまった。

 さすがに世希さんは「せっかくやったものをなんで破いちゃうんですか?」と思わず言った。そうすると師匠は「自分の完成品だと思って、それに喜びを覚えちゃいけな~い」と言って、やはりにやにやと笑っていた。3回目の挑戦で、世希さんはその仕事を8日半でやりきった。

離れてから初めて繋がった師匠の言葉たち

 そんな生活は10年間続いた。世希さんが28歳で大学に受かり、師匠から与えられていたマンションの部屋を出たことで終結となる。同じところに居続けずに巣立っていかなくてはいけないと、世希さんは師匠とそれ以降はあまり接触を持たず、昨年師匠は鬼籍に入る。

 喫茶店で師匠の話を浴びるように聴いていたときは師匠の話の意味がわからなかった世希さんだが、師匠から離れた後、浴びせられた言葉のひとつひとつが世希さんの中で繋がりはじめ、咀嚼出来るようになっていった。

 現在、世希さんは自宅で学問所を開いている。お蚕さんのように囲われて、知識の桑の葉を浴びるように与えられていた青年は、時を超えてその葉を咀嚼し、知識の糸を繋いでいる。(取材・文 めるし)

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