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ヨルとシーラカンス

目の前にいびきをかきながら上下する腹がある。
皺だらけのシャツの裾がだらしなくスラックスからはみ出ていた。

東京に残した妻と毎日暮らせば、こういう所にも気を遣える男になるのだろうか。
その場合気を遣うのは妻であってこの男では無いのだから、この男が変わることはないのだ。

私は残業を終えて彼が「棲む」ビジネスホテルに向かう。いつの間にか眠ってしまったのか、入り口以外のライトは付いていなかった。

窓の外から見えるネオンはコインパーキングの黄色い看板位で、あとは遠くの方に人の住む家の光がポツポツと寂しく見えた。
月明かりに照らされたシーツが、部屋の壁紙が、低い天井が、全部薄い紺色になって、ここは水槽のようだと思う。

男は週末になると水槽から抜け出して東京に帰る。そこには結婚して5年目の妻と産まれたばかりの娘がいる。水槽はあくまでも借りの世界で、そこでちゃんと人間らしく息をして暮らして、また帰ってくる。

私は今日も明日も明後日も週末も、その次の週もずっと、だらだら深い海の中を彷徨う。
彷徨うと言うより、留まっている。

この関係を不倫だといえば、そう言う事になるのだろう。
ただ個人的には不倫と言うと情熱的な意味合いが含まれているように思う。
ここには一切の情熱がない。あるのは惰性、あるいは慰めであり、凹んだり欠けたりしているものを均そうとするだけのごく僅かな働きしかない。

地方の営業所に飛ばされて3年が経った。

「生まれる子供の為に」を建前に懇願した男は平日だけホテルに仮住まいし、週末に東京へ帰る手当を貰っている。相手も子どももいない、帰る理由の無い私にはマンションの一室があてがわれた。

東京に居た頃自腹で住んでいたマンションより3倍程大きい部屋に会社の金で住めることは喜ぶべきなのだろうか。結局何事も捉え方に因るのだろうか。

私は週に一度、都会の匂いを持ち帰る男に付き纏う事で僻地に追いやられた自分を慰めた。
これはその結果だった。

ギシっと音がして吃驚する。男が寝返りを打ち、こちら側に顔を向けたと思ったらゆっくりと瞼を開けた。

「おつかれさま。…飲む?」

右手に持っていたコンビニの袋をあげる。
カサリと乾いた音が部屋に響いた。

「あぁ、寝ちゃってたか…。」

男はそう呟くと目を瞑り、ふたたび水槽の底へ潜って行ってしまった。

私は無言でコンビニの袋を鏡台の上に置く。安っぽい合板の鏡台にはコンタクトレンズの包装が散らばっていた。
ホテルの名前が印刷されたメモに、すぐそばに転がっているボールペンで「東京駅でフィナンシェ、エメラルドグリーンの、」と走り書きがしてある。汚い字だった。

バターバトラーのフィナンシェを笑って食べる男とその妻を想像した。何も感じなかった。

やることが無くなり、おもむろに鏡台の下にあるスツールに座った。パンプスの側面の皮が捲れている事に今気付いた。いつからだろう。

スマートフォンを取り出す。23時。時刻表示の下には青空の眩しい横浜の海がある。この海を一緒に見に行った恋人は、随分前に連絡を取らなくなってしまった。遠い場所に行くと、遠距離になると分かった時に頑張れとひとことだけ言った人。

ふと、この水槽で生き物の目線を感じた。
それは鏡台に映る自分の目だった。
青白い液晶に照らされたその顔はあまりにも虚で、いつか水族館でみたシーラカンスの標本に似ている。

深い、暗い海の底に静かに横たわる化石のような魚。長い間澱みに留まっていたせいで、帰りかたも、生きているのかも忘れてしまった魚。

相変わらず男は深い寝息を立てて寝ていた。
明日になればこの男はバスに乗り、新幹線に乗り、本来の棲処へ帰っていく。


泳ごう、泳がなければ。
ここにいてはいけない。

スマートフォンを握りしめたまま部屋から飛び出した。背後で何か声がした様な気がしたけれど、気のせいかもしれない。
いつ捲れたのかもわからない使い古したパンプスで、人気の無いホテルのフロントを小走りに横切り外に出た。

空には幾つも星が浮かび、鈍く光を放っている。
海の底から海面に向かって浮遊する空気の粒みたいだった。

泳ごう、泳ごう。






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