影憑き 2
「私たちの息子は死にました」
母親の声には確固たる決意が表れていた。確かに、彼らの息子は二週間ほど前に亡くなり、既に遺骨と化している。葬儀が終わりひとつの区切りが付いたとしても、長い人生を思えばまだ二週間。憔悴した表情が次第に強張ってゆくのを目にする前から、無理なことは分かっていた。むしろすんなり受け入れるほうが珍しい。
目覚めた少年は記憶を有しており、自分はトナミユキだと名乗った。調べると確かに戸波行という人物は存在しており、そして事故死している。しかしその記憶が本物であるのか精査できない以上、DNA鑑定が必要だった。そのためには家族にその旨を伝えなければならないわけだが、息子が生き返ったなどと言われて信じられる人間というのはそういない。
「影憑き」とは人の命が入れ替わる現象だ。死んだ人間が生きている人間に纏い憑き影となり、その生を奪う。悪く言えばそういうことだ。しかし生き返った者には何の罪も無く、自分の意思でそうなったわけではない。だから奪うなどとは喩え話でも言うべきではない。
にもかかわらず、目の前の無神経な男はそれを口にした。そうではないのだから、後ろめたく思うことはない。と愛想笑いを浮かべている。誰だこんな奴を担当にしたのは。無表情を努めていたものの、徐々に眉間の皺が深くなっていくのを止められなかった。
「突然のことで戸惑われているとは思いますが、いつでもご連絡ください。十八歳になるまでは保護の対象ですから」
逆撫でするような物言いを、夫妻が険しい顔で睨み付ける。お帰りください、という父親の震える声。息子は三十二歳で亡くなっているが、今現在、十歳の子供となってしまった。差し出された画像を見たとき、二人は息を飲んだ。恐らく子供時代の息子にそっくりだったのだろう。戸惑う、などという生易しい表現で済むことではない。
深く頭を下げ、一刻も早くここから立ち去りたかった。担当案件だから全て自分のやり方でやらせてください、とこの生意気な若者は言った。上からの指示もありそうせざるを得なかったが、やはり間違いだったのだ。いくら二十代半ばの若い未熟な人間だからといって、この思慮のなさはどうしようもない。
帰りの車中、運転免許を持たない男は後部座席で退屈そうにしていた。交渉が上手くいかなかったことに不満を抱いている。
「また子育てするのも嫌かぁ、てか生き返ってやり直すのも面倒っすねー」
黙れ、と言いたくなるのを堪える。少年の記憶のみを根拠に遺族に会いに行くつもりになっていたのを止めたとき、この男は「だって自分の子供が生きてたら早く知りたいでしょ?」と言った。裏も取らずに行くものではない、と直近の死亡者を調べさせたが、見れば分かるのに回りくどい、となおも言う。上司も止めず、好きにやるように、とまるで厄介事のような目付きだ。もう駄目だ、限界だ、これはもう自分の手には負えない。焦燥感に苛まれていた。
部門を独立させてはどうか、という話は以前から出ていた。影憑きへの対応は突貫で始まったがゆえに、何もかもが整わないままここまで来てしまった。事が事だけに担当したがる人間も居ない。それらが障壁となり、何度も話のみで終わっていた。待っているだけでは動かない。そう思い裏で準備は進めてきたものの、必要な人材の確保も難しく、あまりにも課題が山積していた。
しかしこの件が弾みとなり、また強力な戦力が見付かったことで、数ヶ月後には事務所を設立するまでになった。部門自体は残るものの、縮小して何れは殆どを外部委託に回すことになる。既に案件のいくつかは引き継いでおり、邪魔な上司のもっと上には協力的な存在も現れた。表立った活動はできないまでも、ある程度の後ろ盾になってくれたのが実現を早めたのだった。
最後の挨拶のとき、自嘲気味に言いそうな台詞を、件の彼は晴れ晴れとした表情で言ってきた。
「堤さん、俺のこと嫌いでしょ? まあコネで入った人間なんて気に入るわけないすよね」
一体何を勘違いしているのか、恵まれた境遇は彼のアイデンティティなのだろう。どんな反応を返すのも気に入らないが、しかし最後くらいは、と素直に感じていることを告げた。
「確かに君のことは好きではないけどね、私が気に入らないのは君が不誠実で配慮のできない人間だからであって、後ろに誰が居るかは関係ないよ。仕事に真摯であれば言うことはなかった」
思っていたのと違う反応だったのか呆気に取られた表情で、真面目……、とポツリと呟く。真面目で何が悪い、当たり前のことだ。しかしその当たり前が伝わらない。彼がここを去らない限り今後も会うことはあるだろうが、御免被りたいと思うほどに嫌気が差していた。
自分の裁量で決定できる環境になって初めて行ったのは、戸波行に会いに行くことだった。記憶では三十二歳でも十歳の少年と入れ替わっているため、施設では浮いてしまうのでは、と思っていたが、存外上手くやっているようだった。
自分は大人になりきれてない大人でしたからね。落ち着いた様子で語る彼を見ていると、あの時の戸波夫妻の姿が浮かんでしまう。結局DNA鑑定はできないまま、彼の存在は彼の記憶によって保たれている。影憑きで戻ってきた人間は記憶が朧気である場合が殆どだが、彼は死の直前までの全てを覚えているという。階段を踏み外して落ちていく体の浮遊感、ぶつかった衝撃、次第に意識が遠のくまで。淡々と、直面した現実を受け入れているのは元々の気質なのだろう。
迷っていたが、こういった人物ならば伝えても大丈夫だろうと判断した。十歳少年の家族から会えないかと打診があったのだ。彼は悩ましい表情で、会っていいんですかね?と尋ねた。その反応も無理はない。相手にしてみれば我が子を消し去った人物、どんな恨みを持たれているか分からない。実際過去には特定されて、危害を加えられた事件も起きている。目的がはっきりしていても会わないほうがいいとしか言えないが、そうなれば強硬手段に出る可能性も有り得るのだ。
通常、影憑きの当事者の情報はできる限り秘匿されていたが、戸波行は入れ替わったときに誰何されて名乗っている。名前を知られているということは独自に調べることが容易であり、それならば自分を介して、相手の動向を把握したほうがいいとも思う。けれども会う会わないは、本人に委ねるしかない。
十歳少年の両親、咲尾夫妻は自分たちが戸波行の親族であると言った。咲尾少年の祖母の旧姓が戸波であり、その弟の子が戸波行の父親で、二人は再従兄弟になるという。しかし戸波家は行が生まれた後から連絡を絶っており、それ以来絶縁状態にある。また、咲尾夫妻が事実を言っているとは限らず、疑おうと思えばいくらでも疑わしく思えてくる。
確認事項が山ほどあり、情報の整理をしなければならない。咲尾夫妻と戸波行本人の話を照らし合わせると符合が多いのは事実だが、それで「会いたい」になるのはなぜなのか?
息子の部屋に息子が居ない代わりに見知らぬ少年が居た。その瞬間、両親は全てを察したはずだ。影憑きは突然黒い靄に覆われて姿を変える。しかし憑かれた本人には、白から灰色へ、次第に体を覆っていく課程が見えているという。恐らく息子もそのように言っていただろうし、両親はいつ息子が居なくなってしまうか、怯えながら過ごしていたに違いない。
息子とのことは別問題と割り切っているのだろうか。そんな切り替えができるものなのか想像のしようもない。そして、戸波夫妻のこともある。もう一度連絡してみようと思っていると告げると、彼は渋い顔をした。
「親のことは気にしなくていいですよ。死んだと言ったのならそれが全てです。曲がったことが嫌いだから、今の僕を受け入れることはないでしょうね」
戸波家も咲尾家も、何らかの事情があって今に至っているのだろう。あの頑なな態度を見るに、言うとおり余計なことはしないほうがいいと解る。しかし放置していい問題とも思えず、結論を言えばコンタクトを取ったのだが、「息子はいません」というにべもない返事で終わってしまった。
彼は会うという選択をし、いざというときは護ってくださいね、と屈託なく笑った。それは悲壮感などない、無邪気な少年そのものだった。
面会は仲介役の自分と施設側から、数人の立ち会いの下で行われた。咲尾夫妻は特に感情を見せないまま抑揚なく、まるで事務作業のように既に終わった事実確認をしているように見えた。喜んでいるわけでもなく、憎しみを向けているようにも感じられない。本当に会いたかったのだろうかと思ってしまうほど違和感のある時間が流れていた。帰り際にはまた来てもいいかと問い、それに対して行は戸惑う様子もなく頷いた。
それから月に一度、夫妻は彼の許を訪れた。同席者は施設側に任せたため、何を話しどのように過ごしているのか、報告は受けているものの仔細は分からない。尋ねても普段どうしているかとかそんなことばかりですね、と行も不思議そうに答える。しかし嫌な雰囲気はない、と言った。
そのうちに咲尾家と行とのDNA鑑定が実施され、血縁であることが証明された。そこからの展開は介入の余地もないほどに速かった。二年経ち来年には中学入学という頃に、養子の話が上がった。入学に合わせれば周りも不審に思わないだろうという提案だった。行は迷うことなく、それを受け入れた。それとなく尋ねたが、そのほうがいいと思うから、という返事。彼にしては歯切れが悪い。
どこまで踏み込むか迷えば信頼を損ない、流れるままにしておけば信用を失う。自分がやるべきことは詮索ではなく、あくまで調整である。彼らの関係を土足で踏み荒らすわけにはいかない。しかし、これは本当に正しいことなのか? 歪な気配がしていた。既に出来上がっていた自然すぎるくらい自然な流れをなぞるような不自然さで、いつか破綻してしまうのではないかと思えるほどに。
何らかの動きに対処できるかどうか。選択を間違えれば一人の人生が台無しになる。自分も責任の一端を担っているということを、忘れてはならないのだ。
戸波行という仮の戸籍を与えられていた彼は、まだ肌寒い時分に正式に咲尾行となった。春には中学校に通い始め、既に通った道を再び歩き始める。それがどんな道のりになるのかは、誰にも分からない。
2023/12/24公開