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影憑き 1

 ガラス越しにベッドに座っている若い男は、既に白い靄を纏っていた。その姿で平然としていられる者はほぼ居ない。大抵は恐怖に怯えるか、諦めたように空を見詰めている。稀に抵抗し続ける者も居るが、何れにせよまともな状態とは言い難い。男もこちらに気付いて睨み付けてくる元気はあるものの、その顔はやつれて疲れ切っているのが分かる。歳の頃は三十歳前後、がっしりとした体躯をしているが、それが余計に悲愴感を漂わせていた。

 しかしまだ表情が判別できる。進行すれば体の全ては灰色の靄に覆われ、ぼやけたひとつの塊になる。そうなれば顔はおろか、人であるかすら判らなくなる。その速さには個人差があれど、行き着く先は皆同じだ。

 先んじて白い背中を向けていた女が振り返り、目顔で尋ねてくる。頷くだけの返事をすると、反応もなくまた前を向いた。この靄は次第に範囲を拡げながら白から灰色に変化し、体を飲み込んでゆく。そこまでは本人以外に感知できるものではなく、彼女も男を囲む靄は見えていない。見えるようになるのはその先、灰色が黒く濃い影になったときだ。「影憑き」と呼ばれる、狂気の現象。

 そしてそれは、その人間の生の終わりを意味する。

「報告してから戻るから、このまま別件をお願い」
踵を返して階段を降りる。久しぶりに見る彼女はいつものスーツに身を包んでいる。仲間から事務員と呼ばれる、何ら変わることのない姿。本職もそのようなものだと言っていた。リツコという名前以外何も知らず、私生活など興味もなくて、尋ねたことは一度もなかった。

 左右に分かれる角に差しかかったとき、眼前の後ろ姿がふと、足を止めた。
「ササザワくん」
 無表情が振り返る。改まって呼ばれるのも遠い記憶だ。その顔が軽く微笑み、仲間内でどうでもいい話をしているときの、気の抜けた、けれど隙のない普段の顔になっていく。
「悪かったわね」
 苦笑に近い笑み。返事に窮していると、前に向き直りそのまま角を曲がっていった。余韻のように影が追っていく。呆然としたまま、暫く動けずにいた。何も悪いことなどない。謝るようなことは何もないというのに、投げられた言葉の裏を、ただ想像するしかなかった。

 次の現場は小さな公園だった。対象の家の近く、気付かれないように鑑定してほしい、という少年からの依頼。その少年とは仕事仲間であり、サキオという名の中学生であり、塾講師の自分の教え子でもある。彼の同級生が数週間前から自分は靄に包まれていると言い始め、学校に来なくなったという。サキオ少年は灰色は見分けられても白までは判別できないため、見える人間が駆り出されることとなった。

 見えないはずのものがなぜ見えるのか?理由は誰にも分からない。

 公園には既にサキオ少年ともう一人、背が高く髪が伸びた、棒のように細長い少年が居た。暗く不健康そうな雰囲気はあるものの、靄は見えない。よくある思い込みなのか、実は本当に憑かれているのか。実際のところ、見える人間には全てが見えている、などという保証はない。それでも報告は必要だ。まずはサキオ少年の携帯電話に送った。

 影憑きには続きがある。黒い影は「人」を消し去り、死んだはずの別の人間を生き返らせる。誰、という明確な決まりはない。というより、詳しいことは殆ど解明されていない。成り代わるように入れ替わる生命。生き長らえたところで、「影」として扱われる運命。それでも消えたい、生きたい、生まれ変わりたい、別の誰かになりたい、という儘ならない願いが錯覚を生むことがある。自分は影憑きであると。

 ただ見るだけ。役目はすぐ終わる。事務所にも結果を送り、あとは他の「見えない」人が処理する。然るべき施設、医療機関、家族への対応、それらの連携は見える者が現れる前から行われていた。そもそも見えることはあくまでイレギュラーであり、事前に判ったからといって貴方は影憑きですね、などと言うわけにもいかない。現段階では全てが秘密裏に行われる。

 仕事仲間と合流する途中で、サキオ少年から返信があった。やっぱり違ったかぁ。連れ出すの大変でしたよー。ありがとうございました!屈託のない文面もまたいつもどおり。彼は常に肩の力が抜けている。今日はあくまで同級生という顔見知りとして動いていたため、いつもとは勝手が違う。それでも彼は彼のままだった。

 日が傾きかけた頃、待つよう指定された場所に立っていた。時間を過ぎて女は現れたが、立て込んでいたのは知っているので咎めはしない。ユキエと名乗る女はする気もなさそうな軽い謝罪を口にして、来なくてもよかったのに、と緩やかに靡く長い髪を弄びながら呟く。じゃあなんで呼んだ? と尋ねると、頼まれたから、と答えた。
「今日の案件、私のだったんだもの」
 返事に窮する二度目の場面。見える者は異質な存在だ。依頼者へ直接報告が必要な場合は、今日のように誰かと二人で行動し、極力接触しないようにしなければならない。特別な理由がなければ空いている人間が向かうだけなので、誰が選ばれても不思議ではなく、リツコにいきなり呼ばれても何の疑問も抱かなかった。忙しい身ではあってもユキエも一度は受けた仕事だ、交代する意味はなかっただろう。
「空き時間ができて良かったけどね。……余計なことは言わないでよ」
 その声はいつもと変わらない。どんな反応もできなかった。

 報告への道すがら、会話らしい会話はなく事務所に辿り着いた。中には所長が一人。ツツミさん、と呼ばれる彼は休憩とばかりに寛いでいたが、いつもは書類作成に追われている。まだ若いのに、疲労が顔に染み付いている。
「リツコは?」
「さっき帰ったよ。溜まった書類をまとめていってくれたから助かった。サキオ君もリツコに誘われて来てくれてね」
「仕事なんてしなくていいのに……」
 ユキエの溜息。ツツミ所長は苦笑いしながらこちらを見る。
「ユキエと替わったんだって? 急で悪かったね」
 いえ、と曖昧に笑うと、余計なことは言うなと念を押す視線が飛んでくる。本当にそれでいいのかという迷いがあったが、言うとおりにしたほうがいいとも思う。彼らのほうが付き合いは長いのだ、新参者の出る幕ではないだろう。

 今日の分の報告書に必要な項目は、リツコとサキオ少年によって既に埋められていた。少年はリツコと共に帰ったという。それは良かったわね、と全く良くなさそうに言うユキエを、ツツミ所長が呆れた表情で一瞥する。
「君はいつもそうだね」
「馴れ合っても意味ないでしょ」
「そんなことはないと思うけどねえ」
 何が起こっても変わることがない、いつもの光景。様々な人生の終わりに触れてきていても、同じように軽口を言い合う。まるで外から眺めているような気分で、その場を後にした。

 数日後、ユキエからの連絡があった。リツコが消えたという。それはつまり、消滅。つまり、死。あまりにも速過ぎたが、前例がないわけではない。白から灰色、そして黒へ。猛スピードで変わる姿を見たことがある。見たことが? いや、正確ではない。しかし経験上、知っている。

 リツコは影に完全に飲まれる前に、ユキエに連絡を入れた。その後を任せる段取りだった。新しく現れた次の誰かの身元を調べなくてはならない。そしてリツコが残した物を処分する手筈になっている。本職は退職済みで、家族への連絡は必要ないということだった。誰も居ないから、と。馴れ合いなど意味がないと言いながら、ユキエは全てを託されていたのだった。

 やるべきことはやった、という言葉を残して、リツコは去った。ふと、白く霞むスーツの背中が目に浮かぶ。何も変わることなく役割を遂行する姿。最後に笑って、悪かったわねと言った意味を、嚙み締めるしかできない。

 影憑きとは何なのか、なぜそんなことが起こるのか。自分の身に降りかかったことですら、未だ何ひとつ分からないままだ。命が尽き、また繋がる不条理の前に、「見える」だけの力はあまりにも無力だった。

2023/11/20公開-2024/2/11修正