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影憑き 3

 気配を感じないお前は幽霊みたいだと言われた記憶がある。たった一度だけなのに、ずっと頭にこびり付いている。そのとき私は息を殺して生きている自分に気付いた。誰も私を見ないでほしい。目を向けず、興味を持たず、通り過ぎてほしい。そうすれば傷付くこともないのだと。

 気付かなければよかったのだ。けれども母の放った言葉は、忘れられない一言として刻まれてしまった。私は何度も反芻して、深く深く、抉られるように付いた傷を、自分で引き裂いていた。

 母との二人暮らしは息の詰まるものだった。父は私が幼い頃に出て行ってしまい、どこに居るのか分からない。朝から晩まで働き通しの母が荒んでいくのも当然で、子供の私はどうしたらいいのかも分からず、いつも部屋の隅でぼんやり過ごしていた。

 学校はただ通うだけ、友達も居ない。上手く感情を表すことができず、誰からも気に留めてもらえない。伸びっぱなしの髪に、よれよれの服。みすぼらしい子供が周りにどう思われていたのかは自然と自覚していった。だからこそ人に対して主張ができなかった。

 小学三年生のとき、一人でも留守番できるだろうと、母は休みを平日に変え、日曜日も働き始めた。私はいつも帰りを大人しく待っていた。待ったところで何があるわけでもなかったが、そういうものだと思っていた。食べる物が無くなることも何度かあったが、それでもじっと待っていた。母が帰ってくれば食べ物も一緒にやってくる。お腹が空いても夜には食べられる。

 それがだんだん、夜も家を空けることが多くなった。朝になれば帰ってきて冷蔵庫にも何かしら入っていたが、次第に朝起きても居ない日が増え、冷蔵庫が空の状態が続いた。平日の給食が私の栄養源になり、家で食べることが殆ど無くなった。

 気紛れに現れては去って行く。母はそういう存在になっていた。

 四年生になる前、会ったことのない祖母がやって来た。母の母。歳は取っていたが母と同じ顔をしていて、私は始め母が一気におばさんになってしまったと思った。気の強そうな、自信に満ち溢れた表情。祖母は私を自宅に住まわせ、母のことは忘れなさいと言った。

 見た目に反して、祖母は優しい人間だった。甘やかされたわけではなかったが、反応に困っているときでも理不尽に怒ったりはせず、私が落ち着いて話せるまでじっと待ってくれた。目ではなく言葉を使いなさい、と何度も言われた。気配を消すのはやめなさい、あんたは生きてる人間なんだから。

 幽霊になっていた私を初めて人間扱いしてくれたのは祖母だった。

 食事をちゃんと摂ることで、痩せ細った私の体は人並みに変わっていった。髪を整え体に合った服を着て、「言葉」を話す生き物。そうしていくと、周りの態度も変わり始めた。けれども肝心の、私は変われなかった。高校生になっても相変わらず息を潜め、誰にも気付かれないように過ごしていた。気配を消すなと言われても、どうすれば存在感が出せるのかなんて分からない。人の目が自分に向けられる度に、言いようのない居心地の悪さを感じた。

 成長しても私の中には確固たる自信というものが生まれなかった。顔は母にも祖母にも似ているのに、私はどうしようもなく私でしかなく、どうあがいても二人のようにはなれないと分かっていた。祖母もやめなさいと言いながらも無理強いするでもなく、上手く振る舞えない私を静かに支えてくれていた。

 そんな祖母が、呆気なく死んでしまった。私が学校にいる間に倒れ、そのまま誰にも気付かれずに数時間。近所のおばさんが救急車を呼んだけれど、もう息はしていなかったそうだ。

 おばさんはずっと私に謝っていた。由季江さん、ずっと枝菜ちゃんのこと心配してたんだよ。やっと見付けたときにはあんな状態で、申し訳なかったって。娘をちゃんと育てられなかった私が悪いっていつも言っていたよ。ぶっきらぼうな人だけど面倒見がよくて、私もお世話になりっばなしだった。本当にいい人だったんだよ。もっと早く気付いてたら助かったかもしれないのに、枝菜ちゃんごめんね。ごめんね、由季江さん、ごめんなさい……。

 おばさんの嘆きはそのまま私の嘆きだった。祖母は私を私として受け入れてくれた人だった。その人が居なくなって、私はどうしたらいいんだろう。大事なものをなくして、目の前に大きな穴が空いたような、なすすべもない状況に感情の全てが止まってしまった。長年一人で暮らしていた祖母は昔からおばさんに死んだ後のことを頼んでいたらしく、気付けば何もかもが終わっていた。母は現れなかった。もしかしたらもうこの世には居ないのかもしれない。
 
 私は何日も動けずにいた。部屋をゆっくり見回して、祖母が買ってくれた物に囲まれていることを思い出す。傍らに棚の上に飾っていた小さな熊のぬいぐるみが横たわっていた。何かの拍子に落ちたのだろう。この家に来たときは何も持っていなかった。私を表すものは、あのとき何も無かった。

 ゆるゆると時が過ぎながら、たまに様子を見に来てくれるおばさんから食べ物を貰い、黙々と食べ、また部屋の中でぼんやりする。まるで幼い頃の私のようだ。私はまた幽霊になってしまった。

 ある日、背後がぼやけていることに気付いた。時間が経つに連れて白く濃くなってゆく。一日過ぎる頃には少しくすんだ靄が、体を覆い始めた。動く度に尾を引くように揺らめいて、消えそうなのに離れない。二日、三日と過ぎていくと靄は灰色に変わっていった。おばさんには見えていないらしく、顔を合わせても何も言われなかった。

 体が見えなくなるほどに拡がったそれは、自分を護ってくれているような、温かささえ感じられた。私という個体が曖昧になっていく、それがこんなにも心を安らかにしてくれるなんて。生きているのか死んでいるのかも分からないような状態で、でも生きていると知っていながら、これは、もう、終わりの合図なのだと思えることの安堵感。

 ふと、祖母の顔が浮かんだ。おばあちゃん、私の代わりに生きたらいいよ。そう言ったら祖母は私を咎めるだろうか。窘めながらもいつでも私を赦してくれた祖母が、なぜここに居ないんだろう。消えてしまう命なら祖母にあげたい。会えなくていいから、生きててほしい。私は、もう、消えてしまうから。

 体なのか何なのかもう分からないものが黒く蠢いた。濃い影のような煙。声も出ず、感覚も無く、ああ、でも、やっぱりちょっとつらかったな、幸せな気持ちで生きていられなかったのは。ちょっとだけ、諦めきれない生への執着のような残滓の奥で、私はかなしいな、泣きたいな、と思っていた。

 吸い込まれていく。どこか分からないところへ。何も考えなくていい。何もないところへ、無いはずのぬくもりを感じながら、消えてゆく。

 裸で放り出された覚えはないが、目が覚めると部屋の真ん中で下着も着けずに寝転がっていた。倒れた記憶はあったが、なぜこんなにも気怠いのか。そもそもこの体は、妙に張りのある肌をしている。おかしい、一体何だろうと見回すと、孫の痕跡があった。買い与えたぬいぐるみが転がっている。ここは孫の部屋ではないのか。なぜ私がここに?

 裸のまま家中をうろついた。なぜ生きている?死んだと思ったのに生き返った? そんなばかなこと。自分の部屋に入ると姿見が目に入り、そこで動けなくなった。

 見覚えのある顔。顔立ちは孫に似ているが顔付きがきつい。知っているのに知らない人のような違和感。鏡に映る若い女が、昔の自分だと気付くまでに長くかかった。何だこれは。孫を探さなくてはと思いながら、何か違う、孫はここにいるのに、これは、誰なのだろうと暫く混乱が続いた。

 違う。違う。これは私だ。枝菜ではない。だけど私の中に、枝菜が居る。私の生を願う、自分の生を悲しむ、弱々しい息遣いの孫がこの中に生きている。

 何があっても動じてはいけないと言い聞かせていた、己の精神が揺らいでいく。孫の一生とは何だったのか、こんなことのために生きたのではないはずだ。もっと楽しく、希望に満ちた人生を送れるはずだったのに、そうはならずに消え去ってしまった。

 どんなことでも食いしばって堪えてきたというのに、涙が止まらなかった。なぜ、と問いながら、誰も居ない部屋でただ蹲っていた。

 何もかも明白なのに、何が起こったのか分からない。分かるのは自分が若く生き返ってしまったこと、そして、哀れな孫が、哀れなまま消えてしまったことだけだった。
 
2024/1/5公開