お線香と水車と沈丁花

ニオイという言葉は今では香気、臭気の嗅覚に使っているが、元は色彩や色艶について視覚的な意味で使っていた。
イロハ歌の始め「イロハニホヘド….」の「ニホヘ」は香りではなく、色彩についてその美しさや鮮やかな色が視覚を刺激する場合の表現として用いられていたことをよく証明していて、この使い方は枕草子と源氏物語に頻繁に出てくる。
また香道では香りを「カグ」意味で「キク」という言い方をする。
これは香道が中国から入ったもので、中国では耳の聴覚と鼻の嗅覚を合わせて「聞香(もんこう)」といって、香りも「聞く」と言ったことによる。
このように匂いに関する言葉が色、香り、音と様々な感覚の刺激に対する表現として元々渾然一体であったことが分かる。

お彼岸、お盆の時期にお寺をはじめ特有の匂いで、線香と抹香がある。
線香は家庭でも梅雨時のカビ臭さを追い払うには効果てきめんである。
高級な線香には白檀や沈香を使うが、折れずに途中で火が消えない線香を作るのは中々大変である。それにタブノキの樹皮の木質繊維を切らずにほぐし、乾燥させて微粉にしたものを、香料の繊維の回りにツナギとして均一ぬまぶして固める方法が使われている。現在、タブノキの樹皮は台湾産のものが多い。このツナギは導火にもなるので、線香を作るときには欠かせないものである。線香の微粉を作るための仕上げ粉砕は、鉄製のボールミルを使わずに全て石臼を使っている。
京都市の修学院離宮の北側に位置する左京区上高野水車町は、かつて高野川支流の水を利用した水車小屋がいくつも並んでいた所である。
1970年代後半にはまだひとつだけ水車小屋が残っていたらしいが現在はどうだろうか。この水車小屋は鉄製で、清水焼の釉薬や高級線香の白檀などを粉にしていた。

沈丁花の花は東京近辺では桜の花が咲く前にいい匂いを漂わせて、春をいち早く知らせてくれる。
「枯れても芳し」といわれるくらいにこの花の匂いはかなり強いので、茶花としては禁花である。
沈丁花の沈は沈水香木(じんすいこうぼく)からきているので、ヂンではなくジンである。丁は丁子という樹木の名前からきていて、いい香りがする花としてつけられた名前である。丁子は熱帯樹でインドネシア東部のモルッカ諸島の特産で、現在は仁丹や歯磨きに使われている。
沈水香木とは、水に入れると沈んでしまう硬くて重い性質の木のことで、一般に沈香と呼ばれている。沈香は高さ20~30mもあるジンチョウゲ科の木の一部に樹脂が分解されずに残り、官能的な香りを発することで古来から貨幣に代わるほど大変珍重されてきた。
ベトナムに行くと観光客用のブームになっていて、あちこちで「キーナム」といって売られている。これは奇楠香(きなんこう)のことで、中国語でいう沈水香木にあたり、通称「伽羅木(きゃらぼく)」と呼ばれているものはその最も上質なものである。
沈香は偶然の産物であるため栽培できないという難点がある。
またベトナム戦争以後ベトナムの政治が変わった際に、それまで沈香に関わっていた中国人がほとんど国外へ移ってしまっている。
こうしたことから、香りに関係する日本の専門家がベトナムを多数訪れているのにもかかわらず、現在では沈香がどこにあるのかさえ定かではない状態であるという。

香木については日本書紀に推古三年(595年)淡路島に沈水香木が漂着したという記述があり、現在この木は法隆寺に納められている。室町末期に成立した六十一種類の名香の筆頭が法隆寺という香木銘になっているのはこのためである。
香りについては源氏物語に名香(みょうごう)、空薫物(そらだきもの)、薫物(たきもの)、香合(こうあわせ)の言い方などで登場する。


「南面いときよげにしつらいたまへり。そらだきものいと心にくくかをり出て、名香の香など匂ひ満ちたるに、御追風いとことなれば、内の人々も心づかいすべかめり」 また、
「くさぐさの御薫物ども薫衣香(くのえこう)またなきさまに、百歩の外を多く過ぎ匂ふまで、心ことにととのへさせたまえり。」


瀬戸内寂聴さんの『源氏物語訳※1』によれば「南部の部屋を座席として大層立派に用意してあります。室内には空薫物がほのかに漂っていて、仏前の名香の香りも部屋に匂いみちています。その上、源氏の君のお召し物にたきしめた香までもが、風にただよい送られてきますのが、とりわけすばらしい匂いなので、奥の部屋にいる女房たちも、なんとなくそわそわしているように見えます。」
「幾種類もの御薫物や薫衣香など、またとない素晴らしい名香ばかりを、百歩の遠くまで匂うほどに、特にお心をこめて調合させられました。」
となっている。

空薫物とは、訪ねてきた人が部屋に入った瞬間にどこからともなく漂ってくるよい香りのことで、屏風や几帳の陰あるいは別の部屋で薫らせる香りをいう。
名香とは、仏に供えるための仏事の香りのことで、薫物は薫衣香など、衣に香りを焚きこんだものの総称である。
香合は薫物合(たきものあわせ)ともいい、香りの調合の事を指す※2。

茶道でも練香や白檀などの香木の香りは欠かせない。香道は茶道、華道とともに室町時代に完成する。茶の世界では基本的に風炉の時期は炭手前に白檀や沈香をたき、炉の時期は練香という具合に使い分けている。香については全国薫物線香組合という団体があり、組合では香料を香木、線香、練香、匂香(においこう)、塗香(ずこう)、焼香(しょうこう)、抹香(まっこう)の七種類に分類している※2。このうち塗香は皮膚に塗布する御香で、仏教儀礼、特に真言宗の導師がお勤めをするときに用いる。
例えば奈良の二月堂のお水取りの際には、行者が丁子風呂に入って、香染めの着物を着る。この香染めの衣は丁子の染料で染めてあり、防虫効果が高くて長持ちであるという。
香象という象の形をした香炉の中に御香をたいて御堂の入り口に置き、身体を清める意味でこれを跨いでお堂に入る。
口には丁子を噛んで呼吸を浄化する。
導師は着席すると、香りの強い樒の枝葉を水に浸して、その香水を物にふりかけてから香をたき、身体には手にパウダーを塗るしぐさをする。このパウダーが塗香である。原料は白檀などの植物性の香料を使い、片栗粉のように細かく粉砕した上質の粉末香料である。
現在でも写経をする時に手のひらに塗ったりしている。
インドやミャンマーでは今でも普通に使われていて、ミャンマーの女性の化粧法は白檀に石炭を混ぜたものを頬に塗っている。これは皮膚を浄化し、汗を止め、抗菌と殺菌作用が高いということで使われている。

現在の日本ではミストサウナやアロマ加湿器など、さまざまなものにハーブなどの匂いの成分を漂わせる方法があり美容や健康に加え、気持ちを落ち着かせるリラクゼーションを求める若い世代を中心に大人気である。
忙しいストレス社会、優しい香りで心と身体の傷を癒すことで、生活環境を少しでも優しいものにしようとする努力は現代人の願いであり「生きる」ことを豊かにする一つの美しい方法なのかもしれない。

しかしながら、私としては日常生活の時間の中にある匂い、時間としての芳しさを現代人が失いかけていることと、その喪失したものを何とか取り戻そうとする姿の表れに思うのです。
桜の咲く前のジンチョウゲの匂いや、木々が葉を落とす前のキンモクセイの香りは季節の変わり目としてなかなかいいものであるが
朝の匂い、夜の匂い、日向の匂い、雨の匂いに気がつけば、それだけで気持ちの静けさと思考の明晰さから、心の広がりを自ずから得ることができると考えています。

※1『源氏物語巻一及び巻三』瀬戸内寂聴訳 講談社1996
※2『香りの比較文化誌』宮沢正順編 北樹出版2001の「恋愛の香り-源氏物語と香」魚尾孝人著
※3『香りと茶の湯』太田清史著 淡交社2001

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