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「私は私の世界の実験台」

リーガルリリーというバンドが好きだ。

2年くらい前にライブに行ったときに偶然聴いて、それから僕のお気に入りのガールズバンドになった。
バンドをやっているようには全く見えない風貌の、というより雑貨屋とかで働いているほうがしっくりくるような雰囲気と、鋭い歌詞、強い歌声にはまってしまった。

朝に聴くと、何でもない憂鬱な満員電車の中でも、ドラマのワンシーンに入り込んだような気分になれる。

リーガルリリーの曲に「1997」という曲がある。
その歌詞の「私は私の世界の実験台」というフレーズがたまらなく好きだ。

* * *

ふと、過去の恥を思い出すことがある。
駅の階段を下りているとき。コンビニのレジで小銭を探しているとき。
とんでもないタイミングで、思い出したくない過去を思い出すことがある。

そのたびに僕は顔を赤らめ、手を止め、眉をしかめる。

「人は楽しい思い出のほうが記憶に残りやすい」と聞くけれど、本当にそうだろうか。
自分の未熟さで人に迷惑をかけたり、自分の身の程を知らなかった経験のほうが、よほど強く残っている。

例えば、学生のときに中途半端な正義感から、自分と関わりのない教員の不正をバッシングしてSNSが炎上したこと。
大学に入って高ぶりすぎた意識を振り回して同級生から辟易されたこと。
好きでもない子に告白して、しかも好きでもないことを見透かされていたこと。

そういった思い出したくもない過去ほど、記憶にこびりついて離れず、前触れもなく再び頭をもたげる。

「あの頃はやんちゃだったなあ」なんて美談にすらできない、ただの痛みとして醜く残る古傷みたいなものだ。
「あの頃があったから今の自分がある」なんて、目を細めて受け止めることはまだできない。

僕できることは、恥ずかしくて大声を出して布団に包まりたい欲求を、ただ黙って堪えるのみだ。

ただひとつ言えるとすれば、そういった恥から学んだことが幾許かある、ということかもしれない。

時には見て見ぬふりをすることも大事だということ。
他者と自分が同じだと思わないこと。
人は自分が思っている以上に自分の気持ちを見透かしているということ。

そう考えると、自分の人生というのは「どうすればより良く生きられるか」という、数十年の時間をかけた実験なのではないかとも思う。
「こうしたらうまくいくかな」とあれこれ試行錯誤して、実験をする中で様々に失敗を重ねながら、最期には「もし次の人生があるなら、こういうふうに生きていこう」と思えるような。

その実験台が僕だから、僕は様々に失敗をするし、失敗をすれば傷つく。
時に検体が腐ることもあるかもしれない。

そして僕の人生において、その実験をすることが許されているのは僕だけだ。
他の誰にも、僕という実験台を使って実験をすることはできない。

僕はこうしてnoteを書いているけれど、数年後に見返したら恥ずかしすぎて死にたくなるかもしれない。
色々な絵を描いたり漫画を描いたりしているけど、数年後には二度と見られなくなるフォルダの奥底に追いやっているかもしれない。

けれど、まあいいじゃないか。
そのときの自分も、いま死にたくなるほどに恥をかいている自分も、全部自分の実験の過程なのだから。

しかも、「実験」というのがいい。
実験があるということは、次はどこかに「本番」がありそうな気がしてくるから。

リーガルリリーの「1997」を聴いていると、そんなふうにも思えてくる。

* * *

余談だが、「1997」についてリーガルリリーの公式サイトによると、この曲は「同年代へ向けて語りかける内容」になっているという。
(Vo.Gt.たかはしほのかは1997年生まれ)

ただ歌詞を読んでいると、僕には香港の過去と未来についても語っているのではないかと思えてならない。

最終列車飛び乗って 孤独だった世界で
片道切符を失くさないように

1997年の友達を集めてチョークの粉を集めた
何をしているのかなぁ私たちは
催涙弾で流した涙が光の反射で集まった
人々は目を眩ませた
私は泣くことしかできなかった
私は泣くことしかできなかった

中国への「片道切符」、香港が返還された「1997年」、香港デモで使用された「催涙弾」など、特に戦争や命をテーマにするリーガルリリーだからこそ重なる部分が多いような気がする。

こういう思考を含めて、ある意味「実験」なのかもしれないけれど。

つきこ

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