オタクの解釈違いについて雑記
以前オタクの自己解釈、主観ー客観のめんどくささについて雑文を書きました。
↑このnoteは他人に読ませるというより単純な日記なので読みにくいことこの上ないのですが、こちらの記事でとても綺麗にまとめて言語化されていたのでご紹介します!
わかりやすく読みやすく解説していらしてとてもよかった↓
※勝手にご紹介しているので問題がありましたらリンクは削除します。
「客観・主観」についてと「解釈は自由」で揉めることについて改めて考えた雑記
ここ半年ほど客観と主観が入り乱れる、討論という名前ばかりの口論を見てきた結果解釈や考察そのものについて考える機会が多かったのでこれらの記事を読んで色々納得しました。
今まで主観vs客観の口論においていろんな怒りの意見を目撃してきました。
”主観的な解釈で楽しむ人”が”客観的な解釈を深めて楽しもうとする人”を見た時の怒りって、『解釈は自由』の信念を崩された怒りや「正しさ」の押し付けに感じるだとかというのもありますが
「能力不足と言われているように感じる」
というような理由で「馬鹿にするな」と怒っている方々も見てきたので、そういうのもあるのかなと思いました。
好む好まざるに関係なく気づくか気づかないかの壁はあるので、意見の交換が行われた時に客観視を持ち出された時点で目の前に壁を感じて自分が劣っていると言われているように勘違いするのではないでしょうか。
実際は見ている方向が違うだけなのですが、その事実に本人と議論相手が気づかないとただ衝突するだけになってしまう。
(実際に揚げ足をとって「そんなことにも気づかなかったのか」と、論と論をぶつけるのではなく個人攻撃をしている人も見かけます)
おそらく主観ー客観の考え方に反対する人の多くは「なぜあなたは自分が客観視できていると思うのか」と感じているのではないかと思います。その疑問はある意味正しい。
そもそも客観視を意識していた場合でも気付かない・見抜けない描写はそれぞれ発生するし、人間は誰しも主観を掛け持ちしています。
だから、客観視しようとすればするほど自分の嗜好に自覚的でなくてはならないし、他人の客観的な意見・情報が必要になります。
なので議論や意見の交換、間違っているのではないか?という指摘はイコールでその人の楽しみ方への否定にならない。
その点、主観は他人の意見はそこまで関係ない。というか必要がない。「主観」には正解がないので。
今はこうして客観的・断定的に語る人がいるとすぐに「解釈は自由」と喧嘩又は討論が強制ストップされることが多いので、客観的に楽しむ人にも主観的に楽しむ人にももうちょっとその辺り認知が進んでいくといいなと勝手に思っています。何かうまい言葉が作られてオタクに流行っていかないかな。
じゃないと客観的に楽しむ事が難しくなる一方なので。
◇
ところで、手塚治虫先生が「ストーリーの作り方」を木で説明している画像があります。
ストーリーのテーマを木の幹として、「良いストーリーとはすべての些細な描写(枝)は幹(核)に終結するものである」というのを絵で表現したものです。
逆に悪いストーリーとは「些細な描写(枝)が細かく生えているのに幹(核)へ栄養を与えていなかったり、幹自体が途中で別れてしまっているもの」。
これはあくまで一つの美学の在り方でありすべての作品に言えることではありませんが、意図して難解に作られているものを除き、広い層に向けて作られたエンタメ作品というのは引き算で作られていることが多く、余計なものはあまり入れません。
たいていの場合、描写には何らかの意図があります。
客観的な解釈とはそこを目的として、物語にある描写を調査することです。
私はゲームオタクであり、ここは私のオタクとしての遊び場なので、それ風に言うと
客観的解釈は逆転裁判で
主観的解釈はマインクラフトみたいなもの。
(伝わる人にしか伝わらない喩え)
証言や証拠がないと逆転裁判は成り立ちませんよね。
他者の助けによって多様な証拠や証言を発見し、そこから矛盾を見つけ正誤を導き出し、ひとつのゴールを炙り出すゲームです。
一つの証拠が持つ意味を考察し、他の証拠や証言から得られる情報と照らし合わせて何があったのかを考察し、組み立て上げる。なぜ事件現場に黄色のグローブがあるのか、なぜそれが左利き用なのか、その意味を考えていく。
それらの細かい情報の枝葉を辿っていくと、大きな木の幹(犯人は誰であるか)に還元されるわけです。
一方、マインクラフトは与えられたフィールドで自由なことをする正解のないゲームです。
ひたすら地下を掘っても建設しても何をしても自由です。マインクラフトの遊び方について「それ、間違ってるよ」と指摘する声は聞いたことがありません。家を建てる時も、豆腐建築にしようと豪邸にようとそんなの自由です。
この辺の話は延々とできるのですが、続けると上で紹介した記事と私が以前書いた記事の繰り返しになってしまうので省きます。
◇
そもそもの話、主観的に楽しんでいる人への邪魔に対して「解釈は自由」と反論するのは理にかなっていますが、他人の解釈に対して「解釈は自由」を盾に突撃して反論するのは矛盾してしまっています。
いかなる解釈も自由とするなら自分が気に入らない意見でさえも自由であるはずだからです。
この場合の「解釈は自由」は本来の意味ではなく
「自分の気分を害する意見を目に入れさせるな」
という意志の表明になってしまっています。
じゃあなんで突撃の反論が発生するのかな、と考えると、
上に書いたように「そもそも主観的解釈と客観的解釈との見分けがついていない」「バカにされているように感じる」というのもありますが、
やっぱり今はファン活動というものがSNSと強く結びついているからだと思うんですよね。
例えばそこまで親しくない人たちと雑談していたとして、自分以外の人が「Aが好き」という話で盛り上がっているところへ「Aが嫌い」と口に出す人はあまりいません。ここで求められているのは円滑なコミュニケーションであり正直な意見でも討論でもないからです。
別に言ってもいいしその権利はありますが、もし口に出したら「水を差すな」といった感じで、あまり良くは思われないことが多いでしょう。
SNSはそもそも他者とのコミュニケーションを前提として作られており、同じ興味を持つ人同士を繋げる機能であったり、情報を提供したり、そういう機能が充実しています。
たとえフォロワー0人であっても情報は容易にキャッチされる。
なので、SNSでファン行為をすることって、それ自体が「コミュニケーションをとる前提の輪」の中に置かれちゃうことなのだと思います。
もちろん国内外の交流が活発になるなど情報が開かれていることの長所もありますし、現状、特に二次創作を好む人はSNSで活動するしか選択肢はほぼないと思います。
でもですよ、
それぞれキャラクターなり作品なりに対して、それぞれ大きな感情を抱いたり延々と考えたりしちゃうからオタクなんだし、SNSで発信するのはそれを爆発させたい(させないとやってられない)からですよね。
なのに
「これは解釈違いの誰かを怒らせるかも……」
などと心のどこかで萎縮し合わなきゃいけないっていうのは、なかなかに本末転倒なのでは……?
こういった恐れは批評・評論・考察から人を遠ざけたり、表現の幅を狭めたりすると思います。
これもそもそも論になっちゃいますが、
キャラクターに巨大感情を抱くのがオタクなのだとしたら、好き嫌いは別として、批判や反対意見を見た時に反射的に怒り狂って突撃するのではなくて、一旦受け止めて咀嚼する余裕を持ったほうが健全だし、それが他人への尊重につながる気がします。
それが本当の「解釈は自由」なのでは?
咀嚼した上で「自分の意見は違う、解釈違いだ/これは嫌いだ/間違っている」と自分の領域を守ったり、節度を保ったまま反論すればいいだけの話だと思うんです。
もちろん自分の快適さを重視することは生きていくなかで大切なことです。わざわざ趣味の中でさえストレスを感じる必要なんてないですよね。
ですが情報が行き交う現代で、自分が好まないタイプの他人の意見を透明化or敵対視することに慣れ“すぎる”と異なる意見への耐性がなくなってゆき、喧嘩に発展しやすくなるのかもなと思いました。
つい最近も某SNSで「キャラクターの表情を変更するMODを作ろうと思う」と投稿した人に対して、ダウンボートで反応するのではなく運営に違反報告をすることで投稿者のアカウントを削除まで追い込むというのをリアルタイムで目にしました。いや、違反報告はもちろんこれにダウンボートするのもおかしいのですが……。MODを入れるかどうかは完全に自由なので、入れなければいいだけの話です。
もちろんこの投稿は違反などでは全く無いのですが、一部の解釈違いのファンには許せない意見だったのでしょう。反対意見に対して一種の権力で封殺しようとする流れは率直に怖かったです。
他にも「逆CPを見ただけで比喩ではなく本気で殺したくなる」みたいな意見も見かけたことがあり、極端な例だとこういうこともあるのかなと思います。
※MODとはゲームを改変させる非公式のプログラム等の総称です。キャラクターの髪型を変える、というような些細なものからマップやストーリーの追加などの大きなものまであります。
◆
ゲームにおける解釈ってちょっと特殊だよねって話
以前も書いたようにゲームってルート分岐があるからややこしい。
遊び方には正解がないからどのルートを選んでも大体「あなたの物語」ができるようになっている。けれども、そこに一貫性があるかどうかというのはまた別です。(それがないものも勿論あります)
更に、ゲームはある意味で努力が求められる媒体だし、自分で操作し選択するという自己投影性…没入度の高さがある。
数十時間から数百、あるいは数千と費やし、没入し、自分で選択して得た物語体験に対して
「間違っていますよ!」
と言われてしまったように感じられてしまった時、特にそれがその人にとってかけがえのない体験だった時、強い反発の気持ちが起こるのは想像に難くない。
「自分の物語を否定するな」
と強固なシールドを張ってしまう。結果、喧嘩になる。
◆
上にも書いたけれど新しい用語ができて普及していったらやりやすいなーと思います……主観的客観的どちらで考えたいかを表すキャッチーな言葉を誰かに考えて広げていってほしいです……。
違うものなんだ、とみんなが理解したらもっと歩み寄れる気がしているので。
ちなみに私はどっちの解釈もします。
同じ題材でもその時々でスイッチする場合もあるし、作品やキャラクターによって変わったりもします。全部ごちゃ混ぜになることもあります。
そして同時に、記事内にあった
「実際は主観的解釈なのに客観的解釈として扱われていた場合憤りを感じる」
という感覚は私もかなり強く持っています。
事実の積み重ねで考えるのが客観視することの美学なので、その美学を無視して「客観視した」という勘違い(或いは意図的)の元で行われる
「個人の主観の補強」
は客観的解釈そのものへの軽視で“領域の侵害”だと感じられるし、「キャラクターがどう描かれているか」への軽視と感じられてしまう、という話ですよね。
主観的解釈における領域の侵害の一例は逆CPであり、これは視覚的にもわかりやすいので
「こっちはABの領域だからBAの人は来ないでね!」
とラインを引きやすいですが、主観ー客観は概念的なもので目に見えないのでそれぞれの領域を守りづらいのが現状です。
やっぱりここの勘違いは「主観視・客観視」そのものへの理解が広まっていないことに基づく気がするので結局「それを表す言葉ができてほしい」という散々既出の主張に立ち戻ります。
そもそも意識していたって客観的でいることは難しいですからね。
特に思いが強すぎるとみんな目が曇りやすくなりますから……私含めて……。だから他者の意見との比較検証が大切だという堂々巡りに……
◆
私自身これまで自分の好みや傾向ゆえに、
・大きくないジャンルかつ多数派ではない嗜好の中で生きてきた
・ファン行為をする上で表現したいという気持ちはあっても、ファンコミュニティの中に属したいという欲求があまりない
・毎回キャラクター単位で好きになるため、受け攻めやCPへのこだわりが全くない(場合によってはそれ自体が考察に含まれる場合もありますが)
・そもそも議論・考察・批判込みで他人の感想を見るのが好き
といった感じだったので他人の逆CPや解釈揉めを目撃したり気にしたりすることがあまりありませんでした。
なので、なぜそれが起こるのか、自分の中の嫌悪感はなんなのか、ということを深く考えずに来ていました。
だけど世界中の人たちの“解釈揉め”を目撃するようになり、その中で私自身も嫌悪感を覚えることが増えていった中で、
「自分含め人々のこの怒りはなんだろう」
を考えた結果、自分なりの思考をある程度まとめることができて良かったです。
「主観視が客観視として扱われ、主張されること」
が私にとっての“ライン越え”でした。
それぞれ自他の「なぜ」を意識できるともうちょっと冷静になれる気がします。
↓他にも読んでて面白かったやつ。
これは「いかなるオタクも本質的には分かり合えない」とする意見なのでもっと辛辣です。
余談
以前の記事で「ユーザーが自分の好みに反する表現を変更しろと作者に迫る行為」について触れました。
それに対する不快感は、まず第一に「自分の好みに反するから変えろ」という主張は表現の自由への侵害であるということ、製作者への尊重がないことなどが挙げられますが、
客観的解釈において“証拠品(根拠・作者が描写したかったもの)を捏造しろ”という脅迫に近い
から という理由もあるのでは、という気づきも得ました。
一方、“システム”という機能的なものについての改善要求はある程度正当だと思います。ただ、それが表現したいことと関係するのなら不便なままであっても仕方のないことだなあとも思います。
あとコミュニティに属したくないという感覚についてもぼんやりしていたのでこれをきっかけに考えてみたのですが、
コミュニティに属しているとそのコミュニティーの中で発言力のある人とそうでない人というヒエラルキーが出来上がってきたり、発言力のある人の鶴の一声で文脈とは関係のない流行りや解釈が出てきた時、まるでそれが正当な解釈であると受け止めたかのように振舞わなければならなかったりとか、多分そういうのが苦手なんだろうなと思いました。(これまでのオタク人生の中で目撃してきた傍目の感想)
個人対個人のやりとりはとても好きなんですが……。
そもそも客観視/主観視を分ける考え方自体が二次創作メインのファン活動の中では一般的ではないので、無意識的に窮屈さを覚えていた可能性もあります。
みんな色々あるとは思いますが、自分の生きやすさを開拓していくとともに他者の尊重も忘れちゃならないですね。
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