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読解をしていたら「解釈は人の自由!全部幻覚!」と怒られる現象


 「解釈」という言葉の定義が広がりすぎて、読解を楽しんでいると「どう受け取るのも人の自由!全部幻覚!」と怒られるようになってしまった。

 作品の楽しみ方に対して「原作にそう読める場所なんてないじゃん」などと、人の楽しみ方が制限されないように生まれたのが「解釈は自由」という概念だ。しかしこの言葉の本質は「作品をどう楽しむもの人の自由」だと思う。

 作品を元にワクワクする展開を想像する楽しみ方は人の自由だ。これを「文脈と構成的にそんな展開になるわけないじゃん」と突っ込むのはナンセンスだ。作品を元に想像を広げで楽しむのだって自由な楽しみ方の1つだ。

 しかし作品をどう楽しむのも人の自由だが「作品に対する読解基準の解釈という楽しみ方」には「正しいと間違い」がある。全ての作品描写を加味した上で絞れる推測の幅が「読解基準の解釈」だ。

 なんと、読解基準の解釈を楽しんでると「二次創作や人の解釈(想像や妄想)を否定している」と捉えられるようになってきたのだ。

 様々な楽しみ方を許すために生まれた「解釈は自由」という言葉によって、「読解という答えを求める楽しみ方」を楽しんでいる人が指摘や否定されるようになってしまった。

 解釈ってなんだ?読解ってなんだ?読解的な解釈はなぜ忌避されるのかという話をする。


二次創作界隈でよく使われる「解釈」の意味

原作に対する印象としての解釈(主観的解釈:印象)

 例えば私の推しの男、ワンピースの「サンジ」は自己犠牲的な面がある。

 私はサンジのこのような部分を「少年のようだ」と形容している。「は???」とキレるかもしれないが落ち着いて欲しい。怒らないで。石投げないで。これは私の個人的に思う少年像の1つである「自分の行動に対し、周囲の気持ちを考える客観視点を持たない突飛な危うさを持つ」という点からこのように形容している。

 このサンジの自己犠牲的な面は、私は「少年」だと感じているが、ある人は「儚い人」と感じ、ある人は「自分を大切にできない人」と感じる。またある人には「プライドが高い」かもしれないし、ある人には「誇り高き騎士道の男」かもしれない。

 原作に描かれたストーリーやキャラクター像を、自分の主観(自分の価値観や感性)を通して「自分なりに捉える」のが原作に対する「印象としての解釈」だ。

 ︎︎二次創作を中心とした女性向け界隈で使われる「解釈」という言葉は主にこれを指す。

 主観的印象という主観的な解釈には正解がない。サンジを可愛いと思うのも格好いいと思うのもアホだと思うのも、人それぞれが感じた自由な印象だ。

 なぜなら私たちの価値観や感性という「主観」に正解がないからだ。人々の主観は人それぞれの性質・経験・環境が反映されており、ここに正解は存在しない。

 だから主観的な解釈は相手に向かって否定してはならない。なぜなら主観的な解釈への否定は、その「感性の否定」という人格否定にしかならないからだ。

 ︎︎簡単に言えば主観的印象とは「感想」に近いものなのだが、キャラ像や物語構成をこう読んだ(感じた)という意味合いがあるため「解釈」と呼ばれる。


 私が興味深かったのは、ワンピースを読みながらリアルタイムで「え!?もしかしてサンジってこういうキャラなの!?」と驚いて書いたポスト郡にに対して「hotさんの解釈すごくいい!」と言われることが複数回あったことだ。

 もちろんそのような反応は好意としてとても嬉しいのだが、ただ作品を読みながら自分の感想を語っていることを「解釈」と呼ばれることには大変驚いた。

 おそらくだが、様々な受け取り方を許すために生まれた「解釈は自由」という概念を元に、女性向け界隈では「作品に対する(感想を含めた)受け取り方=解釈」という認識になっている。

 「Aくんは可愛いじゃなくて格好いいでしょ!?」などと他人の感性が自分と同じであることを求めたり否定する行為が発生しないよう、このような「解釈は自由=受け取り方は自由」という考えが深く文化として根付いたのだと思う。


二次創作における解釈(主観的解釈:欲求)

 次に二次創作における解釈だ。二次創作における解釈とは主に

 原作で感じた(主観的印象)”自分の「好き」を元にしたこの部分を見たいという欲求”を指す。

 例えば原作で描写のないBLカップリングの二次創作は「この2キャラが恋愛感情を向け合っている姿を見たい」という「主観的欲求」を元に創作される。

 男性ネット民には「なぜ恋愛感情にするのかわからない」と言われそうだが、「私たちが男同士が恋愛してる姿が萌えるから見たいし恋愛させている」としか言いようがない。男性界隈でキャラのエロが見たいからエロ同人誌が生まれるのと同じ仕組みだ。

 これは原作の再現性重視の作風の場合も同じだ。

 例えば原作の再現性を重視した二次創作も、「原作らしい距離感の二人が見たい」という「主観的欲求」を元に創作される。

 例えば原作の隙間を埋めるような二次創作も、「原作の隙間を想像してみたい」という「主観的欲求」を元に創作される。

  1.  原作がこうだから

  2.  この二次創作をした

 ではなく

  1. 原作を読んで

  2. 私はこういうのが好きで見たいと思ったから

  3. この二次創作をした

 これが二次創作の世界だ。二次創作は必ず「自分がこういうのが見たいという主観的欲求」がベースとなって創作される。

 主観的欲求によって生まれる二次創作には正解がない。作品やキャラを通して何が見たいと思うのも人それぞれの自由な「好み」だ。

 なぜならそれを好む私たちの価値観や感性を通した「主観」に正解がないからだ。人々の好みは人それぞれの性質・経験・環境が反映されており、ここに正解は存在しない。

 だから二次創作の解釈は相手に向かって否定してはならない。なぜなら二次創作への否定は、その「好みや価値観の否定」という理不尽な人格否定にしかならないからだ。

 ︎︎二次創作における解釈とは、原作に対する解釈ではなく「自創作に対する解釈」だ。


 ちなみに私は「カプや二次創作は全部等しく幻覚!」という考え方が大嫌いだ。カプはともかく、そもそも二次創作に至っては「私が正しく公式を描いている」と思ってる人間なんて存在しなくないか。

 「二次創作に正解はなくみんな自由に描いて良いのだから否定してはいけない」という意味合いで生まれた言葉なのだろうが、言葉だけが形骸化して存在しない仮想敵に正義感を振りかざす言葉になってないるように感じる。

 二次創作はキャラや作品への強い愛と熱意で生まれるものなのに、そこに「全部間違い!幻覚なのを自覚して!」って言葉を投げかけるのって、いくらなんでも酷くないか。

 正確には「カプや二次創作は全部等しく、私たちそれぞれの好きで見たい部分の表現」ではないか。

 解釈は全て幻覚だから自由に創作していいのではなく、私たちの見たい”好み”に正解はなないから自由に創作していいのだ。

 原作の隙間を埋めるような姿を見たいと思うのも、思いっきり理想や萌える姿を見たいと思うのも人の自由だ。私はこの考えがどうにか二次創作文化に根付かないかと日々画策している。


作品読解における解釈(客観的解釈:読解)

 さて、いよいよ本題である「作品読解における解釈」を解説する。

 簡単に言えばこれは現代文読解の世界だ。

「作者の意図を考えましょう」の世界だ。この解釈は「読解に基づいた客観的論拠によって絞れる推測の幅」を指す。

 私はこれを女性向け二次創作界隈で言われる「解釈(主観的な捉え方)」と区別するために「読解的解釈」という造語で呼んでいる。

 実際に私が読解仲間と行った読解セッション(?)の内容を掲載しよう。

「サ釈。サンジはなぜ自己犠牲し、なぜ解釈が難しいのか|第二章 読解による解釈|サンジのキャラクター像の読解方法」より抜粋

 「強調演出が入っているから~」「傍点が付いているから~」これが読解の世界だ。漫画でこのような読解が必要になることは滅多にないが、サンジはあまりにもキャラ像の読解が難しいため本格的な読解基準の解釈をすることとなった。

 正確には「読解」と言ったほうがいいのだが、作品が現代文の試験ではない以上、作者が明言しない以上、100点の正解の答え合わせはできないので「解釈(客観的論拠に基づいて絞れる推測の幅)」という言い方になる。

 読解における解釈には100点の正解はないが、間違った解釈はある。それは読解に基づかない解釈だ。作品にそうとは読み取れない客観的反証がある解釈は間違った解釈になる。

 「おばあさんが川に洗濯しに行った」と書かれたものを「少女が川に洗濯しに行った」と読み取ることを「どう受け取るのも人の自由」とは言わない。これは誤読である。

 しかし実際の作品読解はこのような単純な「言語」単位での整合性を測るものではない。文脈を読むのものだ。


文脈を読解するとはどういうことか

 例えば「この時のキャラクターの気持ちを考える」に対し、「このキャラはこういう性格だからこう考えたのかも…」と想像するのは「原作に対する主観的な印象(主観的な捉え方)」だ。

 この解釈には正解がない。私たちの価値観や感性を元にした受け取り方に「”正しい”正解はない」からだ。

 しかし読解として「この時のキャラクターの気持ちを考える」場合は、前後の文脈から読み取る

 キャラの気持ちは「自分で考える」のではなく「前後の文脈から読み取る」世界だ。キャラの気持ちは作中の文脈によって提示されているのでそれを読み取る。これが読解の考え方だ。


「サ釈。サンジはなぜ自己犠牲し、なぜ解釈が難しいのか|第二章 読解による解釈|サンジのキャラクター像の読解方法」より抜粋

 読解において「私はこう感じる・こう思う」という”自分の価値観や感性(主観)”は読解的論拠にはならない。読解とは客観的論拠に基づいて読み取るものだ。主観ではなく、客観で読み取るのだ。

 全ての人間は完璧な客観性を持つことなど不可能だ。客観性とはいわば「自分の主観を疑いながら、より事実情報に基づいた情報認識を目指す姿勢」を指すのではないかと思う。客観視とは「主観を疑う」という姿勢から始まる。

 そして「客観的に読み取る」とは「描いてあることを読み取る」だけではなく、「描かれていないことは読み取らない」でもある。

 もし「キャラの気持ち」がその場における作者の提示したい情報ではない場合、「キャラの気持ち」は読み取らない。

 サンジはなぜロビンに助けを求めたのだろうか。ここで私達は真っ先にサンジの思考を読みたくなるが、またもやサンジの思考は描かれていない。しかし1ページ手前の文脈を読むと、モブの台詞でサンジの今までの自己犠牲の在り方が説明されている。

 そしてサンジは手前のモブの説明に対し、全く異なる「助けを求める」という行為をする。これはサンジが「サンジは自己犠牲をやめ、以前とやり方を変えている」という作中の文脈による情報提示となる。

「サ釈。サンジはなぜ自己犠牲し、なぜ解釈が難しいのか|第三章 考察|サンジの解釈はなぜ難しいのか」より

 「一輪の赤い花が描かれている(原作情報)」を「鮮やかな色なのに誰にも相手をされず一人で過ごしている寂しい花が描かれている」と読み取っていたらどうでしょうか。

 もし情報が「一輪の赤い花」だけであれば解釈は人の自由です。しかし作品では前後の文脈があります。前後の文脈の流れの中に「一輪の赤い花」の意味があります。これを読み取るのが読解です。この文脈を無視して一輪の赤い花だけを抽出して見て「鮮やかな色なのに誰にも相手をされず一人で過ごしている寂しい花が表現されている」と読み取るわけにはいけません。

 文脈に描かれていないことを勝手に想像して読み取ってはいけないのが「読解」だ。


読解における解釈はミステリー小説の推理だ

 読解における解釈とは、作品の全ての描写・演出・脚本構成・前後関係に整合性のつく「客観的事実に基づいて絞れる推測の幅」を求める楽しみ方だ。

2段階目は「解釈する」です。みなさんに求められている「解釈」は、「事実」をたくさん集めて、「多くの人が共通して考えること」を理解する能力です。解釈というと「自分なりにとらえる」(主観的な解釈)と思いがちです。しかし、読解においては、ここに大きな落とし穴があることに気づいてください。実際の問題では、「事実」が示されます。その事実をたくさん集めることによって、解釈の幅が狭まり、多くの人が「確かにそうだね」と納得できるものになるのです。

「読解力」と「自分なりに解釈する」は違う 中学受験のプロが指摘する“大きな落とし穴”|AERA dot.

 これは例えるならミステリー小説の推理に非常に近い。全ての人物のアリバイ・事実関係・証拠に基づいて犯人を絞る考え方だ。

 まずこの考え方において「犯人を誰だと思うのも人の自由!全部幻覚」という発言がおかしいことは誰にでも分かるだろう。本気で読解をしている人に「解釈は人の自由!全て幻覚!」と声をかけたらたぶんすごく怒る。彼らは本気で犯人探しを楽しんでいるからだ。

 そして何度も言うように読解とは「作品全ての描写に整合性がつく」推測の幅だ。

  • たった1つの証拠(作品描写)から「犯人の行動や心理を”自由に想像”して」犯人のアタリをつける

  • 3つくらいの証拠からそれっぽい綺麗な筋が立てられるため、反証できるアリバイ(他の作品描写)を無視する

 このような解釈は「作品全ての描写に整合性がつく」とは言わない。これは読解的解釈における「検証のされていない仮説」であり、この時点で犯人(解釈)を断定することはあってはならない。

 もちろん作者があえて自分でも答えを作らず読者の解釈に任せる作り方をすることもある。

 ︎︎だがそもそも「読解」をして演出の文脈を読めば、作者が意図して答えを作っていないか、意図して情報提示の誘導をしているかだって読み取れるのだ。作者が意図して答えに誘導しているかどうか自体が、作品構成の文脈を読解すればわかるのだ。

 特にサンジの自己犠牲は初登場時のバラティエ編からWCI編にかけて明確に扱われており、初登場時から自己犠牲周辺がサンジのキャラ像の主軸の1つであることは間違いないだろう。
尾田先生はこの部分について必ず意図して読者に情報提示を行っているはずなのだ。

【解説】エピソードの主題として扱っているキャラ要素の根幹が提示されていない(人々の解釈に委ねている)ことは漫画とキャラ作りの構成上(文脈上)、絶対に有り得ない。つまり「描かれていない=解釈は自由」なのではなく、描かれているのに何かしらの理由で私たちが読み取れていないというわけだ。

「サ釈。サンジはなぜ自己犠牲し、なぜ解釈が難しいのか|第2章 読解による解釈|読解による解釈とは」より抜粋

︎︎ 作者が意図して演出や読者への誘導を行っているか自体が「読解」すれば分かるから、「意図された誘導」だけ読む場合はそうそう間違えることはない。みな同じ答えになる。

 ︎︎作者の考えた100点の言語化は不可能だが、情報と文脈の合理的な読み方を複数人で情報共有をすれば、作者が明確に意図して誘導している情報提示の読解は必ずある程度同じ方向の「答え」に収束する。

 ︎︎推理小説で作者が犯人を決めている限り、作者が提示した証拠と事実関係・アリバイを整理すれば必ず犯人に辿り着くのだ。

 高度な文学では、どう文脈を読んでもどちらでも読み取れていまうこともある。客観的事実に基づいて絞った推測の幅の中に、同等レベルの読み方が可能な文脈が複数あるパターンだ。この場合は作者の生育歴を調べてどのような価値観を元に作品を書いたか、それともテクスト論という文脈上そう読めるならそれもまた答えだという読解の概念の話になる。しかしテクスト論における「自由に受け取って良い」は読解の文脈上そう読めるかどうかであり、おそらく主観的解釈(自分が感じた作品への印象と想像で物語を受け取る)のことではない。(よく分かってないので文学有識者の言及を求む)


討論して視野を広げる解釈、討論して答えを絞る解釈

 「読解をしていたら解釈は自由と怒られる問題」は「原作に対する解釈」の難しさだ。
 ここまで話したように、「原作に対する解釈」は「読解的な解釈」と「主観的な解釈」の2種類がある。

「主観的解釈」は答えを出すための討論はできない

 私は読解的解釈をしている時に「主観的解釈」の意見を貰うことが少なくなかった。例えばこれはその1例だ。

hotさんの考え方には反しますが、明言されている事に絞るとつまらないなあという思いもあります。「作者が言いたいこと」を明言だけではなくて、25年も描いてきた膨大な中から読み取りたいと。(好き勝手されてる感が半端ないサンジを読み解くのは難しいですね。)
(中略)
ちなみにバラティエが出来た頃のサンジの「俺がいる」は自己肯定感の表れともいえますが、お宝をつぎ込んでレストランを建設して周囲にサンジしかいないとなったら、気が回って弁の立つあの子はあのくらいのことを言うだろうなって気もします。仲間を全て失ったゼフに「俺はいなくならない」と言いたかったのかもしれません。

マシュマロより

 >「作者が言いたいこと」を明言だけではなくて、25年も描いてきた膨大な中から読み取りたいと。

 おそらくマロ主は作者の提示ではなく「全体的な印象」から読み取りたいという意図だろう。そこに続く解釈は「読解」ではなく、「自解釈を元にした主観的な想像」である。

 もちろんこのような主観的な解釈を楽しむのは作品の楽しみ方としては自由だ。しかし主観的な解釈は話し合って答えを求めることができない。

 「キャラへの自解釈を元にした原作描写の意味の想像」という主観的な解釈は、人それぞれの価値観と感性を通した主観(感想)だ。価値観や感性の異なる他者と共通した認識を持ち1つの答えを出すのは不可能だ。

 「私はサンジはゼフに気遣いしてると思う」「私はサンジが純粋に力になりたくて言ってると思う」ここを言い争ってもどちらも自分の感性を通した感想であり、事実的論拠を元にした共通の答えは出せない。

 もっと簡単に言い換えよう。「私はサンジを可愛いと思う」「私はサンジを格好いいと思う」ここに、どちらが尾田先生の意図したサンジ像かを求めることがおかしいことはわかるだろう。

「主観的な解釈」の討論では「答えを絞る」はできない。

 そして「主観的な解釈」においては他人の解釈を否定してはならない。なぜなら事実的論拠に基づかない解釈否定とは、ただの相手の感性の否定にしかならないからだ。

 これを語り合うのは相手がどのような視点と価値観でそのように捉えてるかを知る時だ。これは解釈討論ではなく、相手の価値観や視点を知るための「対話」だ。もちろんこれを話し合うのはとても楽しいし私は大好きだ。


「読解的な解釈」における討論は情報交換会だ

解釈討論で語り合うのは正確には解釈(人それぞれの自分なりの捉え方)そのものではなく、原作に描いてある情報と読解の方法の共有であり、読み方の合理性の検討だ。

「サ釈。サンジはなぜ自己犠牲し、なぜ解釈が難しいのか|CHAPTER1:印象による解釈|解釈を難航させる私達の認知バイアス」より抜粋

正直に言えば尾田先生の本当の意図なんて誰にもわからない。読解的解釈は情報を整理して原作の情報提示と文脈に沿わせた時に、おそらくこの読み方・捉え方が最も原作に沿った合理的な読解だろうという読解基準の解釈をやっているだけだ。

「サ釈。サンジはなぜ自己犠牲し、なぜ解釈が難しいのか|あとがき」より抜粋

 読解における解釈を仲間同士で行う場合、どの描写の認識に誤りがあり、どの文脈がより有力かをバチバチに討論し合う。これはミステリー小説の推理でいう物的証拠やアリバイなどの情報共有である。

 読解的な解釈の特徴は相手の解釈を否定してもいいところだ。正確にはこれは否定ではなく、読解方法や見落としている情報の共有だ。そして読解をしている者同士は文脈に基づいたより有力な読み取りが可能だと判断したら現時点の自分の解釈など直ぐに捨てる。

 読解的な解釈における「解釈」とは「仮説」でしかない。彼らが求め高揚するのはどこまでもより客観的事実に基づいた「読み取り」「描写の理解」であり、自分の感性や読み取りの正しさの証明に執着しない。

 ただし読解的な解釈をやってる者に「主観的解釈」を持ち込んで解釈を否定すると怒られるだろう。私は高圧的な口調でこれをされた時は、思わず作品描写全てに整合性の取れる事実的論拠に基づいた文脈の読み方を文章にまとめてから提示してくれと怒ってしまった。

 特に多いのが「主観的解釈」を証明するために作品描写で論拠を塗り固める解釈だ。このような解釈は、ぱっと見は作品描写の論拠があるように見える。しかしこれは「自分の主観的な印象→自分の印象に沿わせて作品描写を読み取って論拠を作る」という順番になっている。

 このような方法で「主観的な解釈を行う層」は「読解的な解釈を行う層」にそっくりに見えるが、むしろ自解釈を証明するための偏った作品読解を行っている状態に陥りやすい。これは読解を行う層が最も嫌う行為だ。

 読解を楽しむ層にとって、「自分の印象や萌える解釈(主観)が正しいことを証明するために作品の描写を歪めて読み取った”原作の解釈”」を読解の土俵に持ち込まれることは最も忌避されることだ。


「読解的な解釈」と「主観的な解釈」の見分け方

 「印象を元にキャラ像の複数のパターン仮説立てをして、原作への検証からより文脈的整合性の取れる有力なキャラ像よ筋を絞る」という視点で解釈を行っている場合は「読解な解釈」になるだろう。

 「主観的な解釈」の場合、複数の仮説立てと原作検証という視点による推測の幅の絞り込みが行われていないように感じる。あるフォロワーは私が解釈をする姿を見てこう言った。

解釈を断定して語る人は多いけど、hotさんのように疑問を持ちながらああかな?こうかな?と悩みながら解釈をする人は初めて見た。

 読解的な解釈は「仮説立てと検証」の世界だ。自分の現認識を断定せず、より有力な文脈の読み方を捉えようと試みる「姿勢」が読解的な解釈の最たる特徴ではないだろうか。

 しかし難しいところは、読解的な解釈をする者は、決して「読解的な解釈だけを楽しむ者」ではないことだ。彼らは同時に「主観的な解釈(感想)」も楽しみ語っている。

 読解を楽しむ者同士は、お互いの語りが「読解的な解釈」を指しているか、「主観的な解釈」を指しているかを感覚的に見分けることができる。しかし他の者はどうだろうか。


読解を楽しむと「解釈は自由」と怒られる問題は難しい

読解に興味のない人間にとって、読解的解釈は不可知の領域

 以下の文章は 「逆CPを憎む腐女子が分からない」私たちもまた同じ感覚を持っている の記事に届いたマシュマロだ。ちなみにマロ内容は記事の誤読による怒りのお気持ちマロである。

勇気と希望を与えてくれたワンピースという作品をサンジを「知りたい」という興味と「大好きだ」という高揚感ありきで、好意的に見ようとしているという点において、あなた様の作品の触れ方も盲目的である可能性が高いです。色々書かれていますが結局のところ「お前ら大してサンジのこと知らんくせに」という憤懣といかに深いレベルのオタクかというマウントに感じました。
(中略)
「いや、そうはならんやろ」てのは百も承知、飽くなき欲望(主に性○)によって切り替えるオタノシミ装置なのです。
(中略)
△は基本受けだが□相手なら攻め、同じ□受けでも作風によってはモヤるなんてことも。それはご推察通り「自らを成すアイデンティティの一部」が判別することです。お言葉を借りれば「趣味嗜好の範囲を越えて、自分の人生観に強く根差した部分で」原作を「読解」し、「自らを成すアイデンティティの一部」を保てる範囲で趣味嗜好の世界へと回帰するのです。
(中略)
解釈薄っと思っても踏みにじられたと嘆く必要はないです。(二次創作の)作り手が本当に原作を読み取る力が無いとは限らず独自のスイッチを稼働させた可能性もあります。

とても長いマシュマロ

 要約すると「hotさんだって自分の受け取りたいように受け取ってるだけだし、二次創作は自らのアイデンティティで作られているので他人の解釈(おそらく二次創作の解釈)に嘆く必要はない。」というお気持ちマロだ。たぶん。

 ちなみに元の記事は「原作に対する解釈」の話をしており、ハッキリと「二次創作の解釈は自由だからこそ魅力的だ」といった内容を記載している。これは完全なマロ主の誤読によるお怒りマロだが、まあそれはいい。(正直マロの文章内で論点がズレており、何を主張したいのかもよくわからない文章だった)

 私が気になったのは以下の文章だ。

お言葉を借りれば「趣味嗜好の範囲を越えて、自分の人生観に強く根差した部分で」原作を「読解」し

とても長いマシュマロ

 主観的解釈は自分の価値観や感性を通して「自分の受け取りたいように受け取る」が、読解的解釈は「自分の受け取りたいように受け取ってはいけない」。

 現代文読解のような作品読解は「自分の主観(感性による捉え方)」を持ち出してはいけない。マロ主の言う、「趣味嗜好の範囲を越えて、自分の人生観に強く根差した部分で原作を読解する」は読解的な解釈ではない。これは主観的な解釈だ。

 あえて言うなら、読解好きが語る主観的な解釈とは、読解的な解釈を行った上で”自分の価値観に基づいて特に好ましいと思える部分を自分なりに捉える”語りだ。読解をした上での主観的な解釈だ。

 しかし「読解的な解釈」の感覚が掴めない層にとって、読解的な解釈と主観的な解釈の区別はつかない。

 ︎︎個人的な感情や憶測を混ぜず「情報を事実主体で認識しその文脈を読む」というのは、できる人とできない人に極端に分かれる。これは論理思考における情報認知だ。もしこれに慣れてない人が後天的に身につけようとするならそれなりの訓練が必要になる。

 事実主体で論理の筋を読むような情報認識とは、その感覚に慣れていない者にとってはどこまでも「その捉え方もあなたの感情」としかならないのだ。読解的論拠に基づいた読解は、読解好き同士では「確かにそう読めるね」と共有できるが、主観的な情報認知を主に行う者とこの感覚は共有できない。

 これは事実主体の情報認知ができる人が偉いという話ではない。人間それぞれの生まれ持った脳機能や認知の癖による情報認知の傾向の話だ。

 普段から主観的に情報を捉える層にとって、読解的な解釈を行う層の客観的事実と本質の筋を読む捉え方とは、情報認知レベルでの「わからない」なのだ。当人が無知の知を知らない場合は「自分が分からないことすら分からない」。これが不可知の領域だ。

 簡単に言い換えると「なぜ腐女子がBLに萌えるのか・どのような感覚で萌えているのかは、大多数の男性にとって不可知の領域」であることと同じだ。何度も言うが優劣の話ではない。これは能力差の問題ではなく、馴染んできた文化の性質・生き方と立場の違いによって発生する不可知の領域なのだ。


アイデンティティに根ざした解釈が誘発する「怒り」

 私はサンジの解釈に頭を唸らせていた時、「Aの解釈はこの描写に反証があるから成り立たない」「Bの解釈は仮説としてはありだが論証がない」と解釈の検証と整理を行っていた。

 こうやって解釈を検証すると何が起こるかというと、おそらく自解釈を否定された層から「サンジの何を知っているんですか!」とお気持ちマロが届く。違う、知っているんじゃなくて全然分からないから読解をして読み取ろうとしているのだ。

 ︎︎おそらく、作品描写の事実的な反証を元にした解釈否定をされて怒る時点で、「キャラを読み取りたい」のではなく「自分の感じたキャラ像を愛したい」のだろう。

 「情報を読み取る」とはその対象に膨大な時間と愛を注いで様々な空白部分の想像を自分の感性を通して練り込むことではない。主観的な先入観のフィルターを通さず作品の情報を事実主体で認識することだ。

 強い感情が発生すればするほど、人は自分の感情に沿わせて情報を歪めて読み取ってしまう。自分の萌えや感情に沿わせてキャラを受け取るのだ。人間は得てしてそういう生き物だ。

 キャラ推しファンよりも、別のキャラが好きな人ほど自分の推しキャラを冷静に読み取れるのはこのためだ。熱烈的に入れ込むことが愛なのか、ありのままの姿を知ろうとすることが愛なのか、これはもはや人それぞれの価値観でしかなく正解のない領域だろう。


 そして私だって読解的な解釈をやりつつも「(私は今のところ)こう”感じる”」「(読解的な解釈の上で私の価値観を通して言わせてもらえば)サンジは少年だ」などと主観的な解釈(感想)を語るのだ。

 そして私もまた、自分の人生経験や感性を通した主観的な解釈(感想)は「決して踏みにじられたくない」と思っている。なぜなら主観的な解釈とは、自分の生きてきた価値観や思想、つまり「アイデンティティに根ざしたキラキラと輝く宝石のようなもの」だからだ。その生きてきた人生を元にした「感性」を否定したら、それはただの人格否定だ。

色々書かれていますが結局のところ「お前ら大してサンジのこと知らんくせに」という憤懣といかに深いレベルのオタクかというマウントに感じました。

とても長いマシュマロ

 「あなたは推しの何を知っているのかと怒る人々」もまた、主観的な解釈という生きてきた価値観を元にした「感性」でキャラ像を受け取っている。そのキャラ像を否定するとは「その人の感性・価値観を否定するという人格否定」に値する。だから怒る人が現れるのも当然だろう。

 (直接相手に向かって否定していない限り、別の解釈を語ることは決して相手の人格否定ではないのだが、眼の前に自分と異なる価値観や感性の持ち主が現れるとマウントされたと感じたり、自分が否定されたと感じる人はいるので仕方ない。また読解では読解的論拠を語るため、主観的な解釈以上に解釈否定に受け取られやすい。)

 しばしば読解を楽しむ者を「高尚ぶっている」「自分が正しいとマウントを取っている」と受け取る方がいるのだが、読解が好きな人は高尚ぶりたいのではなく、ただ楽しみ方として読解が好きなだけだ。おそらくこれは女性向け界隈にある謎の作品愛至上主義(何を持って愛なのか全く定義はない)という観念が生み出す優劣意識からの受け取り方なのだろう。

 読解を楽しむ者が求めているものは常に「より文脈に沿った有力な読解方法」であり、「自分の正しさ」に執着しない。これが読解好きの最たる特徴だ。

 話を戻すが、この分かり合えない二者の間にあるのは

  • 本格的な文脈読解を楽しんだうえで、主観的な解釈を固めたい

  • 自分の感性を通した感動や印象から、直接的に主観的な解釈を固めたい

 この違いでしかない。

 「文脈読解によって物語の構成やキャラ像を読み取ることを楽しむ」「作品から感じたキャラへの感動や印象を楽しむ」私はこの楽しみ方の違いに何かの正しさを求めるなんてできないと思っている。これは楽しみ方の違いでしかなく、ここに正しさはない。

 しかし180°視点の異なる楽しみ方が同じく「原作に対する解釈」という言い方で見分けがつかないからこの問題はややこしいのだ。

 読解的解釈が不可知な層がいる限り、私たちが読解を行うもの同士の暗黙の共通認識を元に読解的な解釈と主観的な解釈を区別なく語る限り、読解的な解釈と主観的な解釈を見分けて欲しいと願うのも無理な話だろう。

 そして女性向け界隈における「解釈(主観的な解釈)」というものが誰かのアイデンティティに深く根ざしている限り、その主観的な解釈と読解的な解釈の見分けがつかない限り、読解的な解釈を解釈否定(感性の否定)に感じ怒る人がいるのは仕方ないのではないか。

 腐女子だってほんの15年前には2ちゃんねらーに「なんでホモにするのかわからない」「気持ち悪い」と、その不可知の領域に伴う不理解ゆえに酷い叩かれ方をされていた。同じように読解もまた不可知の領域に伴う不理解ゆえにたまには怒られてしまうのだろう。

 しかしもしこの記事を読んで「そういう楽しみ方もあるんだ」と知って頂けたら、私たちの誰かが他の楽しみ方をしているファンに攻撃しに行ってない限りは、ぜひそっとしたり距離をおいて棲み分けしてもらえるとありがたい。

 私たちはよくわからなくても読解という楽しみ方を許容してくれる方には感謝し、仲間内で読解の解釈談義を楽しみながら、たまに指摘されたり怒られてしまうのは仕方ないと考えるのが賢明だろう。

P.S
 ちなみに読解好きに「解釈は幻覚だから読解するな系」の指摘をするのは、ABカプ勢に向かってABを否定しBAを押し付ける行為と同じような意味合いだ。読解好きの人はこれをされると当然だがとても怒る。

 ほとんどの読解好きは、腐女子がカプ視することに嫌悪しているのではない。それ以上に「マウントするな」「高尚ぶるな」などと、ただ仲間と読解を楽しんでいるだけで「こちらの楽しみ方に突っかかってくる」ことを理由に一部の腐女子に強い嫌悪感を抱くようになっている。これは優劣の話ではなく「楽しみ方の違い」なので、距離を置いて棲み分けをしよう。

また、私の活動方針は以下のようになっている。

>これはサンジの自己犠牲についての解釈本という女性向け界隈寄りの本でありながら、女性向け界隈における「人々の感性を通した自由な受け取り方」を読解的論拠から否定する可能性のある内容です。私は読解が好きですが、一方で感性を元にした自由な受け取り方やその解釈を大切にしている方たちの楽しみ方を踏み荒らすつもりはありません。住み分けのためにもワンクッション置くようにしています。

あるマシュマロの返答より一部抜粋

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