楽しみ方に社会的優劣を持ち込むと、その純度と誇りが失われる
自分の楽しみ方を愛し誇りがあるこそ、他人の楽しみ方に不満や不快さを感じることは誰でもあるだろう。私はこのような不満や不快さは誰もが感じていいものだと思っている。
しかしそれは認識を間違えれば誤った方向に向かってしまう。
私たちは決して他人に素晴らしい人間だと認められたいがためにその「楽しみ方」を愛しているわけではない。それらを求めた瞬間、自分の楽しみ方から「純度と誇り」が失われてしまう。
ありがたいことに以下の記事がXで微妙に拡散された。記事は以下のような内容だ。
この記事に対してマシュマロが届いた。
こんにちは!マシュマロありがとうございます。
マロ主さんが記事のどの部分を読んで「一緒にするのは不適合」「全てが相対化されていく時代」と感じたのかは測りかねるのですが、
私が記事で語った内容は「アイデンティティの置き場所と、それに伴う拒絶反応の場所は人それぞれ異なる」という点について「人々は同一」といった意図のつもりでした。
そしてこのような言い方をしたらマロ主さんはきっと怒ってしまうかもしれませんが、私はマロ主さんの文章を読んで
「私のABは原作基準だからCBなんかと一緒にしないで欲しい!というカプ過激派腐女子のお気持ち凸マロみたいだなあ」
と思いました。
あくまでもこれは私が私の個人的な価値観を持って感じたことです。hotはなんて分からず屋なんだ、話にならん!と思ってもらってもかまいません。でももし少しでもご興味があれば
私がオタク界隈の考察においてどのような価値観を元に記事を書いているのか、そしてなぜマロ主さんの主張に否定的な感想を持つのかを語らせてください。
私が「オタク界隈は興味・高揚資本主義」を提唱する理由
私はオタク界隈における考察は全て「興味・高揚資本主義」という考え方を元に行っております。
これは私の考察はオタク界隈でオタクとして生きるために、周りとの楽しみ方の違いや好ましくない時代の移り変わり、不可解な文化の中で、それらをどう捉えてどう折り合いをつけるか、
︎︎そしてオタク界隈の中で、自分をオタクたらしめる「純粋な好き(興味・高揚)」とどう向き合っていくか考えることを目的にしているからです。
この考え方において、例えば「グッズを沢山買って貢献してるから私はより作品を愛している」は「自分がより上だという他者へマウント」が目的になっていますし、
例えば「私がBLが好きなのは、私が同性愛に寛容であり差別をしない素晴らしい人間だから」は「自分は素晴らしい人間だと思いたい自己愛」が目的になっています。
これらの在り方は対象に対する「純粋な好き」とは最もかけ離れた在り方になります。
もちろん自分の楽しみ方に愛と誇りがあるからこそ許せない思いを持つのは素晴らしいことだと思います。私はオタクが各々の「好き」の在り方に信念を持ってる姿が好きです。
しかし、本当に誇りを持っているのなら他人の評価に関係なく自分のアイデンティティに根ざす「良き在り方」を貫けばいいと思うのです。しかしマロ主さんは私に対し「一緒にされなくない」という社会的優劣の正当評価を求めました。
自分の楽しみ方が純粋であるために、他者の楽しみ方に社会的優劣を測ってはいけない
楽しみ方が「純粋」であるとはどういうことでしょうか。
私は原作のキャラ同士の関係が大好きでどのシーンのどこが好きなのかTwitterで熱く語っていたことがあります。その時に空リプでこう言われました。
︎︎私はこの言葉を言われ、本当にショックでした。なぜ作品の好きなシーンが好きで語っているだけなのにこんな事を言われるのでしょうか。
オタク界隈には漠然と作品と深く向き合うことが素晴らしいという観念があります。もしかしたらマロ主さんもこの観念を持っているのかも知れません。
この観念によって何が起こるのかというと、私たちはただ「作品読解」が大好きで面白くて楽しんでいるだけなのに「高尚ぶっている」という扱いを受けるのです。
私たちは高尚だと思われたいがために「読解」を楽しんでいるのでしょうか?違いますよね、読解が楽しくて仕方ないから楽しんでいるのです。これを「高尚ぶるため」と受け取られるのは「読解」を愛する私たちにとって最も不名誉なことではないでしょうか。
しかしオタク界隈にはどうしても作品愛至上主義という観念を持つ方が多くいます。何をもって愛なのかは全く定義がないのですが、漠然と作品を正しく愛している者が最も偉いという優劣的な考え方をし、勝手に優越感や劣等感を感じる方がいるのです。
そして勝手に感じた強い劣等感から、ただ読解を楽しんでいる人が目の前に現れただけで、攻撃や見下されたと感じ、心理的防衛反応から攻撃的な言葉を向けてしまうのです。
だからこそ作品と深く向き合う「読解」を楽しみ愛する私たちは「読解」に対して最も「純粋な好き(純粋な楽しさ)」であることを体現しなければなりません。
マロ主さんが「あんな楽しみ方と同列にされたくない」と楽しみ方に社会的優劣をつければつけるほど、マロ主さんの楽しみ方は「高尚な楽しみ方をする自分という自己愛」「自分の正義を振りかざして他者を蔑みたい人」になり、その楽しみ方は純粋さと価値を失います。
他人の楽しみ方に社会的優劣を測ると、マロ主さんの楽しみ方は自己愛や自分の正義感を振りかざすための道具だと思われるのです。
︎︎そしてマロ主さんと同じような楽しみ方をしている方々も「高尚ぶるため」「正義感の振りかざし」という扱いを受け、「他者を蔑みたい人」という角印を押され攻撃されるようになります。
︎︎彼らはただ純粋に読解が好きで楽しんでいるだけなのに。
間違ってはいけないのは、「自分の楽しみ方の誇りを持っているからこそ気に入らない楽しみ方の人がいる」のは良いのです。しかしそこに社会的な優劣を持ち出してはいけない、ということです。もしそうなれば、私たちの「楽しみ方」はたちまち「楽しさの純度と誇り」を失い、「自分という存在の社会的正義・社会的価値を装うための道具」に成り下がってしまいます。
私たちは自分の社会的評価に関係なく、
︎︎己の純粋な興味・関心・高揚に伴って作品に触れているからその楽しみ方は「純粋」であり、
︎︎ ︎︎己のアイデンティティを持ってその楽しみ方を愛しているから「誇り」があるのです。
︎︎オタクの愛や熱意は「エゴ」です。エゴというと漠然と悪いものだと感じるかもしれませんが、これは違います。「私が楽しい・私が素敵だと感じる・私が萌える」という純粋な「興味・関心・高揚」で夢中になるオタクの愛と熱意(エゴ)はとても純粋です。
︎︎「自分の心のキラキラに惹かれ夢中になる純粋なエゴ」はとても美しいものなのです。
マロ主さんの楽しみ方は「純粋に楽しいからその楽しみ方が好き」なのでしょうか。それとも「人として素晴らしい行いだからやっている」「高尚な楽しみ方をしている私を正しく評価してほしいためにやっている」なのでしょうか。私はマロ主さんの文章を見て、どちらか判断しかねてしまいました。
他者の楽しみ方に社会的評価を測ると、自分の楽しみ方の領域が侵食される
例えるなら「腐女子における社会的大義名分問題」がわかりやすいでしょう。一部の腐女子はカップリング萌えに「LGBT差別問題」を持ち出します。これにより私たちの愛する「作品読解」という楽しみ方の領域が侵食されます。
順を追って説明します。
最近ではLGBTの政治活動におけるキャラカップリングの使用がXで話題になりました。
「読解」はまだ楽しみ方という趣味の範疇に収まりますが、当事者として社会問題に取り組む方々の領域が「自分の”趣味嗜好の好き”」のために無責任に踏み荒らされては迷惑ですね。(もちろんBL趣味を通じて社会問題に関心を持った結果として「社会問題への活動」という認識と責任を持って活動するのは良いことだと思います。)
しかし一部の腐女子が自分のカップリング萌えや問題行動を正当化するために「LGBTQ差別問題という社会的大義名分」や「作品内で明言されてないからどう受け取るのも自由という社会的正当性」を掲げてしまう例は後を絶ちません。
なぜならそれを楽しむ方々が、自分の「純粋な好き」を持つ自分とその「責任」を自己受容できないからです。これは彼女ら自身の問題でもありますが、「女性がエゴ的な欲望を持ってはならない」という社会的抑圧が原因でもあります。
日本の女性が背負う理想や貞操観念への社会的抑圧は非常に複雑です。恋愛や性欲に対し理想に浸かって楽しもうとすれば現実が見えていないと蔑まれ、女性の性欲は淫らなものして嫌悪され、自らの性欲に伴う加虐欲や支配欲を架空の物語に向ければ「現実でも男性にこうされたいと思っているんだろ」という扱いを受けてしまいます。
このような社会の中では「自分自身の欲望」を上手く自己受容できません。己の欲望を自覚した瞬間に社会による人格否定と女性の人権否定の正当化によって責められるように感じるからです。彼女たちは「社会的正当性」「社会的大義名分」を纏うことで己の欲望を楽しもうとするのです。しかし楽しみ方に「社会的正義」を掲げている限り、彼女らは自分の楽しみ方に自らの責任を負いません。
例えば私たちが彼女らの趣味嗜好を「社会的優劣や正当性」を持って社会悪・社会的な下賤な層として蔑み貶めようとすればするほど、彼女らは自らの楽しみ方を自分自身の欲望として肯定・自己受容ができず「社会的大義名分」「社会的正当性」を持ち出すようになります。
その社会的優劣のしがらみによって何が起こるかというと、「私のカプは原作に恋愛感情と読める描写がある」「原作を恋愛感情と読み取れないのは同性愛差別意識があるからだ」「人がどう受け取るのも自由、作品読解は他者否定」のように「作品読解」という楽しみ方の領域が踏み荒らされてしまいます。
私たちが他人を「社会的優劣」という基準から解き放ち、「好きだと感じるもの・楽しみたいものはありのままに感じ楽しんで良い」と許容することで、その他人もまた自らの趣味嗜好に「自分が好きだからそういう楽しみ方をしている」という主体性と責任を持って向き合うことができるようになります。
そうなることで結果的に「作品読解」という私たちの楽しみ方もまた踏み荒らされないようになるのです。私は自分の楽しみ方の自由を守り、自分の楽しみ方の領域に侵入されないためにも「楽しみ方は人それぞれ自由」というスタンスを取っています。
アニメ・漫画は大衆文化である
もしかしたらマロ主さんは作品を高貴な芸術作品のように捉えているのかも知れません。しかしアニメ・漫画は大衆文化です。
例えば5chでは少年漫画内で誰が一番最強かをランク付けするスレッドがよく立ちます。彼らは作者とのコミュニケーションなんて考えず自分の興味関心に従って読み、作品内の枠組みを超えて他の作品のキャラを持ち出し、読者同士の議論を楽しんでいます。
これは下賤な楽しみ方でしょうか?むしろ私は少年漫画がターゲットとしている層に与えている最も純粋な楽しみ方のようにさえ感じます。
私は怒涛のオタクなので恋愛ドラマやお笑い番組すらも脚本・企画構成や編集、演者の芝居の上手さに言及してしまいます。
しかしドラマやお笑い番組を楽しむ大多数の方は「恋愛の展開にドキドキした!」「あの芸人ほんと面白い」「俳優の〇〇さんの色気すごくない!?」などの視点で楽しみ、他者との他愛ない会話を楽しみます。これは漫画やアニメも同じです。
読書を楽しむ人間は全て文学研究者のように作家の生育歴を研究する必要はありません。将棋を楽しむ者が全員プロを目指す必要はありません。これが大衆文化です。
大衆文化における「作品」とは、娯楽であり、人々と繋げるコミュニケーションとコミュニティの役割を果たし、人々の生活に充実を与えるものです。
5chに住むアラフォーの少年たちが少年漫画の最強キャラランキングを作って仲間と楽しむように、BLカップリングを愛す者たちは作品を通しカップリングを楽しみ同じ性癖の方々と好みのBLを共有し楽しむのです。
私は「作品にどう触れ、どう楽しむのも人それぞれ自由」という言い方をしていますが、これは「作品が大衆文化としての役割を担っている」という視点での言語化でもあります。
オタク界隈が「純粋な好き」を楽しめる場所であるために
楽しみ方に社会的優劣を持ち出すと、自分の楽しみ方は「優劣を誇示するための道具」になり、その「純粋な楽しさの魅力」は価値と自由と誇りを失います。
楽しみ方に社会的優劣を持ち出し楽しみ方を制限すると、自分の楽しみ方の領域に侵入され踏み荒らされます。
楽しみ方に社会的優劣を持ち出すと、やがて周りに回って自分の楽しみ方も誰かによって批難の対象になります。
やがてマウント合戦が始まり、オタク界隈は「自分なりに楽しむ」ための場所ではなく、いかに自分が正しく高貴かを競い合う世界になってしまいます。
私は読解が好きですが、自分の興味・高揚がある部分だけを自分のペースで自分なりに楽しみたいだけです。私は作品のキャラ達が好きでも主要キャラ全員の生年月日を覚えることはありません。自分の興味ある場所以外に無理に興味を持つつもりがないからです。
「◯◯の考察をしない人はオタクじゃない」「雑誌インタビューを全部読んでない人と私を一緒にしないでほしい」「主要キャラ名をフルネームで言えないなんて愛がない」、私はオタク界隈がそんな自由がなく、生き苦しく優劣を争う世界になることを望んでいません。
他者を尊重するとはどういうことなのか
全ての人間は他人の尊重を持ってしか自分の尊重を得られません。気に入らない他人の楽しみ方が社会的劣等層として扱われることを望むとロクなことが起きません。ただ「そのような在り方の人間がいる」として存在を認めることが、結果的に「自分の楽しみ方の純粋さと誇り」を守ることになります。
他人を尊重するとは決して「気に入らない楽しみ方も等しく素晴らしいものだと思わなければならない」ということではありません。
マロ主さんがマロ主さんご自身の価値観を持って「許せないと思う楽しみ方」「下品だと思う楽しみ方」があってもいいのです。ただしマロ主さんご自身の価値観と社会的優劣・社会的正当性を混同してはいけません。
他人を尊重するとは、自分と全く異なる価値観が合わない人間がこの社会に存在することを許容することです。そして彼らがこの社会で他人を妨害しない限りは、自分の個人的な価値観に「社会的優劣を掲げて」彼らの存在そのものを排除したり蔑んではいけないということです。個人的な価値観を持って嫌うのは結構ですが、そこに社会的大義名分や社会的正当評価を持ち出してはいけません。
マロ主さんはご自身の価値観を誇りに思えばいいのです。そこに他者による社会的正当評価を求める必要はありません。それが自分という人間と自分の価値観を持って、自分の誇りを生きるということです。
言い換えると、自分の価値観に自分という人間のアイデンティティを自覚し、楽しみ方に主体性を持った方が良いという話です。
オタクという世界が「社会的な正しさ」や「社会的優劣」に関係なく「純粋な好き」によって作品を楽しめる世界であるためには、このような考え方が必要ではないかと思います。
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