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ジョルジュバタイユの読み方

内的体験とは
私の外に出る事でのみかろうじて生きている経験、主体の外の次元を露出させ、総体としての存在を復権させる=外の経験=裂け目の時間
内的体験は私へと現前する出来事として生きることの不可能な余白の次元を含む

オットー 聖なるものにより、神概念の二重性(合理性と非合理性=全くの他なるもの=聖なるもの=異質性の現実=フォルスの伝播)を一般の事物の中に反映している。

観念論=非物質的、実体のないものに物質世界の本質を見出す考えを否定する。観念論者は何故なら物質の観念的=理想的形態を伝統的な階層の頂点に置き、物質とはこうあらねばならないというオブセッションに従う事になるから精神は物質に依存している

物質=エス=闇=人間のばかばかしくて恐ろしげな闇=異質なもの=非人称的存在=在るもの=悪しき力=フォルス=非力なもの=異質性

同質性=他なるもの=オデュッセイア=全体性 

アセファル(acephal)は共同性(全体性=還元)なしの共同体。それは主体の外の次元における共同性、愛や暴力、死、そこに到達しない無限の反復運動=至高な瞬間

コミュニカシオン 何も意味あるものは伝わらない時に何ものかが伝わるような交流

バタイユはこの低い物質を肯定しながらも、超越的なものとしなかった=西洋の超越的概念と人間の神学的構造を踏襲しなかった=理性主義/人間中心主義に還元される事を恐れた。何故なら、バタイユにとって絶対的なものはなく、絶対的なものとなる事は笑いを誘う=無になる事実を認識させようとした。

理性主義は、理性のうちに存在する人間の無意識=低い物質=異質性までも理想的な形態として階層の頂点に置き、己の無意識をそれに隷従するオブセッションを生むことになるから

1920頃の笑いとは、世界の心奥を開く聖なるものの啓示。笑い=無=非理性=戯れにより生起する。
よってバタイユは肯定したものを直ちに笑い飛ばさねばし、超越的なものになることを阻止しなければならないアンビバレントな手法を用い生=希望=耐えがたい死=非生産的な消費

それを可能にするのは、戯れ=無=非理性=非従属、フランスの革命を肯定したが、それは人間の欲動を肯定したのであって、フランス革命でなくてもよかった。

それ以降バタイユは革命に必要なのはフォルス=無意識=ではなく、規律あるピュイサンスという考えに逢着する


有機的運動体とは、破壊転覆的なエスの力を沸騰させる人々が集まり、そのフォルスをピュイサンスへと変化させた集団。如何なる国家主義をも打倒する普遍的共同体=不定形の共同体。のちに非政治化されたアセファルと社会学研究会につながる

聖なるものと共同体

アセファルと社会学研究会は、聖なるものの体験に依って共同体を組織することを目的とした。
この頃(1930年代)は聖なるものを悲劇的なものと称し、ニーチェから継いだデュオニソス的=恐怖、破滅からなる恍惚、陶酔=斥力からなる牽引力が刺激するエスからなる共同体を原理的なものとしたとした

アセファルが神学的構造あるいは単頭型の政治と異なるのは、悲劇的なものによるピュイサンスから共同体が形成されており、それは権力の奪還ではなく非生産的な消費、それによって大地へ開けようとする点である。

大地=生成と消滅=デュオニソス的=遊び=時間
バタイユは大地の中でも消滅、破壊、蕩尽の側に力点を置いている。

ブランショの指摘により、バタイユの内的体験=フォルスの体験が持つ権威は持続的なものから、生成と同時に消滅するものへ。

バタイユにとっての共同体は、脱自した、あるいは裂傷を伴う内的体験によって結ばれる不定形の共同体へ展開した。

一つは友愛による、バタイユの本を読み内的体験に賭ける人々と結ばれる共同体

一つは内的体験によって自己の限界線上を彷徨う時に、その欲望の葛藤を人間存在の実感として感じ、一人の人間を砂漠に変える境界に成り立つもの。


砂漠=個体としての所属性を消滅させるもの=戦争

ニーチェについて
バタイユのフォルスは理性を介することはないし、ピュイサンスに変化する事もない(非ニーチェ)。個体の非固体化を迫る純粋なフォルスである
小死、裂傷、部分的な死

非知の夜=内的体験は持続的でなく、非連続的で偶然のもので在るから、そこに目的、手段という時間はない

使い道のない否定作用=垂直を目ざすフォルス
その非個体化においてフォルスは他者に開かれる


普遍経済学
功利主義を逆転して、非生産的な消費を重要視していた点
地球規模に立って経済学を見直していた点

宇宙が常にエネルギーの増大させながら膨張していくという20世紀の発見をうけて、地表の表面にあっては、宇宙により生成されたエネルギーは生産に必要なエネルギーを常に上回り、ここに剰余エネルギーが生まれる


文学は、非力=マイナー=フォルスがメジャー=ピュイサンスに闘争を挑もうとするもの。しかし、フォルスの勝利は、瞬間の出来事であり、自らを悪と認め断罪されなければならない


ヘーゲル、コジェーブの人間観は動物的、人間的欲望によって分けられ、動物的欲望というのは、死を恐れ、自己保存に向かう欲望であり、人間的欲望は、その恐怖を理性と結びつけ昇華する事で自らを物に化し、労働と闘争を可能にする。


バタイユの人間感は、動物的欲望は主体を滅ぼそうとするものであり恐怖、人間的欲望は自然を規範化所有する事で欲望に服さないつまり、自己所有化あるいは否定性。しかし人間は所有に対抗する至高性=蕩尽の欲望を持つ

個体の死をもたらす動物的欲望は、道徳に禁止されるものであるが、この禁止への欲求が生まれた時に聖なるものへの感情も生起する


企図 project
人間がこの世で行動する時、必ず従っている期待としてのイデー。到達、所有しようと目指す実存。


パロディ
世界のあらゆる事象は生成と同時に自己同一性を欠いている=力たちの競い合いを内包している。客体的現実でもなければ、主観によって捉える事も不十分。そんな世界=神の死んだ世界。時間性に即していえば、現在においてそれとして定まる同一性は常に現在から外れる。永遠に回帰する存在


どんな事象も耐えず差異化する力たちの組みあい。度合、相対性。神聖は常に非神聖を斥けようとし、非神聖と対立しつつ一体化している。


言葉は欠如体としての世界を客体の不動の現実として錯覚、対象化=名付けを行う。法となる。言葉が出現させる現実は、それ自身のパロディとしての現前。それ自身は消滅し、痕跡だけが残る。だから現前性に近づこうとしてもたどり着けない。言葉は完了することのない


知の活動領域は、主体が私の対象として捕捉するもの、言葉の法則性に則った領域だから、非人称の何かを思考の対象とすえるときは、それを生きることそのものと自分を切り離して考える。


知と思考の限界
表象=再現前化の作用=私が生きている経験として完了するということがあり得ず、私へと結びつけられない仕方で限りなく反復される余白の次元。現在を中心とした時間性がなす閉域 

内的体験は私へと現前する出来事として生きることの不可能な余白の次元を含む


非知とは
絶えず自分自身へ異議提起となる、消しては書き直される無限の運動である知のこと


心の過程=欲望の過程=直接性

理性=ロゴス=間接性


主客は最初から存在するものではない。表象されるものは、表象界に再び再現することであり、対象が現実に存在する必要はない=現実からの切り離し、否定、対立の能力が生まれてから。


言葉の法に則り現実の否定によって生まれた意味は観念。語たちは不在の名。死、無、そのものが語るものへと生成する

人間は自然を事物化し、また自己も事物性を受け入れ、事物の要求することを受け入れるその世界を俗なるものの世界と呼ぶ。その生き方を外的な生、反対に性的欲動による内奥的な生

また人間は自然に内在する直接性=連続性を持っており、その内奥的な連続性は原始的に動物とも共有していたが、労働(事物を目的ー手段の連関に置く)により、それ固有の目的=究極のために存在することから逸らせ、疎遠な人間中心的目的のために還元した


ヘーゲル精神現象学

主体としての人間は、所与の本能に服して死を恐れることで、事象を自然の連続性、現実から切り離す事で、観念(不在の名とし、また目的ー手段の連関に置くことで自然の克服を可能にした

またバタイユは事物化による労働は、人間が事物の要請するものに従うことであり、その瞬間においては人間の究極性(固有の目的)=自律性はない。


エロティシズム

人間は所与の=直接性欲望である性や食を死と同様荒々しいものとして恐怖の情念を持った。そこで文化的な規制、タブーにより、欲望の流れに柵を作り、抑えようとした。しかしまたこれを乗り越えて犯すということに人間的な意味、あるいは欲望.
また性的事象は知覚や意識系に収まらない心の過程=自然との切り離しに大きく左右されており、主客の記別を曖昧にするが故に幻想に結びつく。

宗教的なもの、聖なるもの、性は、自然からの切り離しによる反作用、二重の否定である。それは変容した自然である。聖なるものの牽引力によって動物性は乗り越えられるのでなく、その恐ろしさをより増す。

供儀は動物の事物性の破壊=神聖への贈与=蕩尽

その至高の瞬間を人間は触れる事で、恐怖や興奮をシュミラクルに体験し、私の外へ出る。

動物性は、人間の所有物でもあるが、原始的には精霊、同類、かつ死や禁忌を恐れない侵犯的な存在。ラスコーの絵画で描かれているのは狩猟=精霊を汚したことの浄化として、動物を事物性から解き放ち、かつそれを人間が模倣する。また見方として、アンフォルム、無の次元による遊びとも捉えている

供儀 モース、ユベールに出発点を置くが、モースユベールを批判したフロイトに共通する。フロイトはモースユベール以前のスミスに是を置く。


スミス セム族の宗教 神の供儀
供儀と饗宴は不可避である。動物の供儀は人間に代替され、また動物に代替される

モースユベール 神への供儀
神、祭司、動物は、同心円状のものであり、次第にその円が圧縮されて、それぞれが神聖を帯びる


フロイト
神の供儀が原型、トーテム饗宴の理由は、人間を酷く悩ませたが、しかもそれを誇りとせざるを得ない犯罪=源父殺し


バタイユさらなる供儀の原型は自己毀損


バタイユのシュルレアリスム批判

シュルレアリスムは、現実の物事の秩序に条件づけられたあらゆる価値を超えた上方に、いくつかの価値を捏造する羽目に陥る=イデアリズムとなる。イデアリズムは観念にあらゆる支配権力を有効にしファシズムとかす。これは、ブルトン批判、ニーチェの超人批判にも通ずる。

また、シュルレアリスムは、この不健全なものへ向かう強迫観念に場所を与え続けている。

つまり、物質からイデアに超え出たものは、批判的な=自分のよって立つ場を明確にする距離を獲得するがその距離は、自分の存在の根拠からの離脱により生まれるものであり、そのために不安は避けられない、

すなわち観念性は強くなるほど、深いインフェリオリティコンプレックスとなる


インフェリオリティコンプは、イデア化と表裏をなしつつ、罪責感と自己処罰の感情として現れる。罪責感とは、自分の出自を離脱したことに起因し、それが高じると、そのような誤りを犯した自分を処罰しようとする衝動を無意識のうちに持つことになる。イデア化したものを自分の受けるべき罰の徴とみなすことになる。


上昇=イカロス=イデア化

天=イデア=俯瞰

大地=低次のもの=エス=物質


イデアに依拠するものは低次のものを罰するか呪詛として身に受けるかしかない。バタイユはそれを認知することで上昇するのではなく、大地に潜り続け、かつ己を醜態であるがままに、地上にあるブルジョワ文化とイデアリズムを崩壊させる空洞を作った。=バタイユは老練なもぐら


獲得とは両者を対立させる度量衡による自己同一性の強化と確率、すなわちイデア化=抽象化

排泄とは、獲得により同一化されなかったもの、すなわち異質性からくる結果、排泄はタブー。


サドの使用価値

「新ジュスティーヌ」
排泄物は、同質的な見かけをどうしても与えることのできない徹底して異質的なものである。それを取り入れる時、同質的な世界は均衡感覚を失い、女の嘔吐に表されるように、抑圧されてきた力を噴出させる。


異質学
このような異質的なものの撹乱作用は知性の作用にも生起する。知的プロセスは限界に達し、自ら固有の廃棄物を生み出し、異質的要素を解き放つ。そのよう流産、恥辱とみなされてきたもののプロセスを取り上げる事を実践するもの


ファシズム

異質学において、異質なものは、浄聖と不浄聖に分類される。浄聖は同質性の集団(意義を持たない)に求められるために、支配的な権力を有する(虚構であるが故に完全)。軍事によって支配された地域は、その支配力を維持するために宗教(浄聖の概念)を利用する=軍事と宗教

ファシズムはまず、この王権的権威を現代に復活させたものである。そしてファシズムはあらゆる階級の統合に加えて、殺人などの不浄聖すらも同質性を引き寄せ権力となることで、王権制と区分される


デュルケム

集合意識=全体的運動=有機的運動

個別的意識の一種特別な綜合であるが、これらは下にある実在に命令されることはない十分な生の独立性を享受するので、目的や効用もない顕現に没頭する自らを肯定する喜び。また、個人にとっては脱我をもたらすことがあり得る


笑い

生の均衡を脅かす何かを人が喜ぶという事態に関係している。笑いは構築されたものを非知に崩す反転の徴


横滑り

死の経験不可能性=衰退=瞞着

ものが権力を持ってしまう事、生産に結びつく事それらの転位を横滑りといった


主と僕の関係性

主 死を恐れず権力を持つこと

僕 死を拒否するもの、知性


腐った太陽

太陽は凝視する事が出来ないからこそ精神的(実態がないからこそ絶対的)

太陽を凝視することは狂気が前提にある。

太陽には二つの態度があり、一つは光り輝く啓蒙

一つは燃焼、溶かすもの、消費、腐った太陽


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