村上主義者

村上春樹の文学が日本にとどまらず、世界中で評価され続けているのは死者の存在をもってして現実のリアリティを描きだすからである。

そんな村上文学を崇拝する諸読者を村上主義者という。公認ではない。

ここでは村上主義者の思想を追体験してもらえるように村上文学の魅力を凝縮して説明する。


いま一度言う、村上が国内の人気にかかわらず、世界的文学者と称されるのは、「死者」という存在しないがゆえに消滅することのない(存在しうる)スタンダードを描くからである。

要するに村上は、私たちが共通して持っている何かをとらえるのではなく、
私たちが共通して欠けている何かを、つまり死者の存在を、存在するとは別の仕方で生の世界に充てがめている。

村上にとってこの世はドーナツの穴的存在であり、常に欠如態としての様相を呈している(穴がなければそれはドーナツではなく揚げた小麦粉であるが、ドーナツの本質は穴かと言われれば、穴は無であるために穴なのでそこにドーナツを還元するのは不可能である、よって欠如という相によって存在しうる)。現実をリアルに描くだけでは、現実の弾力性はでない。リアルとは常に変動していくものだからだ。それゆえに村上の小説には非現実的な生き物が出てくる。しかし、その多くは一つの存在としては意味を持たず、ただ関係性によってのみ、意味が生まれるものである。

村上の小説は構造によって語ることができる。
私がだれかなんて考えるのは無意味だ。そうではなくて、私という存在を超越した世界で私が何をしているか、その時々の流動的な現実によってのみ私という生は担保される、という構造主義の立場を村上は選択する。村上の描く人物たちは、表層的で、無意識的で、退廃的で、一回性なダンディズム、あるいはゴスの趣がある。

村上文学の構造をもう少し考えてみよう。
まず、村上の小説において常に父は不在である。というより父という記号が不在である。父に象徴されるのはこの世界の規則性、あるいは父権性だ。主人公は善悪の基準が存在しない世界で何か悪いことに巻き込まれる。それはとても悪いもので、例えば猫の心臓を生きたままえぐり取り、猫の手を万力で潰すような存在である。

私たちの世界には時々、猫の手を万力で潰すような、邪悪なものが入り込んできて、愛する人たちをさらっていくことがある。だから、愛する人たちがその根源的に邪悪なものに損なわれないように、境界線を見守る哨戒が存在しなければならない。それは子供たちが崖から落ちないように、ライ麦畑に立って見守ることに等しい。また、境界とは単に善悪だけのものではない。この世で最も邪悪なものは、この世で最も善なるものの反対である、という形でしか語られないように善寄りの悪、もといその境界は存在しない。

村上のしている構図は、最も邪悪なものの一部を描きだすことによって(それは主に人の無意識に対することだが)、それらを私たちの目に映し出す、ただそれだけである。邪悪なものを取り払おうなんて希望はない。善だけの限界的な世界は洗脳された宗教団体に違わない。善という言葉を世界に当てはめた時点でそこには利害関係が必ずねじ込まれる。村上はその危うさを知っている。

村上のかく主人公は世界ではなく、自分によって定立された善をなす。かつてカミュの説いた異邦人の論理である。


雪かきこそ善である。道に積もった雪は誰かが始末しなければ皆が困る。だけれどその責任は私のものではない。私がそれをする理由は私もいまいち理解していないのに、肉体が、魂が、良心がそれをしろと命令をくだす感覚。それこそが人間の善性であり、唯一の根源的な悪に対応する方法である。

仕事はきちんと真面目に、衣食住を大切に、言葉遣いは丁寧に。ということぐらいしか主人公の良さはない。しかし、それこそ最も人間的な在り方であり、邪悪なものに対するささやかな抵抗なのだ。


食事に関しての村上の描写は主人公の内面を表しているといってよい。
心がやさぐれているときはわずか二行程度の質素な経口摂取に終わることが多いが、トマトの零れるような丸みとみずみずしさを描いているときは気分が良い時である。大抵、愛する人との食事だが。そして、それらのほとんどがありものを使って料理していることにもメタファーがある。主婦的去ることながら、現実主義である。そしてそんな主人公が手料理を振る舞うことはまさしく最大級の友愛の身振りである。共食は遥か昔から共同体の形成に大きな影響を与えていた。

しかし、結局それら人間的な行為は悪への抵抗にしかならない。そこには嬉々とした感情ではなく、諦観。起こってしまったものはしようがない、という背反性に基づいた人間らしさがある。雪かきとは、だらかがやらなければいけないものだ。しかし、それをやるのはだれであっても変わりはない。だから感謝されることもない。それでもやる。悲劇。村上文学はそうしたものにとって、自己投影できるささやかな救いである。

村上の文章は読者とのシンクロ性が高い。クラシックをレコードで聴き、ウイスキーをトゥワイスアップで飲む、ドアーズや、ビーチボーイズを聴き、ホンダのミニボックスに乗る。そうしたリアルをフィクションに落とし込むテキストはこれ自分じゃん、という感情(シンクロニシティ)を天才的に引き出す。

そしてそれ以上に、村上はシンクロニシティを読者と同時間的に作り出すことができる。ロックバンド名の羅列はスクリーニングの役割を果たす。しかし重要なのは、同じ音楽を聴いていたことに共感するのではなく、同じ音楽を聴いてみたいという感情からなる嘘を共有することに読者は共感することである。知っていることが当然のように語られるロックバンドたちは実際に物語には関係はない。だから私たちはそれを読み飛ばすわけだが、その読み飛ばす行為は、会話における相槌と同じ意味を持つ。会話の際に、いちいち私の知識の合否を確認していたら話が進まない。とりあえず知らない単語を耳にしても、「うん」とか「あぁ」とか言って、後から文脈で意味判断する。つまり嘘をつくのだ。嘘をついてまで相手に合わせるのは信頼関係がなければできない。

言うなれば村上は読者と会話している。それもごく自然な、ありふれた嘘というコミュニケーションで。

村上の文学はストーリーだけでなく、ナラティブ(語られ方にも注意を向けなければならない。

村上主義者に課せられた命題である。


村上春樹作品のすゝめ
『風の歌をきけ』
『羊をめぐる冒険』
『ダンス・ダンス・ダンス』
『アンダーグラウンド』
『中国行きのスロウボート』

村上春樹関連作品
レイモンド・カーヴァ―『大聖堂』
スコットフィッツジェラルド『グレートギャツビー』
J・Dサリンジャー『キャッチャーインザライ』
カミュ『異邦人』
エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』



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