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小説『モモタマナと泣き男』 第3話

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 門からひょこっとあらわれたのは、よく知っている顔だった。
「え? 真那? 真那なの?」
 母は目をみひらくと、え、ええっ? と何度も大きな声をあげた。うすい黄緑色のエプロン。頭にそろいの三角巾をつけたその顔は、しばらく驚いたあと、花のようにほころんだ。

「お母さん、ただいま」
 なるべく、何の感情も込めずに言う。ほんとうは泣きつきたかったし、笑いたかった。でもそれ以上に、母の前では淡々とした冷静な自分でありたかった。

「おかえり真那。ああ、元気そうでよかった。仕事忙しいのにありがとね」  
 口元をすぼめる母に、真那は小さく首をふる。仕事を辞めたことはまだ伝えていなかった。

「帰ってきて、なんて言ったら、真那を困らせるって分かってたんだけど、ごめんね。でも、顔見ると安心する。それにしても何年ぶりだろうね」
 矢継ぎ早にそう言って笑う。母は笑うと、頬の部分がふくっと上がる。ときを経ても、変わらない母の笑い方に安堵する。

「それで、何日ぐらいいられるの?」
 母の問いに、真那は「え?」と訊きかえす。母は、きょとんとした顔で、真那を見かえした。近くで聞いていた男は、くすっと小さく笑ったあと、まるで自分家のように民宿へと入っていった。
 
 

  
           5.

 
 ちょっとした帰省。よくよく考えてみれば、電話ごしの真那の「帰るね」を、母がそうとらえても不思議ではなかった。この町にはもう何年も帰っていなかったのだ。

「いいのよ、いくらでもいてくれたら。なにせ民宿だから。それに、まことくんもいっしょだなんて最高だわ」
 結婚したこと、まことのことを話すと、母はすぐさま喜んでくれた。こういう時の母の柔軟さは、ほんとうにありがたい。

「それで会社を辞めちゃったってこと?」
「うん、まあ」
 詳しい説明をしようか迷ったが、泣き言をかさねてしまいそうなので、やめておいた。

 新卒で広告代理店に就職した真那は、期待に応えたい、その一心でがむしゃらに働いてきた。仕事が楽しいとか、やりがいがあるとか、そういう前向きな動機があれば、まだよかったのだと思う。明日は失敗できないとか、まわりに迷惑はかけられないとか、そんな気持ちでいつも何かに追いたてられていたような気がする。いろんな病気をくりかえしたのち、いつのまにか、夜もうまく眠れなくなった。

 じゃあさ、と母が少し言いにくそうに切りだす。
「民宿のお手伝い、してもらえたりする? お父さんがやる気になってはじめたんだけど……ねえ」
 父は今、デイサービスに行っているらしく、奥の部屋はしんとしていた。

「真那に連絡した時は、お母さんちょっと弱気になっててね。お父さん、最近フェーズが変わってきたのか、すごくおだやかになってきたの。ある意味、無気力というか。それはそれで心配にもなるけど。あ、でもデイサービスはご機嫌で行ってるのよ。あたらしい担当の遠山さんが、すごくいい方でね。まあでも週末はだいたい家でぼんやりと、本を読んで過ごしているかな」

 自分の身の回りのことはできるのだが、突然、驚くことをやったりすることがあるので、普段からなんとなく目が離せないのだという。

「真那がいっしょにやってくれたら、ほんと助かる。まあ、いうほど繁昌してるわけでもないだけどね。でもそれなりに、ほそぼそ続いているのよ。客室は三部屋あって、最大六人は宿泊できる。朝晩の食事付きで、いろんな人が来てくれるの。夏休みはけっこう満室に近くてね。若い人の一人旅とか、常連さんとか。そうそう、民俗学の先生がね、最近よくいらっしゃるのよ。保井先生、お母さんの作ったニラたまが好きでね」

 睡眠不足のせいか、それとも、まだこの町で暮らしていく実感がわかないからか、ぼうっとした頭に母の声が流されていく。

「でもあんた、けっこう融通きかなさそうだよな」

 いつの間にか、ロビーのソファに座っていた男が口をはさんだ。ふっと真那の耳が立つ。この男はどうしていちいち、当たってくるのだろうか。真那が言いかえす言葉をさがしていると、母が先に口をひらいた。

「でもね、真那にはいいところがたくさんあるのよ。ミカンを剥くのもうまいし、むかし飼っていた牛にも、とくべつに好かれていたんだから。いっつも真那だけ手をべろべろ舐められてね。そうそう、牛乳の早飲み大会でも優勝したことがあったわよ」

 脈絡のない母の記憶は、自分でも忘れていたものばかりだった。もういいよ、と制する前に、男が声を立てて笑った。

「お母さん、このひとだれなの?」
 不躾な訊き方だとは思ったが、この男のほうがよっぽど失礼だろう。

「え? サワオくん? サワオくんは、大切な客人なの。何者かと言われたら、そうね、『泣き男』でいいのかな?」
 泣き男? 聞きなじみのない言葉だった。
 ひとしきり笑った男は、めんどうそうに頷いたあと、突然眠くなったのか、ソファの背にもたれて目をつむった。いつでもどこでも眠れるタイプなのだろうか。だからといって、このタイミングで寝るのか。
 あっけにとられながらも、なだらかな稜線を描く男の横顔を見て、やっぱり美しい……などとつい思ってしまって、真那はいそいで撤回をした。          
 
 そこへまことが、肩で息をしながら、駆けこんできた。つかまえた、と言って、閉じていた手のひらをゆっくりとひらく。その小さな手のなかにいたのは、バッタだった。鮮やかな黄緑色の、赤ちゃんバッタ。もう春だと勘ちがいをして出てきてしまったのだろうか。
 バッタは横たえたまま動かない。あれ? と、まことは首をかしげて手のひらをゆすったが、やっぱり動かない。さらに激しくゆらしても、バッタは動くことはなかった。真那と母が残念そうな顔をすると、まことは肩をすぼめて、外へとぼとぼと出ていった。


           〇
 

 時計に目をやった母が、ハッとした顔で立ち上がる。
「そうそう、今日はこれから予定が一件はいってるの」
 予定? 民宿以外の予定が、民宿にあるのだろうか。
「予定って?」
 母はあわてて台所に立つと手を洗い、冷蔵庫からニンジンを取りだした。「『弔いの式』でね」
「弔い? お葬式ってこと?」
「そう。今日の『弔いの式』は、先日、八十八歳で亡くなられた田上初枝さん。若い頃、旦那さんを亡くされて、それからずっとひとりで過ごされてきたのよ。田上さんち、前の家の近くだったでしょ。ほら通学路の、大きなクヌギの木のあった」
 通学路、クヌギの木――。奥底に押しつぶしていた記憶をなんとか引っぱりだそうとする。にゅるっと出てきたのは、清々しさとは正反対の思い出だった。

 あの家。真那が小学生のころ、入ったことのある庭。
 そこには大きなクヌギの木があった。朝方には、カブトムシやクワガタがその木の根元にたくさん集まるのだと、学校でうわさになっていた。

 ラジオ体操を終えた夏の日の早朝、弟や友だちといっしょにその敷地に入りこんだ。木はうわさ以上だった。蜜を吸いに来た昆虫がうじゃうじゃと、その木のうろや幹に集まっていた。珍しいクワガタもいた。

 みんな夢中になって、自分のカゴに虫を入れた。その時だった。
 奥のほうから、長い竹ぼうきを持った団子頭のおばあさんが走ってきた。「こっらあ、勝手に入るなーっ」
 あまりの迫力に、真那は腰が抜けそうになった。立ち上がって必死で逃げた。逃げながら、怖くて、足がもつれて一回こけた。地面を這いつくばってひざを立て、また加速して逃げた。心臓の音が耳元でばくばく鳴っていたのを覚えている。

 敷地を出ると、おばあさんはもう追いかけてこなかった。父にバレるのではないかと、しばらくヒヤヒヤしていたが、そのあと学校や家に連絡が入ることはなかった。

 ただ、これがきっかけとなって、子どもたちの間では「竹ぼうきばばあ」とあだ名がついた。今思えば、田上さんはまだあの時、五十代後半ぐらいだったと思う。ばばあ、と呼ぶにはあまりにも若い。

 初枝さん、というお名前だったのか。
「田上さん、意見をずばずば言うから、町で対立するひともいたけどね。でも、とても情の深いひとだったのよ。私と話す時も、いつもお父さんのことを気にかけてくれてね。曲がった背中でせっせと野菜をそだてて、ここに持ってきてくれたりもしてたの。売り場にも出していらしてね、初枝さんの育てた野菜が食べたいっていう人も多かったのよ。それが先月、庭の段差でこけて、大腿骨を骨折してね。入院されていたんだけど、先日亡くなられたの」
 
 調理する手を止めて、母がさびしそうに目をほそめる。

「ご家族がいなくてね。亡くなられてから、自治体が親族を捜したようだけど、遠いところに親戚がひとりだけ。その方も田上さんとは会ったことがないからって、引き取りは拒否されたの。その場合、自治体が火葬と納骨まですることになるんだけど、お葬式まではなかなかむずかしくてね」

 身寄りのないひとが亡くなった時のことを、真那は何も知らなかった。竹ぼうきを手にした、威勢のよい田上さんの姿が、ふっと目の裏に浮かんでくる。

「それがね、サワオくんがこの町に来てから、役場のひととか、お寺の住職さんに声をかけてくれて、『弔いの式』がはじまったの。その場所として、この広間を使ってもらっているのよ。ここも小さな町だけど、身寄りなくひとりで亡くなっていく方、けっこういらっしゃるから」
 
 ソファで寝ていたサワオが、目を覚ましたようだった。ほんとうに眠りこんでいたらしい。背中を起こすと、まことがテーブルに置いていったバッタが目にとまったらしく、それをそっと手のひらに乗せた。
 真那の視線に気がついてもいいはずなのに、サワオはウェーブした髪をふわふわと揺らしながら、ただ静かにその小さなバッタを眺めていた。
 


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