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小説『モモタマナと泣き男』 第2話

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 真那は、じっと目をこらす。
 車道をはさんだ階段に、藍色の服をきた背のたかい男が立っていた。海のほうを見たまま、ぴくりとも動かない。肩まである長い髪だけが、ふわふわと海風にのって揺れている。

 こんなところで何をしているのだろうか。釣りではなさそうだし、真冬に海水浴でもないだろう。というか、あんなに薄着で寒くないのか。

 変な人だとは思ったが、ここらの住民かもしれない。もしかしたら、道を聞けるかもしれない。真那は気づけば、淡い期待を胸にゆるゆると車を走らせていた。男のほうに近づくと、停車し窓を開け、再度男の顔を見た。 

 その瞬間、真那は息をのんだ。
 
 男の頬を、ぽろぽろと何かがながれ落ちている。
 涙? いや、真珠の粒のような光沢。きらきらと透きとおった粒が、肌理のこまかな肌をつたって、こぼれ落ちていく。

 泣いている? 
 いや、真那の知っている「泣く」とはちがう。こんな泣き顔は見たことがなかった。痛い? 悲しい? さびしい? 怒り? そのどれでもないような。すべてを包みこむような目をしていた。吸いこまれそうだと思った。いや、もう吸い込まれていたのかもしれない。

「ここで待ってて」
 まことに伝えると、車から飛びだした。
「どうかしました? 大丈夫ですか?」
 海を見たまま、反応のない男の顔をのぞきこむ。ウェーブのかかった長い髪。広い肩幅に、長い手足。ゆうに百八十センチはあるだろう。切れ長の目と、すうっと通った鼻筋。みずみずしい肌には、シミやしわはひとつもなかった。うすい茶色をした瞳は、神々しいほどに澄んでいる。泣き顔とあいまったその美しさに、真那は呼吸を忘れてしまいそうだった。

「……せえよ」
 ざーん、と、波の音がひびく。何か言っただろうか。

「だから、おせえよ、あんた!」
 今度ははっきりと聞こえた。
 あんた。おせえ。これは自分への言葉なのか。真那は数回、目をしばたくと、もう一度男をじっと見た。

 目の前の男は、ったくよー、とぶつぶつつぶやきながら、サンダルの砂をはらっている。さっきまでの静謐な空気は、どこに消えてしまったのか。ざざーん、という波音だけが、規則正しくひびいている。

 真那が呆然としていると、ふっと腰のあたりを引っぱられた気がして振りむいた。まことが真那のワンピースをつかんでいた。

「だあれ? このひと」
 つぶらな瞳で、真那と男の顔を交互に見くらべている。まことの目で現実に戻ったかのように、あの、と男に声をかける。
「いま、泣いてましたよね?」
 は? という声は出ていないけれど、いかにもそう聞こえてきそうな目つきで、男が真那のほうを見た。真那はやや怯みながらも、もう一度訊ねる。

「あなた、さっき、涙をながしてましたよね?」
「それがなに?」
 な、なにって……。
「いやいや、泣いているってことは、何かあったんじゃないんですか? 困ってるとか、悲しいとか、どこか痛いとか」
 あんなに泣いていたのだ。何か理由があるに決まっている。もしかしたら強がっているだけで、じつはとても大変な状況なのかもしれない。そうだ、そうに違いない。

 挑戦的に、ぎろりと見やった男の目は、まるで深海のようだった。異常なほど静かで、不可解だ。
「あんたさ、理由がないと泣いちゃいけないと思ってるわけ?」
「……い、いけないとか、そういうことじゃ」 
 どうしてこちらが責められなければならないのか。そもそも、初対面の人に、こんな言葉づかいは失礼だろう。こみ上げる苛立ちを真那は必死で飲みこんだ。

「いいよ、教えてやるよ。おれは、大きなもの見たら泣けてくるの。ただ、それだけ」
 何を言っているのか分からない。真那の怪訝そうな顔など気にすることなく、男は話しつづけた。

「波って、でかいだろ。あれ、よく見てたら面白いんだよ。いっせいには起きない。徐々にぽつぽつ起きるんだよ。それから周囲が反応して、立てる気はなかったのにつられてしまったり、タイミングが合わなくて先に崩れたり。長い波もあれば、短い波もある。消えたり、生まれたり、そのくり返し。人間とか生き物とかとおんなじで、そういうの、見てるだけで泣けてくる」

 返答にこまった真那は、横に立っていたまことを見た。まことは、男の手のひらじっと見つめていた。手にはカニだろうか、男の手のひらよりもひとまわり小さなカニ。その甲羅は、はげしく割れているように見えた。

 あまり関わらないほうがよさそうだ。真那はそう直感した。泣いてはいたけどひとまず元気そうだし、ひどく偉そうだし、大丈夫だろう。真那はぺこりと頭を下げると、まことに声をかけ、車のほうへ戻ろうとした。
 その時だった。

「桃田真那」

 真那の足がぴたりと止まる。
「あんた、おそいよ」
 どうして、わたしの名前――。しかも旧姓を。
 あわてて振り向き、男の顔を見る。同級生? ご近所さん? それとも?  どれだけまじまじと見つめても、心当たりはなかった。

「やっと来た。ここで先に、あんたを待ってたんだ」
 昨晩フェリーで眠れなかったせいだろうか。ぼうっとして、夢か現実か判断がつかない。

「なんでここに来るのがわかったのか、とか、どうせそんなこと考えてんだろ?」
 いや、考えていない。疑問がありすぎて頭が追いつかない。男は唖然とした真那にかまうことなく、決め台詞のように言った。

「そろそろだという直感。それだけだ」
 やはり映画か何かを見ているのかもしれない。
「おい、ぼうっと突っ立ってないで、はやく家行けよ」
「家? 私の家? どうして知ってるの?」
「説明はあとで。今日は忙しい」

 男はそう言うと、ついて来いみたいに手を振りまわして、歩きはじめた。何もかも理解不能だったが、男は足がはやかった。今はとにかく、ついて行かなければ。まことと急いで車に乗りこみ、あとを追う。

 男は、通りを少し行った先の角を曲がった。その背中を追いかける。曲がった先には、丘を切りとったような急な細い坂道があらわれた。その砂利の坂道をのぼりきると、台地が見えてくる。ようやく足を止めた男が「ここに停めろ」と合図をして、小さな看板を指さした。

『民宿 モモタマナ』

 青い下地に緑色の葉が描かれた看板は、ところどころささくれ立って、海風のせいか文字が黒くにじんでいる。
 
 民宿? モモタマナって……。
 古民家のような母屋がひとつ。奥には、小さな小屋が三棟あった。中央のベランダの先には庭があり、赤く紅葉した木が立っていた。燃えるような色をして、丘から海を見おろしている。

 こんな真冬に紅葉?  
 真那はいよいよ、ここがどこなのか分からなくなった。



           4.

 夫の紘平は、真那が作ったものを何でも食べた。
 つぶれた目玉焼きでも、甘すぎる野菜炒めでも、なにひとつ文句も感想も言わず、機械みたいに黙々と口にはこんだ。
 おいしいねと言ってほしかったのか、それとも、失敗したねと笑ってほしかったのか、自分でもよく分からない。ただ、その沈黙の時間が、真那にとって何よりも苦痛だった。

「やりたいようにやればいいよ」
 紘平は口ぐせのように、いつもそう言った。

「まことを連れて実家に帰りたい」
 今回、伝えたときもそうだった。
「真那のしたいようにすればいい」
 それだけ言うと、仕事があるからと、すぐに家を出ていった。真那の実家がどんなところか、どれくらいの期間行くのか、紘平は何ひとつ訊いてはこなかった。
 
 寛大さと無関心は紙一重なのだと、本人は気づいているのだろうか。残さず食べる紘平の皿はいつもあまりにもキレイで、不満を言う余地さえ残されていないような気がして、真那は余計にむなしくなった。

 紘平と知り合ったのはマッチングアプリを介してだったし、紘平にとっては、それぐらい気軽な結婚だったのかもしれない。だから、今なお、つながっている女性がいるのも、自然なことなのかもしれない。
 
 携帯を盗み見たことはなかったが、スーツに付いた甘い匂いや、帰りが遅い日のカード明細。あやしげな情報は、パズルみたいに真那の想像とぴたりとはまって確実性を増していく。
 
 それでも直接訊いたことはなかった。取り乱す紘平も、取り乱さない紘平も、どちらも見たくなかったし、まことにそんな両親を見せたくなかった。何より、言葉に出して決定的になる事実に、自分が傷つきたくなかったのだと思う。紘平のことが好きだったし、今も好きなのかもしれない。だから、どんな気持ちにも、真那はとくべつ頑丈なフタをした。
 

        
           〇

「おーい、ななめっとるぞ。へたくそー!」
 駐車する真那に、波みたいな髪の男が両手をふって叫んでいる。レンタカーで初めての駐車なのだから、多少下手なのも仕方ないだろう。

「これくらい、いいでしょう? そのあたりも空き地ですよね」
 真那が窓から叫びかえす。
「いやいや、困るの。今から、車がたくさん来るんだからさ」
 こぢんまりとした民宿だった。
 車がたくさん、だなんてありえないだろうと首をかしげながらも、郷に入りては従うべきなのだろうかと、言われたとおりに停めなおした。

 エンジンを切り、外に出る。晩冬の晴天。太陽がのぼってきたせいか、朝よりもぐんと暖かい。これまで住んでいた街とも、だいぶん気温がちがっている。

 車から降りたまことは、しばらくもじもじとしていたが、「好きなところ見てきていいよ」と真那が言うと、枯れ草の生えた空き地のほうへと走っていった。まことは虫が好きなのだ。

 真那はトランクからスーツケースをおろすと、ふたたび看板を見あげる。

「モモタマナって……」
 ふとつぶやくと、となりから声がした。
「あの紅葉した木、あれがモモタマナだよ。知らないの?」
 男が庭のほうを指さして言う。真那が曖昧にうなずくと、
「うむまあ木とかコバテイシとか、いろんな呼び方があるらしいけどな」
 と、男は得意げに説明をくわえた。

「大きな傘みたいだろ。冬から春に紅葉するんだ」
 横に広がった木は、たしかに赤い傘みたいに立っている。真那がこの町にいたときも、どこかに生えていたのだろうか。目にしたことくらいはあったかもしれない。それでも記憶にはなかった。当時は自分の近くばかり見ていて、遠くのものは何ひとつ見えていなかった。

 つやつやとした幅の広い葉が、冬の澄んだ空気のなかでいっそう赤く照りかがやいている。

「涙で育つ木」
「え?」
「そういう詩、知らない?」
 真那が首をふると、まあ、いいやと言った。
「ほら、横に広がってるから、日傘みたいにいい木陰をつくってくれる。だから、墓地なんかにもよく植わってるんだよ」
 この男、どうしてこんなに詳しいのだろう。

「あなた、この町のひとですか?」
 思わず口を出た真那の問いに、男は心底つまらなさそうな顔をした。
「それ必要? そうだったら何? そうじゃなかった何?」
 信じられないほどきつい返しが飛んできて、お互い、眉間にしわを寄せたまま、気まずい沈黙がつづいた。

 と、その時、ガラガラガラッと古い引き戸の音がした。


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