美しさに対する憧憬とそれを嘲笑う心象風景

都会に蔓延する人工の光が何かの犠牲の上に成り立っているのなら
それは人間の感情なのかもしれない
田舎に光が足りないのはそれははっきりと希望だと言えるのだけれど
都会には欺瞞の希望しか残っていない
だからコンピュータの中で人々は希望とか感情とかを吐き出すようになった
本当の希望に吐き気を催してしまう薄暗い殺意にウンザリするけれど
それをやめてしまえば自死を選択するのと同様でせめて
人それぞれの希望を見出す邪魔だけはしないでおこうと思う



人が集まって外でずっと話してるのが好きじゃない。特に大人がそれをやってるとうんざりするさっさと帰れよって思ってしまう。そしてなぜ彼らはその横を通り過ぎるとこぞってこっちを見てくるのだろうそして笑うのだろうか。
自分もそんな風に人を見ている時があるのだろうか。それを考えると悪寒がする。
小中高大学社会人と人はあまり変わらないのかもしれないと示唆しているようで嫌なのかもしれない。

目が悪いのだが、最近裸眼で街を歩くことが多々ある。それは他人の顔をはっきりと見なくていいから。見たくもないものばかりが溢れているし、他人の顔や前からやってくる人間を視界に入れたくないのだ。
無意識に人は人を見る。都会は他人への興味を押し殺して生きているのかもしれない。
何だか逆に田舎に行くと人は人を見ない。旅行に行くとそう思う時がある。
人という者への感情は疑惑ばかりに最近なっている。自分という存在が低い位置にあることを自覚しているとそうなっていくのだろう。人に話しかけるのも億劫で感情が日々薄れていくようでしかし裏の部分ばかりが増幅しているような。どっちにせよこのまま進んで行ってもいいことはないなあとは思う。思い変えられず纏う空気だけが重く沈んでいく。


それから人っていうのはどこまでいっても異性と話したがる。男性だから男性目線になるが、なぜにああまでして女性と話したがるのか、そして笑わせようとするのか。相手方が気を遣って愛想笑いしていることに気づかないのだろうか。
つまらない人間はつまらないのだから笑わせようとしたところで相手を無駄に疲れさえることになるのだからやめればいいのに。
笑うってそれは相手をリラックスさせたり楽しませたりそのために存在しているのに、気を使わせているのだから。
結局他人のためにではなく自分のためにやっているんだよ。独りよがりの笑いほど迷惑なものはないと思う。


脳の暗がりから吐き出す陰湿な吐露は本当に気持ち悪いと思う。
吐き気を催すほどの暑さは自分を陰鬱にさせていく。思い出したくないものばかりが溢れてくる。

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