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きょうのうた[地下鉄モグラロード/TOMOO]

合わない靴を履くものではないな。陽子は後悔した。
駅の階段に引っかかって脱げてしまったヒールが、大きな口を開けて今にも叫び出しそうだ。
少しの間、倒れた黒いヒールを眺めていると、向こうからさっき振り切ったはずの会社の連中が、彼女を責め立てる音を立てながら追いかけてくるではないか。

彼らは会社では白衣を着ていたけれど、誰かの指示で普段もなぜか真っ白な服を着させられていた。陽子は何も言われていなかったから、いつも黒い服を着ていた。「白い服って汚れやすいし、洗うのめんどくさくないのかな。」陽子はゴミ箱に詰め込まれた書類をシュレッダーにぶち込んだ。

陽子はヘアゴムが鞄に入っていたことを思い出し、落ちていたヒールを咄嗟に掴み上げ、足とヒールをヘアゴムを使って固定した。

つま先で残っていた階段を飛ばし飛ばし登りきったあと、右へ曲がって真っ直ぐ駆けていくと現れた曲がりくねった階段を下って、横に広がった誰もいない地下通路を突き進んだ。

陽子はどこへ向かえばいいのか分からなくなっていた。自宅に帰ったとしても、会社の手下が家の周りを取り囲んで待ち伏せしているかもしれない。

壁に埋め込まれた色とりどりのレリーフを横目にして、息も絶え絶えになって床に敷き詰められた薄緑色のタイルの境目も歪み始めていたとき、陽子は、この空間にふさわしくない、こじんまりとした扉を見つけた。

その扉は全体が紺色で丸みがあって、木の根が周りに絡みつき、銀色の取っ手がぽつんとついていた。

陽子はなんとなくその取っ手に手をかけて回すと、扉には鍵がかかっていなかった。束の間でいいから隠れさせてもらおうと、静かに扉を閉めれば暖かいオレンジ色の灯りが点いた。
「あら、めずらしい。どちらさまですか。」
陽子が声がしたと思われる足元の方に目をやると、茶色い毛の塊がぽてっと落ちていた。
「大きい……虫……?」陽子はなんとか驚きを飲み込んで目を凝らしてみると、茶色の塊の先に、ピンク色の点がひとつ、隣に白くて長い、縄文時代の装飾品のような飾りがふたつついていた。声はこの茶色い塊から聞こえていた。
「モグラか……」陽子は名乗ることを忘れた。

「あら失礼ね、わたしにはあずきっていう名前があるんです」モグラのあずきは陽子にピンク色の鼻を向けた。「前にこの扉を開けてくれた子が名前をつけてくれたの。わたしは綺麗好きなモグラなの。畑を食い散らかしてる他のモグラと一緒にしないで。」

陽子は力を使い果たしたのか、その場に体育座りをして座り込み、両腕に顔をうずめた。

「会社の人が…憂さ晴らしできないような奴……謝らない…手を差し伸べたのに何も思わない…上の恋を踏み躙るような奴……混ぜたの気づいたか………名前が気に入らない…祝えないような奴……頭が悪いからかな……費用が払えない奴…死なないしな……頭が早い……消えない…早技を言わない……」陽子は説明する気力もなくなっていた。モグラにすべて伝えられたところでわかってもらえそうもない。

あずきは、陽子が会社で嫌な目に遭ったのだろうなという察しはついた。陽子の足に手を置いた。
「会社に陽子の味方になってくれそうな人はいなかったの。」

「誰もいない。もともとみんな私を信用する気なんてないよ。いくらでも私の代わりはいるからどうでもいいの。労基署に電話したけど、信じてくれたかどうか。今はスマホも盗聴されていて電話もできない……。上が証拠を捨ててしまったの。そういう会社だったってこと。私が勘づいたことに気づいて……そうしたら会社の人が……」陽子はモグラに聞こえるかわからない声でつぶやいた。

「私がもっと頭が良かったら、みんなに仕返ししてやることだってできたのに…。私が声高に何かを言ったところで、気狂い扱いされるだけ……」陽子は洋服の袖を握りしめた。安物のジャケットだから、縫い目がちぎれそうだ。

「名前が気に入らないって酷いわね」あずきはどこから話を聞けばいいかわからなかったが振り絞った。「陽子の陽は太陽の陽でしょ。日の当たるとこに出なきゃだめよ。わたしはモグラだからここが居場所だけど、陽子は日の当たるところが居場所よ。」あずきはそう言うと、両手を掻き分け、後ろを振り返り、地面に空いていた穴の中へ消えてしまった。

「太陽の陽だから気に入らなかったのかな……」陽子は彼らの考えを勘繰るのも馬鹿馬鹿しくなっていた。

しばらくすると、がさがさと音を立てて、あずきが髪飾りのような手で、陽子の靴を叩いた。陽子が顔を上げると小さな丸い木の机に、オーバルの皿とマグカップが置いてあった。オーバルの皿の上には、シナモンシュガーとチョコレートがかかったチュロスがのっていた。マグカップにはココアがそそがれていた。

「これでも食べて落ち着きなさい。会社の人たちには扉が見えないから、入ってこれないわ。」

「ありがとう…」陽子はオレンジの灯りに照らされて艶々になったチュロスを、指でつまんで、一口かじった。焼きたての、甘くてさくさくして、ふわふわしたチュロスだった。甘さが、陽子の逃れられない怒りや、どうすることもできなかった哀しみと一緒に、口の中で溶けていくようだった。会社の人たちのうるさくて意味のわからない独り言も、頭の中から消えていった。

「陽子は会社の人に仕返しをしたいって言ったけど、本当に仕返したいの。」あずきは光をとらえているのかわからないつぶらな瞳を、陽子のほうに向けて、ピンクの鼻をひくひくさせた。

「本当は…」陽子は両手で、つるりとした陶器のマグカップを包んだ。

「本当は、あの人たちみたいになりたくない。頭が良かったとしても、私は彼らと同じようなことはしたくない。」陽子は暖かいものを飲んでいたはずなのに、体の余分な熱が引いていく気がした。彼らはどうしたらあのようなことが悪びれもせずできるのか、陽子には理解し難かった。

扉の反対側は、暖かいオレンジに灯されているけれど奥の方は暗闇だ。モグラは暗闇にいることがあたり前で、人は暗闇にいることに慣れていない。モグラは暗闇に向かって進み、人は光のあるところに進もうとするのが自然だ。

陽子はマグカップを机に置いた。
「私にとっての暗闇はあの会社。だから、光のある方に逃げたかったんだ。」

「私もう行かないと。ありがとう、あずきさん。ごちそうさま。」陽子は痺れた足をふるいたたせて立ち上がり、あずきを見つめた。

「わたしも、久しぶりに人に会えて楽しかったわ。」あずきは細長い口を少し開けてほほ笑み、手を振った。

陽子も「あずきっていう名前も素敵だよ」と手を振った。

久しぶりに地上へ出ると、ビルの隙間をぬって、ひんやりと透き通った光が、ゆっくり揺らめいているように見えた。

ビルに映し出されていた映像が目に入った。近くで爆発の事故があったらしい。陽子の立っている場所からも、救急車と消防車のサイレンが鳴り止まなかった。映像は画面いっぱいに煙が立ち込めていた。

「あれ……うちの会社じゃん……」陽子は呆気にとられた。

俯いて呆れるとともに、彼らの悪意と思惑に抵抗していた網目の糸が切れて、陽子の体にのしかかった。
「誰かが証拠を隠そうとしたのかな。よくやるよな……」

「帰ろう……」陽子は自宅に向かって歩き始めた。

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