見出し画像

それでも僕たちは「濃厚接触」を続ける!【73】

「やさしさ」の塩梅…

   何においても塩梅って大切だし難しいですよね…
   でも「やさしさ」の塩梅ほど難しいものはないと感じます。

   全盲の著者は言います。

僕はガイドヘルパー(外出支援者)制度の拡充を喜ぶ一方で、視覚障害者たちを「歩かせない」優しい社会に、ある種の危機感を抱いている。

   これは、障害者に対してだけの話ではなく、高齢者に対しても同じことが言えるというのは、森田先生の著書を読んで強く感じました。安全を取りすぎて(手を出しすぎて)かえって当事者の能力を下げてしまうことは、はたして「やさしさ」なのか?
  

触常者(=見えない人)、見常者(=見える人)

 こう言いきれる著者を素直に「かっこいい」と思いました。この考え方は「ろう文化宣言」に通じるところがあり、少数者である自分が「多数者の中の一人」ではなく、どんな「個人」を持っているのかを明確に宣言できる。 その覚悟に感動しました。
 

ユニバーサルについて

   厳しい言葉ですが、私の中のモヤモヤが晴れました。

   「障害」(disability)とは近代的な理念である。経済効率・労働可能性を尺度とすると、社会の多数派が当たり前に「できる」ことでも、それが「できない」人々がいる。近代社会では、「できない」人が十把一絡げで「障害者」と総称される。前近代にも目の見えない人、耳の聞こえない人、二本足で歩けない人は生きていた。だが、彼らが「障害者」と呼ばれることはなかった。
 現代社会のカテゴリーでは、目の見えない人でも耳の聞こえない人も、同じ「障害者」に属する。彼らに共通するのは何らかの社会的不利益を被っていることのみで、他に接点はない。視覚障害者の日常生活では、聴覚情報(音と声)が大事である。一方、聴覚障害者は手話に代表されるように、視覚による情報処理を得意とする「究極の見常者」ということができる。
(中略)
 さまざまな障害者のアクセシビリティ(利用しやすさ)を充実させるのが「ユニバーサル」なのだろうか。もちろん、アクセシビリティの向上を求める志向を否定するつもりはない。しかし、やや厳しく評価するならば、アクセシビリティとは健常者中心の「基準」に合わせることである。

琵琶法師と瞽女ごぜ

 琵琶法師といえば、『耳なし芳一』『平家物語』…でも、ここまで。実際どんな活動をする人たちなのかは知りませんでした。その歴史は古く、中世・室町時代の文献にも存在するそうです。貴族の日記を見ると、琵琶法師が現代人の感覚では信じられないスピードと頻度で、長距離を旅していることが分かるらしい…。そして、各地に「ここで座頭(盲人)が誤って転落死した」という悲話が残されているそうです。
   なぜそこまでして?と、訊ねると「待っておられる檀家、歓迎してくれる人がいるから、旅を続けているのです」と。著者は、盲学校時代、歴史の先生から「日本史の教科書には、障害者がほとんど登場しない。しかし、江戸時代以前にも障害者は生きていたはずである。そういった『埋もれた歴史』を掘り起こしていくのは、おまえたちの役割ではないか」と言われたそうです。是非とも掘り起こして欲しいと思います。

無視できないマスクの影響

   著者は、大阪万博記念公園の中にある国立民族学博物館に勤務されています。マスクをするようになってから、長年歩き慣れた公園内で道に迷うことがあるそうです。
   顔の下半分もセンサーになっているんですね!人間の感覚の繊細さを
知りました。

 こんな不便な思いをしながらも、現状を嘆くのではなく、ピンチをチャンスに変える!と、常に前向きに工夫されている姿勢に感動します。「視覚障害者は面の皮が厚くなければならない」と、おちゃめに言い放つ強さを見習いたいと思いました。

#読書記録 #自分軸読書 #濃厚接触 #視覚障害 #広瀬浩二郎