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怒りと私とカンガルー

・怒と私
先日、もう本当に無茶苦茶に怒っていることがあった
それを情報として認識した瞬間、「はー???」という凄まじい怒りが沸き起こった。

怒りというよりも、憤りに等しい事だった。
まじでさーそれはさーと悶々と考えれば考えるほど「ふざけるのも好い加減にしろ」という思いがあり、人に話すと「憤っている割に冷静だ」と言われた。


そう、冷静な自分が常にどこかにいる、のだ。

いや、だいたい冷静ではないけれど。
怒るというのは疲れるし、もっと他に愉快なことを考えたくても(例えばあつ森でどうやってクールなデザインを描くとか)
本当にそのこと「しか」考えられなくなる。考えすぎてカンガルーになってしまう。
そして、カンガルーなので、腹ポケットの中にいる「お怒りベイビー」の発言を聞いて『でもそれってお前が言えた義理か?』と冷静なのである。


考えカンガルーは、考えているので怒りについての考察が進んでいる
なぜ怒っているのかを分析する、「落胆」「裏切り」「憤慨」「無礼」「日頃の行い」「無神経」「自己正当化」……その他色々。
怒りベイビーは、なおも怒っているが、考えカンガルーはその感情の中に「義憤(自分は正しいという傲慢さ)」「棚上げ(自分はどうなんだ)」「嫉妬(常日頃抱いている対象への感情)」「体調(単純に体調が悪い)」「蓄積(その他への怒りとの混同)」などを発見し、怒りベイビーをあやす。
ベイビーは、こういう正しいっぽいことを言われると少し静かになるが、赤ちゃんなのでまだまだ泣きわめく。
これをほったらかしておくと「お気持ち家出」として他の人に多大なる迷惑をかけるゴジラになる。


「お気持ち家出」はだいぶ深刻である。
怒りを振りまくので、怒りベイビー増殖案件を起こす。
これは良くない。
なので、適度にあやしつつ、考えカンガルーは「怒りベイビーはこういうことで怒っているが、私はこういう考えを持っている。けれども怒りベイビーは泣き止まない」という言語化した思考を誰かに話す。


すある人は「殺せ」というアドヴァイスをくれるし、「まあそういうこともあるよね」と頷き、「それはひどい」と同意を返してくれる。


相槌は、子守歌になり、怒りベイビーは眠ってしまう。

やっとベイビーを寝かしつけた考えカンガルーは別のことを考えられるようになる。
例えば、最近やったゲームのエモかったところとか、シャンプーが切れかけていることとか。

話を聞いてくれる周囲に、私は頭があがらない。

神ですか? 新たに好奇心を満たすために活用させていただきます。