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神経たち #2

「なんか、すごいたくさんパソコンあるんだな。こういうの見たことあるけど、ダイゴ、株とか、FX?だっけ、ああいうのやってるのか?こういうグラフ、うちの会社の株やってる奴がよく見ている気がするよ」
僕がドキッとして、僕のデスクの前に座るケイゴの方を見ると、アームに掲げられたディスプレイ達の一つに、表示をそっと隠したはずの計測のグラフが室温の上昇を淡々と記録してるのを見た。ケイゴの肘がマウスにそっと触れていた。ケイゴがカバンを机においた拍子に、表示はまた切り替わり、今度は部屋の振動様子が刻一刻と記録され始めた。僕はグラフの端に、計測対象の識別番号と、所在地を表す緯度経度の値が露わになっているのに気がついて、ケイゴになにか感づかれるのではないかと背筋のあたりに冷たいものを感じた、やめてくれと大声を出しそうになるのと、腰骨の辺りから電撃のように伝わる痛いような焦りも、両方にそっと蓋をするように抑え込んで、脇にどけるふりをしてマウスに触れて、まずそうな部分を隠してそしらぬふりをした。ケイゴの方は、持ってきたウイスキーを開封し、丁寧に箱を畳んでいて、僕がぎこちなく表示を変えたことなんか気にもとめていない風だった。僕は瞼の上の粘っこい汗を指で拭ってティッシュで拭いて、小さく息を吐いて彼の質問に答えた。
大丈夫だ、グラフを見たって何のことか分からないはずなんだ。
そう思うと汗腺をうろついていた残りの汗たちは寂しそうに引いていったみたいだった。
「そんな感じ。ほら、ここの家賃も払わないといけないし。生活費も稼がないとだろ」
ケイゴは「そうだよな。稼がないとな」と言って笑った。口からとっさに出た僕のごまかしを、疑いの素振りもなく受け入れたケイゴの変わらない素直さに感謝しながら、僕は生活費の入った口座のことを思った。毎月減る残高、大学時代にアルバイトで貯めた貯金の残り、時たまこなす日雇いのアルバイトの収入、それから、僕のお手製のセンサ類を販売することで得る収入のことを思った。温度センサ、人感センサ、振動センサ、計測を続けながら改良を繰り返したセンサ類と僕のやり方をまとめた文章、それらを欲しがる奴らと、身元も銀行口座も明かさずに、インターネット上で行う取引。僕は画面の向かいにいる彼らの素性に興味がないが、彼らの動機には興味があった。何のために計測、ないし、監視やストーキングを行うのか。何人かは女性への執着心が高いかもしれないし、もしかすると、僕のように純粋な計測目当ての男たちもいるかも知れない。あるいは男たちを計測する女たちもいるかもしれない。同性同士で計測し合うこともあるかもしれない。その時、彼らや彼女たちは、どういう理由でやっているのだろうか?
僕のライフワークとしての計測、日々繰り返すだけでなく実際に仕事として、収入も確かに生んでいる。ある意味、僕が計測を生業にしているというのは、デタラメでも嘘でも無いのかもしれなかった。もちろん、ケイゴに事実をそのまま伝える必要はないし、そうすべきでないのは明白だった。
「そうか。ちゃんと生活できているならよかった。安心したよ。じゃあ、乾杯でもしようぜ。氷、あるか?氷水も一緒に飲みたいな。喉乾いちゃってさ。外はすごく暑くてさ、まだ身体に熱が残ってんだよ。しっかし、お前、結構ガンガン冷房入れるな。やっぱそれだからそんなに肌白くなるんじゃないか?カーテンも閉めっぱなしみたいだし。でも、あれだな、意外と部屋は綺麗だな。俺の部屋のが汚いくらい」
「そりゃね。あんまり動かないから、ゴミが散らかったり、そういうのがない」
「着替えとか放り投げないのか?ダイゴも俺と同じ感じのだらしない人間だと思ってたんだけどな。ほら、そこ、ちゃんと畳んであるじゃん。感心した」
床に言葉通り投げ出された彼のジャケットと、青いネクタイ。その脇には裏返し靴下が佇み、収納ケースに綺麗にしまわれた僕の靴下たちを羨ましそうに見ているようだった。整列した僕の持ち物、言われてみれば、僕は整理整頓はさほど嫌いではない。
「服は同じものを着るからね。選ぶのが面倒で」
「そういうやつ、最近多いらしいな、シンプルな暮らし、みたいなやつか」
僕はケイゴの言葉を否定も肯定もせずに、「そうらしいな」と小さな声で返した。シンプルさを志向したのではなくて、計測以外の雑音を除くための、結果としてのシンプルさ。
ケイゴは立ち上がってコップと氷を取りに台所に行って、食器戸棚のあちこちを開けたり締めたりをして、小さく頷いた。食器戸棚の中には、数こそ少ないが、中心が揃うように綺麗に並べられた白い無地の食器たち静かに眠っているはずだ。疲れを感じた時に結構な頻度で気晴らしに掃除をしているから、床と同じようにホコリ一つないはずだ。いくつかの薄ガラスのグラスたちは、整然と規律を守って整列していることを誇り、僕が顔を見せるたびに恥ずかしそうに光を返すのだ。
「面倒なだけだよ。シンプルさを求めたりしてないんだ。高尚じゃない。もっと気を使いたいところが沢山あるからさ」
「まあ、面倒だよな。気を使いすぎると。お、これ、氷、これ使うぞ、コンビニの氷、便利だよな。なんだよ冷凍庫、氷ばっかりじゃん。お、アイス有るから、これも食べようぜ。これ、結構高いバニラアイスじゃん。最近発売になったやつ」
「いいよ。ちょうど2つある」
「どうした?彼女とでも食べるつもりだった?悪いな」
「そんなのいないよ。知ってるだろ」
カラン、と氷とガラスの立てる軽やかな音、注がれるウィスキーの水音。桃か洋梨の香りが立ち上がったような気がした。どちらも久しく実物を見ていない、僕の頭の中でイメージが踊る。かなり前に、スーパの白い蛍光灯の下で小さく息をしていた、薄緑とピンクの丸っこい果物達。
ケイゴは僕のベッドに腰掛けて、僕にグラスを渡して笑った。 「再会に、乾杯。元気そうで良かった」
「乾杯、ケイゴも、相変わらずで良かった」
「変わってないか?これでも社会人やってるからな、多少は変わったと思うぞ」
「そうか?人間あんまり変わらないと思うからさ。ケイゴはやっぱり、ケイゴだよ。話やすさとか、昔のまんまだ」
「そういうところは、そうかもな。でもほら、人間成長するからな、どんどん年をとって変わるんだ。仕事で色々やらかしたり、やらかさなかったり、そういうので、どんどん新しい自分になっている気がするよ」
彼があやすようにグラスを揺らすと、氷はカラコロと小さな声呼応する。それから、彼はグラスを少し持ち上げて中の琥珀色の液体を光に透かした。僕は彼の手付きを真似る。僕の立てる氷の音は、彼のグラスが立てる音よりも鈍い気がしたし、透かされた液体が通す光も、いつもの部屋の光が、偽物の薄いセロファンの向こうからただやってきているだけに見えた。光の感触を確かめるよりもむしろ、指に伝わる氷の冷気、僕の指の熱で少しずつ溶けた水がグラスの表層で混ざり合う様、混濁、それを喉に流し込んだときに鼻に抜けていく柔らかな果実の香り。視覚ではなく、鼻や喉、触れることで感じたかった。
「熟成されてこの色になるんだよな」
ケイゴがポツリと言った。
「らしいね」
「こういうの気が遠くなるよな。高いワインもそうだけど、すごい長い時間寝かせてるだろ。寝かせろって言われても、俺にはムリな気がする。我慢できなくて飲んじゃうよ」
並べられた樽、熟成の時間、暗闇の中で潜む液体達、ゆっくりと、本当にゆっくりとしか進行しない化学反応が、閉じ込められた液体の纏う色を、時間の色に染め上げていく、蒸留する人間は、そこに何の計測器を仕掛けるだろう。温度計はもちろん、化学反応の進行具合は記録されているだろうか。細い針が読み取った物質の状態を電気的、物理的な値を、どの様に読み取りどの様に解釈し、どの様に頭の中に描くのだろう。
「僕には、むしろ向いてるかもな。じっと見ているの。嫌いじゃないんだ」
「見てるだけだと、暇すぎて俺は死んじゃいそうだ」
ケイゴは僕にそう返して、口元のグラスの傾きを変えて少し多めにウイスキーを口に含んだ。僕の方は、ケイゴが訪れる前から摂取しているアルコールに少しずつ精神が浸されて、クラクラと地面が揺れてるようだった。今も設置された場所で計測を続けるセンサー達のことが頭に浮かんだ。あるグラフは高まり続ける温度を折れ線で示し、あるグラフは部屋の中を歩く女性の足音を周期的に捉えている。視界がぼやける。直線ですら曲がって見えた。
僕の頭はなんだかぼうっとしてきた。確実に酔いは身体を巡り、僕の思考を浮ついた状態へと引き込もうとしていた。
「じっと見るのが好きだったら、まあ株とかでそれなりに稼げるのかもな。そう思うと俺は株とかやらないほうがいいな。こういうの見てるとムズムズしちゃうんだよ。ムズムズ。全く動かないのもなんだか見ていられないし、動きすぎるのも疲れちゃうんだ。見ているよりも見られる方が好きだな。特にじっと見てるなんてのはだめだ。腰が痛いとか、目が痛いとか、色々無駄なこと考えちゃって、ちっとも集中できないね。見るだけなんて、なんだか変態っぽい感じするじゃん。じっとしてても耐えられるくらい、見るのが好きってことなんだから」
僕は自分の計測行為を彼に見透かされているような気がしてギョッとし、ピリピリとした小さな焦りと心臓の跳ねが聞こえたような気がしたけれど、顔に出さないように唇に力を入れた。飲んだウイスキーの香りがどこからか立ち上がった。
僕は計測すること、見ることを愛していて、見るだけで満たされていると思う。
本当にそうだろうか?
じっといつまでだって、彼女たちの室温の変化、計測値を見ていることができる気がするけれど、それは僕の根源的な欲求だろうか?いつかピッタリと、辞めたくならないのだろうか?
足元が少し震えた気がした。
気がするだけでなく、左足が小さく震えていた。
「昔から観察、好きなんだ」
確信はない。
僕は昔から観察行為が本当に好きだっただろうか?
それでも、ためらうこと無くそう言うしかなかった。
ケイゴは僕を見て笑った。
「朝顔とかか?俺は枯らしちゃったな。種の絵だけ適当書いて宿題を出した」
そう言って、指をくるくると回して、節付きの緑のプラスチックの支柱に巻き付く朝顔の弦の真似をした。
思い返す。観察、アリ、セミ、花畑、じっと前に座る、真夏の日、日中から日暮れ、気温が下がって夜の衣を纏った風が吹き抜けるその時間帯までずっと、僕を迎えに来る人はおらず、気づくと、頭上の公園の時計はずいぶん遅くを指していた。記憶を探る。中学の時、僕は運動部の練習をずっと見ていた。バスケットボール、バレー、体操、サッカー、人の体の動きは美しかった。飛ぶ汗の粒まで、僕の目は捉えられる気がした。偶然話す機会があったクラスメイトに放課後の話をして、気味悪がられたのを覚えている。誰に話しても、僕の観察に対する感覚を理解してもらうことはできず、僕はそれ以来人に観察の趣味について、他人に話すことをやめた。観察の癖はそれくらいだったからのように思えるし、それより前から何かを見続けることが好きだったようにも思えた。始めたきっかけは、相変わらずハッキリとしない。
「ジロジロ見てるの?気持ち悪い。胸とか足とか、そういうところ、見てるんでしょ?女の子の練習ばっかり見てると変なやつだと思われるから、スポーツ好きのフリして男子のスポーツも見てるんでしょ?女子の練習見てる時の目、やばいよアイツ」
「まあでも、男子のも女子のも、色々なスポーツ見てるみたいだから、単に好きなだけじゃねえの?」
「この前あいつに聞いたらさ、サッカーのルール全然知らなかったぜ。バスケのルールも。だから絶対、女を見てるんだよ」
「それだったら大分やべえな。気持ち悪っ」
クラスメイトが影で話していた言葉、僕を突き放した言葉達がリフレインする。記憶をたどるのは得意じゃなかったし、好きじゃなかった。頭に少し痛みを感じた。記憶の底を覗こうとするたびに、僕の中の何かが僕を止めているような気がした。そこから先には進めない閉ざされた地下室の前まで来て、僕は毎回ため息をついて戻るのだ。底に至るまでの道に、白黒様々の言葉達がチラチラと舞っていて、セピア色に変色した記憶達が銀縁の額に入れられて、冷たい灰色の石の壁に飾られているのだ。いま思い返した記憶は、僕が昔から観察や計測が好きだったことを証明してくれている気がして、僕は少しホッとした。足の震えが収まったように感じた。
「まあ、とにかく、生活するのに困ってはいなさそうだな。昔のダイゴの家は酷かったからな。俺が何回か泊まりに行ったの覚えてるか?あの時は、ガスが止まってて料理ができなかった気がするし。電気も止まりそうだったよな。バイトしてるくせに金がないっているから心配してたよ。あの時は。そういえば、あれ休学前だったよな。あの時か、色々買いたいものがあるけど金が足りないって言って、俺、結構な額、貸した気がするな。もう金額忘れちゃったわ。あの後色々揃えてたよな。パソコンとか、モニターとか?あのときも画面二つに色々映して、お前んちで俺が漫画読んでる間ジーッっと画面を見てたよな。もしかしてあの時から株とかやってたのか?色々思い出してきた。あとアレだ、俺、卒業前の暇な時間に何回かダイゴの家に来たけど、あの時、なんか色々怪しい回路とか買ってたな。あれはもうやめちゃったのか?結構たくさん買ってたじゃん。あのなんか色々溶かすやつ、ハンダゴテ?って言うのか?あれで回路を弄ってたじゃん。あれはもうやってないのか?」
回路、計測の初期段階。自作の試行錯誤、ケイゴはもちろん、何に向けて施行を繰り返していたのかを知らない。彼から借りた金額はある程度金額が大きかったから、念のためにと書いた借用書を思いだした。コピーが今も部屋の何処かに押し込まれて、忘れられまいと声を出し続けているだろう。あの時はどうしても、何かに駆り立てられたみたいに、すぐにでも計測を始めたかった、そうでもしないとなんだか、気が狂ってしまいそうだった。僕がとろけて、室外の生々しい空気と混じり合って透明になってしまいそうだった。狂おしいほどに何かに後押しされていた。クラスメイト達の輪から逃れ、人付き合いは減り、身軽になった。その替わりに持て余した時間を全部使って計測をしていた。刺激に反応する神経細胞の映像を見た。クラスメイト達のメッセージのグループや、インターネットへの投稿を見て、彼らの内面を推測した。付き合うことなしに、遠目から彼らの行動を観察できたらと思った。何かを始めたい瞬間だった。
金を工面して貰う代わりに、引っ越しと更新のタイミングの食い違い、手違いのせいで住む場所に困っていたケイゴがしばらく、僕の家に転がり込んできた。一ヶ月か二ヶ月ちょっと、僕とケイゴは同じ空間を共有した。
「あの時は助かったよ。どうしても、あの時、色々と作らないと行けなかったんだ。何かに追われるような感じだった。ケイゴが卒業前に単位を取りきろうと必死だったのと同じだと思うよ。僕はあの時、やらないとなんだか、人生が終わっちゃうような感じがしてたんだ」
僕を動かしていた焦燥感はまだ僕の中にあるだろうか?僕は自分に問いかけながら、胸が詰まりそうになった。
「俺が漫画読んでダラダラしてるときもずっと何か作ってたもんな。あんなに真剣な顔する奴、初めて見たよ。眼力だけで人でも殺すんじゃないかって、少しビビってたよ。俺があの時読みふけってた漫画も、そんな感じの話だったしさ。飯もあんまり食べてなかったから、栄養ドリンク差し入れしたの覚えてるか?全然寝てなかっただろ?まあ何にせよあの時の金は役に立ったみたいだし、今は元気そうで良かったよ。今の顔は、あの時と違って何かに追われてる感じじゃなさそうだしな。逃げ切ったな」
客観的には、今は追われていないのか。何にも。
僕は目眩を感じた。
追われていたい。電撃や痺れを感じていたい。
心の底の方ではそう感じているのかもしれない。
僕は酔いの回った頭で、彼の顔つきを表面を撫でるように見つめた。細かな表情の動きを普段は気にせずに過ごしているけれど、今日に限っては酔いのせいか、彼の顔の動きがよく見えた。
ケイゴの方も酔いがうまく回り始めたのか、自分の世界に入りかけていて、ウイスキーの色と香り、そして味に酔い、赤らんだ顔つきをしながら、ぼんやりと虚ろな目でグラスの氷を透かしながら部屋を見回して、大学の頃の記憶か、それか僕と彼の二人の記憶を思いだそうとしていた。
 僕は、彼の深い所か、浅い所か、どちらかに潜んでいそうな来訪の目的を探ろうとした。頭が少し、痛む。自分であれ他人であれ、裏に隠された何かしらの意図を、僕のこの身体が温度か揺れかで検知して、泡立つ洗剤のように流し出せればいいのに。忘れていた時はなんとも感じなかった足枷が、今は僕を椅子から一歩も動けなくしようと、岩盤に固く打ち付けられていた。
「で、アレ、どうしたんだ?」
「アレ?」
「電子工作みたいなやつ?」
「まだ続ける。なんだか、半分仕事みたいになってるところもある」
「電子工作が仕事って、なんか格好いいな」
「今日はさ」
僕は言った。
「どうした?」
「さっき話してたお金、借りてたやつ、返したほうがいいよな」
「おいおい、どうした。急に、取り立てにきたわけじゃないぞ」
彼は苦笑いをしながら、ハッキリとそう答えた。彼の目は酔いが回っていた虚ろな瞳は、いつもの真っ直ぐなきらめきを取り戻して、間髪をいれずにそう答えた口はキュッと結ばれていた。条件反射の自然な反応。裏なんてなくて、表側に並べてあるものが全てだよと言わんばかりの。
「突然来たから、そういうことかなと思って」
「わざわざ友達の所に取り立てのためだけに来るほど、そんなにガメつくないよ。今日来たのはたまたま。大体、金額だって覚えちゃいない。借用書もどっかやっちゃったからな。金額、いくらくらいだったかなぁ。二、三十万は貸した気もするし、もう少し少なかったかもな。まあ、あれだ。もし株とかで、儲かってるなら返してくれればいいよ。ちょうど車でも買おうかと思ってたところだから、ローンの頭金にでもするよ。無理そうだったら忘れといてくれ」
「そう言って、実はとか言いながら借用書、カバンから取り出すかと思った」
「馬鹿、酔いすぎだ」
彼の発する音、大きさとトーン、速さ、声の滑り方、表情、目の動き、唇の動き、僕は彼の意図を読み取ろうとする。読み取りようがないのにそうしてしまうのは、計測と同じような僕の癖だ。
読み取れれば、読み解ければいいのに。
実際の人の声を聞くのはひどく久しぶりに思えた。以前はじっくりと見たり聞いたりすることで読み取れると思えた言葉の裏側の感情や真意が、うまく掴みとれなくなっているのに気がついた。
例えば強く鋭い口調から怒りを読み取ったり。
笑い顔に悦びを見出したり。
涙を見て哀れんだり、心配したり。
そういう基本的な推察も今はするのが難しいかもしれないと思った。計測を繰り返すことで僕が遠ざかっていた人とのやりとり、今は言葉よりも、瞬間瞬間の数値とそれの連続としてのグラフの方が、僕にとっては自然な言葉であるかのように。人の表情、感覚、その層を流れる液相の手触りの下に潜む固体の層、個体の層に入り込んで、温度や振動を測ったり、匂いを感じたり舌でなめてやったりすれば、甘みや苦味やテクスチャ、裏側に潜む感情の感触をつかめるのかもしれなかった。僕が感じ取っているケイゴの表層を、もしモニター上に図で表すことができれば、僕は計測することで、彼の言葉のうちに潜む固体の層、真意を捉えることができるような気がした。それで足枷の重みも軽くなるような気がした。鍵を外せるような気がした。
でも、全てが空想の産物だ。当然、今の僕にそれはできない。
彼は空きかけのグラス二つに新しくウイスキーを注ぎ入れて、氷を入れた。無言の時間をサクりと音を立てて割くように、氷がカラランとか軽やかに笑いながらガラスを滑った。
「どうした?本当に取り立てる気なんて無いぞ。黙らないでくれ。まあ、気にするなよ」
彼は笑って、椅子の上でじっとしていた僕の方をポンポンと叩いた。彼の手は大きく、熱を持っていた。部屋の中で一番の熱を持っているそれは、赤い色で表されているように見えた。まばたきを三回すると、色黒で血管の浮き出た普通の手に戻った。
「負っていたくないんだ」
「負う?」
「なんていうか、借りがあると、引っ張られる気がして嫌なんだ。重たい感じがしてさ。何に対してもそうなんだ」
足元で足枷がゴロンと転がって、ケタケタと笑った。
そうだ、お前は借りているんだ。と。
「借りか。難しいこと言うな。まあ、俺は貸しだとは思ってないからさ。忘れてたわけだし。まあ、またさ、たまに遊びに来るから、金を返すんじゃなくて、これからもこうやって一緒に酒でも飲んでくれよ。それでいいんだ。たまには、俺の好きな酒、買っといてくれよ」
「何だっけ、好きな酒」
重苦しさを感じている僕の言葉が小さく空気を滑った気がした。
「テキーラと、ラムだな。あと、焼酎とワイン全般、ビールはそれほどでもない」
「結構、節操ないな」
「まあ、大体は飲めるんだ。ポジティブに考えよう」
ネバついた言葉が喉の壁に張り付いたり、声帯に巻き付いたりしてベタベタとした。言葉を発しようとしても、ビヨビヨと細く長く伸びていくばかりで、ちっとも切れてくれはしなかった。僕は短い言葉を選んだ。
「でも、僕としては、借りた分は返したいんだ」
「真面目な奴だな。普通返す方の方がいい加減なんだけど、まあ、昔からそんな感じだよな。ダイゴは。まあ、さっきも言ったけど、金銭的に困らないなら返してくれればいい。でも、本当に無理はするなよ」
僕は口座の残高を思い浮かべる、ちょうど二日前あたりに確認したばかりの少ない桁数の数字。生活を成り立たせるのにやっと十分と言えるくらいの残高。僕は金を返せるとも返せないとも明言できず、口ごもった。今は返すのは無理だという方が誠実だった。負っていたくない気持ちと、現実の数字とがぶつかって小さく火花をあげていた。僕が黙っている間に二つは何度もぶつかって、やがて一つの風船のようになって膨らみ始め、バインバインと大きくなり始め、臨界点が来て弾け飛ぶそぶりもなく、ただ単調に、所在なさげに膨らみ続けて僕を圧迫した。喉のあたり、腹底のあたり。苦しさを感じた。
計測機器を売ることである程度の収入はあるものの、ほとんどを新しく設置する計測機器の購入費に回してしまっているから、貯金という意味で持ち合わせているお金はないのだった。
「ちょっと、すぐには返せないかもしれない」
ケイゴはもう何度か、僕の肩を叩いた。さっきよりも温度が下がり、焦燥と重苦しさを感じる僕の身体の方がより高い温度を持って赤く染まり、彼の手はどちらも黄色で浮かんでいる気がした。また、まばたきを何度化すると、ゴツゴツとした手に戻った。ケイゴの顔を見ると、口元は優しく緩んでいた。
「ほら、じゃあ無理するな。気にするなよ。俺も忘れているようなことなんだから」
ケイゴはそう言ってくれているが、僕は負っている。確かに負っている。足枷がまたケタケタと笑った気がした。負っていたくない。さっき発したその言葉を、僕は拾い上げて何度も噛み締めた。ギュウ噛むたびに、硬いそれはギュウと歪んで、黒くて粘性の高い液体が漏れ出してくるような感覚がした。正体不明、味も香りもなく、ただ粘っこい感触だけが舌に残るようだった。
「何か他の方法で返すのでもいいなら」
僕がそういうと、ケイゴは笑った。
「他の方法って、なんか物を質に入れるみたいな話だな。いいよ。本当に。気にするなよ。なんか、まだ漫画、たくさん持ってるみたいだから、たまに漫画喫茶がわりにダイゴの家を使わせてくれよ。返すまでは、永久使用権だ。会員証、発行頼むよ」
彼は漫画本がびっしりと詰められた本棚を指さした。彼がなにか僕に話すたびに、僕の噛みしめる黒い液体は散っていくように思えた。続ける言葉が見つからずに黙る僕の喉に、散ったはずの黒い液体がまた集まってくるような気がした。
負っていることの意味を考えると黒いネバネバは勢いを増すように感じられた。日々ケイゴがスーツに身を包んで労働をして、社会規範を守りながら溶け込んでいる世の中と僕の接点、ケイゴを通じてではあるが、計測や観察の外側の世界と微かにでもつながり、何か紐のようなもので結びつけられ、その紐を手繰って見知らぬ誰かが来訪するような可能性、その誰かが僕の計測行為を公にするかもしれない。おおっぴらに批判するかもしれない。被害妄想かもしれないが、そんな可能性。負っているからこそ感じる張力。僕へ到達するヒントになりうる紐、時にはそれは、僕を縛りつけようとする悪い張力になり得る。気味の悪い、ゾッとするようなその感じ、それを極力排除したかった。もちろん、訪ねてくるのがケイゴであれば全く問題ないのだけれど、負っている感触のゾワリとした感触は変わらない。重りを感じて張力を感じていれば、釣り合いが取れなくなって暗がりへと引き込まれてしまう気がした。やっとのこと釣り合いを保っているが、結局のところ、僕は三角錐の上に載せられた一つの球なのだ。危うい、風が吹けば転落する。計測を阻まれる余地を少しでも残しておきたくない。繰り返しの計測が僕をなしているのだから。一度負っている感じを覚えると、細い紐、重力を受けてわずかに垂れる透明な糸が音もなく張られ、モヤモヤドロドロとした感触が紐を伝って僕の肌に垂れ落ちて、ツウと肌をたれた跡は染み込んで、神経を伝って僕の背中あたりにゾワゾワと溜まりこむように思えた。
「黙らないでくれよ。今日は本当に、たまたま、用は特にないけど顔を見たくて来たんだ。もしダイゴが居なかったら、手紙でも書いて、ウイスキーは宅配ボックスか、それかどこか分かる所に置いて帰ろうと思ってたんだ。他の物で返したいって言ってもなあ。別段ダイゴの家から持って帰りたいものなんて無いような気がするな。あ、悪い意味じゃないぞ」
彼は歩き回って部屋を物色する。酒のせいか足取りはおぼつかないところもある。物欲とは無関係の、ただの好奇心が瞳の表面にチラついて綺麗だった。漫画やら、ホコリを被った貰い物のオブジェや、ゲーム機を手にとってまじまじと眺めていた。
「悩ましいな。このゲーム機とか欲しいような気もするんだけどさ。ほら、俺、物欲あんまりないんだよね。」
「さっき、車のローンとか言ってなかったか?」 「よく覚えてるな。前から記憶力いいよな、ダイゴ。車は、まあ、車はさ、欲しくて買おうとしてるけどさ、車とか家とかはさ、ちょっと話が違うじゃん」
「値段ってこと?」
「そうだな。値段もある。それより、覚悟がいるんだ。写真とかさ、エンジンの音とか、走ってる感じとか、色々じっくり見てさ、覚悟しないと駄目なんだよ。だから、なんか普通の物欲と違うんだ。覚悟を決めるのが楽しいんだ。なんでもかんでも欲しくなるわけじゃない」
「物欲にも種類があるんだな」
「多分な。で、どうするかな。本当にもので返したいなら、もう少し真剣に考えるけど。ああ、あそこに積んであるややつ、あれってまだ使えるのか?」
「どれ?」
「あれだよ。モニターの下。パソコン、積んであるじゃん」
ケイゴが僕の背中側、デスクの端、モニターの下に積まれたノートパソコンを指さした。前に使っていた型だ。薄っすらと被ったホコリが、眠りについてからの経ったそれなりの時間を表していた。
「パソコンなんて欲しいの?」
「ちょうど、今のやつ、調子悪くてさ、買い換えようと思ってたんだよ。あれ、まだ使える?」
「使えるっちゃ使えるけど、色々初期化とかしないといけない。それに、古いよ」
中には古い計測記録が山のように積み上げられている。計測対象の女性たちの温度、振動、時には名前、住所、日々の生活に関するメモ書き、僕の予測、お手製のプログラム一式、僕が僕のために作り上げた、計測のための秘伝。持ち出されるのは、どうしても避けたかった。
「いいよ。俺の方で消しとくよ。やったことあるし」
「そう時間がかかるわけじゃないからさ、パソコンを選ぶなら、次来てくれた時に渡すよ。それか、別のものにして欲しい」
「でもなあ、他に欲しいものないからさ。それに次だと、俺もお金貸したことなんか忘れて、また同じような話、する気がするんだよな」
「それだったら、服とか。代わりに」
「馬鹿、そもそもサイズが合わないだろ」
「枕とか」
「何言ってんだ。枕くらい持ってるよ」
「じゃあ食器とか?なんでもいい、代わりに何か」
「ダイゴ、結構酔ってるな、顔が赤いぞ。瓶の半分くらい飲だからな。俺も結構、身体が熱い」
「とにかく、パソコンは、次来た時までにやっておくよ。連絡するから、取りに来て欲しい」
「返したがったり、待ってほしかったり、色々ややこしいな」
急坂を下るように回り始めたアルコールは、僕をひどく無抵抗にした。普段独りで飲んでいても酔いが回ることなんて殆どないのだけれど、今日はなんだか特別に浮ついた気持ちになった。久しぶりの再会、ケイゴ、暗がりで湿ってい僕に差し込んだ久しぶりの柔らかな光。僕とケイゴの間を流れていた川に久しぶりにかかった橋。ゆっくりとした水の流れ、立ち上がる小さな波たちと、中央を泳ぐ大きな魚達、記憶の上流から流れる豊かな雪解け水。ひどい眠気がこみ上げてきた。腰のあたりにかすかなコリを感じた。手先は火照って、握りしめると熱が集中し湯気が見える気がした。僕のお手製の温度計で計測して、モニター上に表示してやれば、真っ赤に、狭い空間に高らかに存在を主張しながら黄色の外郭に包まれた赤い肉体と輪郭がくっきりと姿を表すはずだ。瞼に加わる重力はその大きさを増し、熟れてすぎてしまって赤々と膨らんでいた。僕は机に突っ伏して目を閉じ、両方の足で部屋の冷たい床の感触を愛でながら、ぐるぐると回り出しそうな、時に心地よく、ときに気持ち悪い平衡感覚に身を委ねるしかなかった。
「眠そうだな。俺もなんだか、眠くなってきちまった。じゃあ帰るよ。また来るよ。たまには連絡返してくれよ。何度か連絡したんだぞ」
「ああ」
僕は彼の居ない方に返事をぼんやりと投げ込んだ。白い潮を吹き上げるクジラが深く暗い海の方へ泳いでいくのが見えた。
連絡手段、メール、メッセージ、他人からの連絡はしばらく、確認してすらいない。意図して絶ったのか、自然と消えていったのかも忘れてしまった。ガサゴソとケイゴが荷物をまとめる音が聞こえる。あと少しだけ残ったウイスキーの瓶を台所に置く音、グラスの残りが捨てられて、金属製のシンクの底を打つ水の音が聞こえた。とても遠くに聞こえた。
泳いでいたクジラがシンクに飛び込んで消えた。
「またな」
ケイゴが僕の肩を叩いて、立ち上がって玄関で靴をはく音が聞こえた。おぼつかない足取りがよろめく影が見えた。
僕はもう一度「ああ」と答えた。
遠くでドアの閉まる音が聞こえた。鍵をかけないと、と思ったけれど、僕はそのまま眠りの中に引きずり込まれた。眠りの抱擁は心地よかった。

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