ヒキで見る画面・異なるネットの景色
ラップトップを使う時に外付けのディスプレイと外付けのキーボードを使いはじめた。初めての経験かでいうとそうではなく、前にトライしたことがあるし、何ならしばらく使っていたのだけれど、忌々しいトラックパッドが故障してしまい、Macbook Pro本体のトラックパッドをわざわざ触るのが嫌で封印していたのだ。
肩が凝らないようにと分離式のキーボードを使っているけれど、前のめりにならずに画面を見て文字やコードを書けること、遠目にブラウザを見れることは別の効用を生んでいる。「ヒキ」で見ることができるのだ。重要なニュースも、下らないニュースも、野球のことがまとまっているサイトも、良すぎることで悪名高いTwitterのタイムラインも。
ヒキで見る文字も画像もあまりにも小さい。没入できないほどに。日常の世界に没入が持ち込まれると息苦しい、溢れかえる事件の光景は目まぐるしく反復され、最近では頼んでもないのに視界にチラつく。生活の半径は無意識のうちに押し広げられてしまうのだ。じゃあどうすればよかったか、答えは簡単で、近くで画面を見なければよかったんだ。
思えばスマートフォンは何でも映し出してくれる綺麗なスクリーンと肉体の距離を圧倒的に縮めたデバイスではなかったか。表示されるコンテンツや通知も、没入感や、生活へ根を貼ってリテンションすることに最適化されて維進化している。スマートフォンアプリの依存性絶対に許さない派の人から見ると買い手を「ユーザー」と呼ぶのはドラッグの売人とアプリの開発者だけらしい。
肉体に近いことは現前性という意味でのリアリティと没入感を生み出す。目の前で起こっている何がしかのことは、たしかに自分のいる世界で発生しており、例えば怒りを駆り立てるようなコンテンツに触れたときは「許せない」「なんとかしなければ」という思いが募って、エネルギーが使われるのだ。
でも実は、少し離れてみれば、スクリーンの向こう側の世界のことなのだ。物理的に身体に近いと認識しづらいそんな当たり前のことが、離れると即座にわかる。流れている情報はただの小さい文字の流れだ。追う必要もなければ、全てを把握する必要もない。
見える化されすぎた世界から離れるための一つの手立てとして。
それでも見えていることを忘れないように、今日もネットを漂うしかないのだ。