神経たち #6
ナナコの計測を始めてから四日ほどが経過した。僕は僕のルーチンである他の女性たちの計測を進めながら、彼女のデータが溜まるのを待った。鍵屋にはナナコの部屋に普段よりも多く、試作中の新しいセンサを取り付けさせた。数も多くした。「トリガーが見つかることを祈っている」鍵屋の言葉をふと思い出した。このまま僕の神経の代理人達の数を増やしていけば、彼らも巻き込んだトリガーが見つかるのだろうか?いつもより多い計測機器はナナコの部屋のそこかしこで揺れと温度を詳細に、細かく細かく記録し、僕は置かれた家具や彼女自身の輪郭を捉えることはできる。いつものように、記録を画像に起こせばいいのだ。起こさなくとも、時間軸に沿った詳細な記録の列を眺めていると、僕はそこで何が起こり、彼女がどう動いているのかが頭に浮かぶような気がした。料理、コーヒーを飲みながらのソファでの休息、倒れ込むような眠り。穏やかな生活の断面。今の計測値は一つの波もない水面のように静かだった。彼女はまだ帰宅していない。僕は左手に持ったグラスを揺らして、わざとらしく氷の音を立て、口に運び、スモーキーな香りを鼻からそっと抜いて、四日分の彼女の行動の記録をさっと眺め始めた。
小さなベッドルームとキッチン。リビングは単身者向けにしては広め。平日の日中は当然のようにもぬけの殻。その時間、彼女は仕事場にいるようだった。彼女が居ない部屋は陽光と建物自体の熱を受けて徐々に温度を上げ、日が暮れると徐々にその温度を下げ、やがて平坦になる。その繰り返し。僕は退屈さを感じながら、今の室温の観察へと戻る。
センサが振動を捉え、玄関付近の温度がほんの少し上がった。続いてリビングの振動センサに変化が現れる。冷房のスイッチが入れられ、上の方に現れた青い冷気がゆっくりと床に落ち、低いところからそっと、空間を満たし始める。彼女の帰宅。ドアを開ける時、靴を脱ぎ家に上がる時、荷物を置く時、部屋の中での足取り、床を踏む強さ、これまでの三日間とあまり変わらない。こういう所に気持ちの変化が現れたりする。外の動きから、中身を覗き込めれば。まだ変化がない。部屋の温度の図をじっと眺める。彼女の身体が動いている。濃い青として示された薄い衣類は、熱を持った彼女の真っ赤な肌に張り付き、彼女が微小にでも動く度に、感知された電気信号は、スクリーンというパレット上でゆっくりと動き回り色を変え、景色を変え続けた。真っ赤な肌、熱を持ち駆動する機関が内在することの証明、代謝の証明。彼女が立ち上がり、台所へ入る。青い平面に降ろされる裸足の足。戻ってきた彼女の手に握られた缶、青く低音に沈む。結露した水滴が床にポタポタと落ち、冷温の平面に更に濃い青で幾つかの曲線と図形を描いた。それは不注意な書き損じのようにバツが悪そうにひっそりとしていた。床に仕掛けた振動センサの捉える足取りの強さが、これまで三日間の平均的な強度よりも少し強い強度を示す。リズムも少し早い。それに気づいた僕は、姿を表した変化への淡い期待がもたらす軽い緊張感を覚えた。引きずられて僕の脈もトクントクンと速さを変える。今度は首元に脈の源を感じた。
もし、計測者である僕を、誰かが背後の壁の向こう側から観察札していたなら、僕の様子の変化に気づいただろう。僕はふと気になって、振り向いて壁の様子を確認した。壁は冷たく、冷えて、壁紙のボコボコとした表面の感じよりもむしろ、場所によって異なる温度が青の濃淡で見えた気がした。何回か瞬きをするとすぐにいつもの部屋の壁が目に入った。
彼女は冷えた缶から液体を喉に流し込んで、ソファの上で足を組んでしばらくのんびりとしていた。部屋全体が心地よい温度に下がった頃、なにかに反応すると、残りの飲み物をそっと口に運んで立ち上がった。冷却された個体に触れて冷やされた彼女の小さな右手が、僕の画面上ではうす青く、ぶらりぶらりと、赤く火照る彼女の脇に浮いていた。彼女は玄関の方へ移動すると、誰かを招き入れた。熱量を持った別の輪郭。心地よい温度に冷やされた部屋に突如現れた、部屋の中で一番の熱量、部屋自体を真っ赤に立ち上がる、体格のいい男性の輪郭、来訪者。
ケイゴのちょっとした恋心が、サッと崩れて白い砂になって流れて消えていった。残念だ。豊かな肉体の男、高い熱量、恐らくはナナコの恋人。そして、ついでに、鍵屋は初めの一人ではなさそうだ。
ナナコの計測はここまでにして、ケイゴに残念でしたと告げ、いつもの生活に戻っても良かった。とりあえず、食べ物を切らしてしまっていたから、何か口にするものを買いに出ようかと思った。画面の向こうでは、男女は身体を寄せ合い、男性の骨太の肉体から生えるたくましい首筋は部屋の温度と中和することなく、真っ赤な高い熱を持ち続け、少し温まった彼女の手が回されて、黄色くリボンがかけられたみたいに写っている。彼女は男に何かを囁いていた。部屋から目を離す間際に、僕はナナコの部屋の隅に置かれた棚、冷え切って青く表示される直線的な輪郭の中に、熱量を持って赤く光る四角い物体を二つ見つけた。
なんだろうあれは?
目を凝らすと、赤く示される輪郭綺麗な立方体はその中に別の輪郭を持っていた。異なる温度を持つ丸が見えた。何かを捉えるための装置。
恐らくはカメラだ。
円の中心の先の世界の光を捉えて焼き付けるための熱量。記録のための熱量。レンズの向けられた先の光を大の字に手を広げて受け止めようとする人の姿が見えた気がした。錯覚。錯乱。撮っているのは果たして静止画か、動画か。そんなことより、撮っているのは誰なのだろう?
ドクドク。ドクドク。
心臓が耳に移り住んできたみたいに鳴りだした。急に増した勢いに驚いて胸が痛くなった。痛くなったのだから、脈の源は胸にあるはずなのに、全然そんな風に感じなかった。
僕はまた、何かに見られている気がして、後ろを振り向いた。
陽の光だけが僅かに差し込む薄暗い僕の部屋の壁に、もし何か生き物か何かが張り付いていて、ギョロリとした目を僕に向けて僕の一挙手一投足を捉えようと目を凝らしていたならば。誰かの乾いた視線が首筋を滑った気がした。
外に出るのは一旦止めることにした。
身体が軽く震えた。ナナコの部屋に仕掛けられたカメラが、僕の心を大きく見出していた。僕以外の誰か別の見るものを意識せざるを得なくなった。気づかず震え始めていた左手を右手で握ると、僕の柔らかな肉の熱を微かに感じた。冷たいようにも温かいようにも思えた。視線を画面に戻す。平静を保ちたかったが、そうも行かなくなった。誰か別の観察者と一緒に、同じ部屋を見ている。新しい新品のピカピカのボールで遊ぶときのように、僕は興奮していた。ボールがたとえ、何処にでも売っている安いゴムボールであったとしても。
カメラ。冷気の色で示された棚に置かれた機械。放射熱が帯びる赤は怪しく輝き、レンズの輪郭、円の中心から、同じ様に見る側であるはずの僕の脳髄の果てまでを、止まることのない真っ直ぐな直線が貫いている。貫かれたものは全て捉えられて記録されている。
なぜ記録が撮られているか、何に使われるのか?
撮り手は僕と同じように計測だけに興味があるのか、そうではないのか。
画面に映し出された二人はカメラの存在なんて少しも気にすることなく、いつの間にか、男の輪郭から冷えた薄布が帯びる青は消え失せ、胸板から下半身まで、下着の包む箇所を除いて肉体は露わになった。ゴツゴツとした逞しい肉は高熱の赤に染め上げられ、ナナコの方も同様に、高い熱を持つ表皮の内部は少し控えめな橙で染め上げられていた。ナナコの輪郭がソファの上で男の輪郭と融合し始めた。二つの温度の融合。時たま身体を仰け反らせたり、顔を太い首筋のそばに押し付けたりをしながら、小さな手で男の下半身を包む低音の布を優しくさすり始めていた。部屋全体温度は計測され、スクリーン上に上向きの曲線を描き始める。上昇への欲求。肉体の交わりの熱量は温度へと変わる。内臓の動き、二人の早まった心臓の運動、全てが熱へと変わり、空間を満たしている分子の動きを早めていく。カメラが貫く直線の記録は、ソファのほとんど正面から、じっと真っ直ぐに、ありのまま全てを記録していた。カメラが目に入る度に、視線を感じる気がした。誰かに見られている気がした。空間的に隔たっているのに、ナナコの部屋と、僕の部屋と、二つの部屋をカメラから伸びる直線が一緒に貫いている気がした。触れていないのに手先に何か触れた気がした。
僕は一人の計測者として、カメラを仕掛けた他の誰か、他の観察者の明確な意図を感じざるを得なかった。鍵屋から世の中に「他人のプライベートを覗きたがる人間」が沢山いることを聞かされていたし、インターネット上のコミュニティでのやり取りで、そういう人種が確実に存在することは知っていた。それでも、誰か他の人間と計測の相手がバッティングするのは本当にはじめてのことだったから、他の誰かによって設置された観察のための機器の姿、カメラの姿に、胸は高鳴り続けて、踏むべきブレーキを忘れてしまったようだった。興奮か、不安か、恐怖か、なんだか分からず、プラスとマイナスの間で気持ちの針が振れ続けていた。暴れる感情の後ろ側をゆっくりと踏み外さないようになぞっていくしかないのだ、一歩踏み抜けば、どうなってしまうか分からなかった。何かを壊してしまいそうだった。
スクリーン、温度の記録上で、二つの輪郭が顔を寄せ合っていた。おそらくは口づけを交わす二人。僕の混乱なんか知る由もなく、繰り返される口づけ。ナナコを包んでいた低い温度は完全に振り払われていて、溶け合った二人の熱量はならされて同じ様な温度に溶け合っていた。唾液や体液の交換ではなく、熱を交換することが愛の行為の本質なんじゃないかとふと思った。寄り合う二つの体温、高い熱を持った男の手がナナコの首筋へと伸びて、小さな口づけの後、その手は彼女の表面をなぞりながら、ゆっくりとゆっくりと、手触りが見るものに伝わりそうな速さで下半身へと向かっていく。ああ、気づくと部屋のかなり温度は上がっていた。左側のスクリーンに表示されるグラフはその傾きを増し、二人分の運動量と性的興奮が、僕の頭の中で予測するよりも遥かに大きな温度変化をもたらしていた。二人の織りなす温度変化、気体の微小運動が早まる様、その巨視的な像。
なんだかこの瞬間がとても尊い物であるように思えた。
二つの温度の交わり、二つの生き物の交わり。
たとえこれが性的な交わりでなくとも、きっと。
他人のセックスを眺めることはこれが初めてではなかったが、僕は他人のプライベートを覗く事に興味がなかったから、これまではこういうプライベートすぎる男女の営みに遭遇したときはそっと目を背けていた。覗くのは悪いような気がした。セックスを眺めることは僕の本位ではなかったし、興奮することもなく、むしろこういうセックスを覗き見ることを目的とする他の誰かと同じ枠に分類されることに吐きたくなるくらいの気持ち悪さを感じることが多かったからだ。
ただ今は、あのカメラが写り込んだことで何かが普段と違う気がした。今この瞬間、計測される恋人たち二人が触れ合うと同時に、壁から温度と振動を測る僕は確かに、あのカメラの設置者と触れ合っている気がした。あのカメラの設置者が観ている世界と、僕の計測する世界を重ねてみたくなった。僕はそのために、二人の行為をじっと見続けなければいけないような気がした。「こっちも見てるから、そっちも見てくれ」そんな風に向こう側の誰かが言うような気がした。少なくとも僕は、そう期待していた。
振動センサが反応し、生み出される一定のリズムの波形。部屋の温度は上げ止まり、二人の興奮を吸いながら息苦しく喘いでいた。僕はナナコと、ナナコと交わる彼の身体にへばりつく粘っこい汗の感触と温度を想像して頭の中で転がした。室温の変化、彼女の体温の変化、男の肉体、そして室温の上昇と振動センサの波形の変化、他のカップルの生み出す波形との違い、僕は生み出される波形の振動の間隔、周波数が早まるのをじっと見つめていた。揺れの形を見るだけで二人の感じている性的快楽が頭の中によぎるような気がした。カメラを設置した何者かは、僕と同じ様にリアルタイムで、装置の向こう側で映像と、もしかしたら音声を楽しんでいるのだろうか。もし、仮に僕と別の観察者が協力するようなことがあれば、ナナコの像はより明瞭になるだろう。僕は映像には興味がないし、他の誰かは温度や振動に興味がないかもしれない。それでも、二人の像を重ね合わせることはできる。映像と体温の変化、そして、僕が計測をすることで頭の中で組み上げている体温と行動の変化、それから推測される心理状態の変化、推測の論理、僕と別の計測者の論理は組み合わさって、僕の行為はより明瞭な像を生み出すための一つの部材になるのだ。視覚的に見るだけではわからないものと、温度や振動を計測するだけではわからないものの掛け合わせ、くっきりする世界の解像度。
僕でない別の観察者と作り上げるその像。
なんだかとても愛おしい。美しい。
そういう像を沢山生み出すことが、何かとてつもなく、優しく、柔らかに、光となって僕の心を包み込むような気さえした。
感じたことのないくらいの身体の軽さ。心に感じる浮力。どこまでも飛んでいけそうな、軽やかな足取り。心が静まり返っているような、ざわつき続けているような。くすぐったい恋心に似ている気がした。計測スクリーンに注意を戻すと、いつの間にか下がり始めて落ち着いていた室温が再び上昇を始める瞬間だった。振動もまた、一度落ち着いたように見えて、また別の周期と形の波が記録され始める。身体にまとわりついた汗が冷えて粘っこさを失いながら、周囲の布に吸収され、肌と肌の振れる感触を爽やかだと感じる一瞬の時が過ぎ去り、掻き立てられた感情により再び起こされた身体をまた密着させ、結合させながら、再び絶頂へと向かって走っていく速いリズムに身を任せる二人。映像と、声と二人の肌の実際の感触を想像しながら僕は、額に熱っぽさを感じて、立ち上がった。でも本当は熱なんてないような気もした。冷凍庫を開けて、ビニールの袋から氷をふたかけら取りだして、片方を愛用のグラスに入れた。氷の立てるカランという音が部屋の端の端まで回折し浸透した。火照る額に氷を押し当てた。融合した冷気と熱が。水滴となって一筋、二筋、額から頬へと流れた。這い落ちる水の感触、頬から鎖骨へ落ち、僕の切る薄布に染み込む水、襟元を濡らし、やがて温くなるだろう。額から鼻元へ氷を下げ、細かい変化を見続けていた目を冷却する。温度を変化させることで神経の活動は変化するのだろうか?あるいは血流が、柔らかな方向に変化するのだろうか?溶け出した水で目元を拭って、残りの欠片をキッチンにそっと置いた。僕は部屋を見回したグラスにウィスキーを注ぐ、香りが立つ。一口、口に含む、味がしない。アルコールの舌触りばかりが強く感じられる。喉から胃へと落としてから、僕は画面に残る振動のグラフを見つめる。平坦な波形、男の手はナナコの肌の上を這った後、髪を優しく触りながら、あるいは男の腕の上にナナコが頭を寄せ、顔を寄せ合っているか。肌は密着しているかもしれないし、していないかもしれない。僕はもう二、三口、ウィスキーを口に流し込んだ後、立ちくらみがして目元を抑えた。身体の芯のほうが熱を持っているのを感じた。熱が僕の内側を溶かして作り変えている気がした。窓から差す薄い光がいつもよりも遥かに眩しかった。僕はグラスを置いて、キッチンに座り込んで足を投げだした。床の近くの空気は冷たかった。僕は寝転がり、肌を床に押し付ける。床と肌に挟まれた、濡れた襟元の布がクニャリと形を変えた。この冷たさと僕は融合できるだろうか?ひんやりとした板、熱を奪う冷たさ、床はいつも通りの場所から部屋全体を見ていて、温度で僕をいつもの世界に引き戻そうと優しく笑っていた。奪われていく熱と、立ち上がる眠気、動くのが億劫だった。キッチンの上から溶けた氷が水になって降ってきて、僕に目を覚ませと囁いていた。冷房から吹き出す風の感触、ナナコと男、二人の発するごく小さな振動の音が聞こえる気がした。
ナナコの部屋に設置されたあのカメラのことが頭から離れない。誰が、何の目的で?
そもそも僕の目的は?頭が痛い。問いたくない。苦しい。
僕自身の目的は?
僕の求めているものは?
「何のために?」
「アンタのトリガーは?」
鍵屋に昔言われた言葉が頭の中に響く。
反響する。僕はトリガーのことも、見つけてしまったカメラのことも、一旦は全てを忘れてしまおうと、ひどく酩酊するまでウィスキーを飲んだ。ぼんやりと身体の浮き上がる感覚、室温の変化を見て、計測をしなければ。計測をして、予測をしなければ。僕自身を、予測できるだろうか?
見続けて計測値に没頭することで、僕はさっき感じた美しさをもう一度感じられるような気がした。
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