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我々の眠れる日々を明け渡すな!不眠症患者数の増大及び”無眠族”の増加に対する緊急提言

首都大学理学部神経情報基盤研究所 教授 龍田川誠司

 日本不眠学会の調査に統計によると、2020年12月から2021年1月にかけ、不眠を訴える者の数が60倍に増加し、1月から2月にかけては更にその倍に増加しているという。このままではやがて、全国民が不眠症になるのではと言わざるを得ない増加率だ。当然、新型感染症も恐ろしい病ではあるが、元来不眠症が横行するこの日本という国で、誰しもが気づかぬ内に、水面下で「眠ることができない」病が広がり続けている。

 本レポートは、爆発的に増加する不眠症患者、及び"無眠族"に関して、現時点で判明している事象を私の実体験と実験検証に基づいて整理し、原因に関する私なりの仮説を述べるものである。

 本レポートのオリジナルは研究会向けに私、龍田川誠司が執筆したショートペーパーであり、本来なら研究者のコミュニティ内で十分に議論された上で仮説がただの憶測ではなく、ある種のエビデンスをもって立証されることが必要とされるが、昨今、眠れない、または眠らない人々の急速な増加が一つの社会問題と化しはじめている背景を踏まえ、N社の社会部の記者、玄鳥至氏と国立神経生理学研究所准教授の茂森健太郎博士の協力の下、一般向けにアレンジした上でN社の名の下にウェブ上及び紙面に掲載するものである。主としてN社のnoτεに掲載されていると思われる。

 抜粋を見て変な解釈を加えるのではなく、ぜひ本文を見て、なぜ私が本記事を広く知らしめたかったかをご理解いただきたい。言い訳がましいが、下記の仮説(と呼ぶに相応しいか自信がないが)には私の推測を多分に含んでいる。

 当然、後に反証される可能性がある。書くべきではないと承知の上で述べると私は反証されることを期待している。

 また、学術的なペーパーならば結論を先に述べることが是とされるが、本レポートはそれに則らないことをご容赦いただきたい。

 というのも、そろそろ、私自身が本当に眠りたいと思いながらこの警鐘を発するために筆をとっているのだが、睡眠の欠乏による不調により手が震えるため、考えを文字にすることがままならないからだ。

 読者の誰かにより、私の仮説が反証されなければもう、私自身も、不眠の蔓延しはじめたこの国はどうにもならないかもしれない。

 今年に入り、不眠症の患者数が時間とともに指数関数的に伸びている。不眠学会の調査に協力いただいた、都内の心療内科、または精神科合わせて100以上のクリニックからの回答によれば、不眠の訴えで受診する患者の数が時間と共に倍々に増えている。

 信じたくはないが、何かを媒介して不眠が感染し、再生産数が1を超えているかのように。

 不眠の原因はいくつかに分類でき、5つのPと呼ばれる分類が知られている。中枢神経の疾患、呼吸器の疾患などの身体的疾患に起因するもの、時差ボケや生活リズムの乱れによる生理学的不眠、ストレスや喪失体験が原因となる心理学的不眠、うつ病など精神疾患に伴うもの、向精神薬などによる薬理学的な不眠などである。勤勉な読者のみなさんもご存知のように、睡眠の欠如は肉体にも精神にも明らかな不調・変調を発生させる。

 列挙すればきりがないが、集中力・記憶力への影響、焦燥感、士気の低下、頭痛、倦怠感などが身体に襲いかるうえ、扁桃体と前頭皮質のコミュニケーション不良により感情のコントロールが効かなくなるなど、社会性、社交性にも多大な影響が及ぶ。協力いただいた諸クリニックのの患者の訴えは多種多様であり、共通の原因が見いだせるわけではないが、共通するのは入眠に不良が認められること、及び睡眠時間が一様に減少し、ある一定期間の後に皆無になることである。

 私は、偶然にも私の研究室の学生全員が性別・年令問わず不眠を訴え始めたことで、この爆発的増加現象の初期段階で現象を知ることができたが、私の独自の調査と、学術的背景を踏まえ、これまでの不眠症と同格の取り扱いを行えない新奇な睡眠の喪失現象が発生していることを確信するに至った。

 私の学生、H.M.(偽名)の例を紹介しよう。昨年の末、今年の年明けから不眠現象に見舞われた最初期の現象遭遇者である。彼女だけでなく、彼女の家族もまた年初より不眠を訴え始めた。彼女に関しては現象の度合いが極端であったことが、言葉を選ばずに言えば、現象の早期発見という観点では幸いだったと言える。

 不眠というよりもそれは、睡眠という状態の忽然とした消失だった。ある日を境に、彼女の眠りは不透明な因果の渦に飲まれて影も形もなくなったのだ。

「もともと寝付きはいいほうじゃないんですけど、眠るまでに2時間くらいかかるようになったんです。心療内科とかにもかかったけど、何も改善しなくて、今は日中、何もしなければ眠気と頭痛が絶え間なく襲ってきて、動くことも出来ません。私、眠れないんです。一切」

 H.M.が私にこう語ったのは1月の中旬のことだ。覚醒と睡眠を隔てるのは、脳から発生する脳波の違いであり、周波数(雑に言うと、波が細かいか粗いか)、つまりはリズムの大小の違いである。1-3Hzのものはδ波、4-7Hzのものはθ波、8-13Hzの波はα波、それより速い波はベータ波と呼ばれる。覚醒時の脳では速いリズムのα波やβ波が中心となり、深い睡眠時は最も遅いδ波が中心に、浅い睡眠時は少し速いθ波が発生する。

 H.M.からは、睡眠が失われた。つまりは、この遅いリズムの波が消失した。脳波のリズムは体内時計にも関係し、幸福ホルモンとも呼ばれる神経伝達物質のセロトニンがリズムの制御に深く関わっていることが明らかにされている。単純化できる話ではないが、セロトニンを選択的に除去する物質を作用させると、睡眠、覚醒のリズムは撹乱され、脳波のリズムは正常な状態を保てなくなる。

 しかし、私が行った検査の結果、セロトニンを含む、彼女の神経伝達物質の分泌量には異常は認められなかった。そして、彼女は現在、ベンチャー企業経営者である兄がソムヌス社(Somnus, Inc、米)から供給を受けている「オルトデルタ」という薬の錠剤を毎日服用することによって、睡眠が失われた状態でも問題なく日常生活を送ることができている。私の読みでは、この兄がH.M.の睡眠を失わせた原因である。理由は後に述べよう。

 H.M.のプライバシーの問題があるため、兄が何者に関してか明示的に言及することは避けるが、とはいえ、社会事情に詳しい読者諸士にはいとも簡単に特定されてしまうだろう。H.M.の了解の上で、エピソードを記載する。H.M.の兄はある種のお騒がせ者である。昨年末、行くかのインタビューや特集記事がSNS上でバズり、ニュース番組でも取り上げられて世の中を騒がせた。一種の小さな炎上であったと、総括して差し支えないだろう。

氏のインタビューを抜粋しよう。

「若いうちは眠らないで働くのがいいんです。睡眠負債なんていう言葉が流行ってて、睡眠不足の問題点ばかりが指摘されているのはあまりにも一方的過ぎますね。頭の悪い人にはわからないかもしれませんが、睡眠の負債として、借り入れで調達した分、何かしらのゲインがあればいいわけです。僕も若い頃は数時間は眠ってましたけど、今の時代はテクノロジーの助けを借りて全く眠らないで生きています。人生を2倍にも3倍にも生きられる。人が眠っている間に仕事に打ち込んだり、自己研鑽してスキルアップできる。素晴らしいことだと思いませんか?私が飲んでるのはソムヌス社のピルです。効き目は抜群で、眠らなくても身体の不調なんて感じることは全くありません。値段を言うと、驚かれる方もいると思いますが、自由時間が伸びると思えば、それほど高い買い物ではないと思いますよ。中国でもアメリカでも、東南アジア、西アフリカまで、各地でこういった睡眠代替薬を開発するスタートアップが立ち上がっていて、若者が眠らないで競争して経済成長に貢献しています。はっきり言って日本は3週くらい遅れています。そのくせ不眠が国民の健康課題だなんていてるんだから、行政もも著しくずれていると言わざるを得ません」

堂々とした口調のインタビューは続き、ゴテゴテした書体で装飾された見開きページに「若者よ寝る間を惜しめ!沈みゆく国日本への緊急提言」が掲載されている。

 本レポートの、ひとりの老いぼれの上げるくだらない警鐘よりは遥かに価値を生んでいるものと思われる。また、公共放送の某局の番組で氏は

「ウォーレン・バフェットもジェフ・ベゾスもビル・ゲイツも睡眠時間をたっぷりとっている。生産的になるには睡眠は大切だみたいな言説がありますけど、全部ウソですよ。大体、僕らみたいな凡人を彼らみたいな天才と比べてどうするんですか?何にもなりませんよ。社会で勝ち上がるためには、凡人は寝る間も惜しんで努力しなければいけないんです。テクノロジーはいつだって凡人の味方です。皆で眠らないで努力すればいいんです。少子化に伴う労働人口の問題だって、簡単な算数をすればわかると思いますけど、睡眠代替薬を使えば一発で解決です」

と発言している。

 両インタビューを含めた複数の発言が大きな話題を呼び、怒りや妬みに近い感情、憧れなど色とりどりの感情を掻き立て、年明けの東京タワーみたいに目まぐるしく点滅していたのは記憶に新しい。

 また、本件をきっかけに、ソムヌス社のオルトデルタを個人輸入して用いることが合法的であるか、オルトデルタに危険性はないのかなどが議論されているが、厚生労働省含め関係各者から明確な結論は未だ提示されていない。何よりも、上場企業含む多くの企業の経営者が、H.M.の兄に呼応するようにオルトデルタの服用を明言したことは記憶に新しい。

 彼らは資本市場に対して、好業績の決算を発表することで彼らの言うところの明確な「結果」を示し、その上で身体の不調がなにもないことを明言しており、経済界を中心に概ね肯定的世論が形成されているのが現状である。先の都知事選では、3歳以上の都民に対し一律でオルトデルタを配布し、東京を不眠都市とする公約を掲げた党が10万票近い得票をした(なお、本件は主流メディアから総スカンを食らっていたが、この得票数は驚くべきものである。ベテランのマックA坂氏がすら5万票程度である)

 それ故、いたずらに経営者に憧れる若年層やその周辺の者たち、企業のマネジメント層、または過酷な環境で働くブルーワーカーを中心にオルトデルタの利用が進んでいる。不埒な若手議員が新型コロナウィルス専門病棟の医療従事者への配布を公言し、医師会からバッシングを受けた事件もあった。

 それと同時に、某MまたはY、Jといったマーケットプレイスで個人輸入品が手を変え品を変え流通していることが観測されており、私の学生の調査によれば、その数は日に日に増えている。睡眠代替薬の学術的背景に関してはScience誌、Nature誌(本誌及び神経科学の専門誌)に数年ほど前に論文が投稿されている。

 要約すると、神経伝達物質のアンタゴニスト(受容を阻害するもの)を用いて強引に睡眠を阻害するのではなく、θ波やδ波がもたらす神経細胞の同期状態(睡眠状態を引き起こす)を、外部的な刺激により、ある種プログラムのように、脳全体を睡眠状態にするのではなく、「使わない部分」を適当なタイミングで休ませることを実現するものである。

 それにより、睡眠と同等の脳の新陳代謝、及び、海馬の細胞が示すリプレイ(睡眠時に顕著な覚醒時の活動の再生のような神経細胞の活動)と同等の活動を引き起こすことができ、一般的にいうところの睡眠が失われても脳の活動を正常に保つことができるというものである。これを電気刺激ではなく、薬理作用により実現しているものがオルトデルタ含む各種「睡眠代替薬」であると考えられ、世界各国で利用者が増大していることが話題となっている。

 特に、感染症の封じ込めに成功した我が国で言う「夜の街」が生きている国でそれは顕著である。眠ることなく、夜通し何かに没頭できるのだ。

 BBCやNBCが特集を組んでいる他、NewYork Times誌やGurdian誌にも社会現象としての分析が掲載され、アルジャジーラ誌には神学者による睡眠代替薬が聖典に則ったものであるという声明が掲載されている。日本の若者界隈では、睡眠代替薬を利用して眠らないでいる者は"無眠族"などと自称し、Twitter含め、各種SNSで盛んに交流が行われているようだ。海外諸国でも、眠りを放棄した者たちは独自のトライブを形成し、多くの仲間を引き込んでいる。

 さて、私の研究室のH.M.とは別のメンバー、ここでは仮にS.A.としておこう。彼もまた、無眠族の一員だった。彼はどちらかというと完全に眠りを放棄しているわけではなく、ただ単に試験期間とバイトが重なる年明けの一ヶ月の間、友人に勧められオルトデルタの服用を始めた。こう言うと私の研究室が薬物に頼る学生で溢れているように聞こえかねないが。興味深く、そして深刻なことに、彼がオルトデルタをやめた直後に、不眠化の傾向が見られ始めた。彼の睡眠時間は日に日に短くなり、H.M.と同様に「眠りづらくなって、その後全く眠れなくなった」とのことだ。彼が不眠を訴え始めた翌週か翌々週くらいから、別の学生も不眠を訴え始めた。

 年明け間もない1月初頭ののことだ。研究室恒例のレクリエーションを兼ねた一泊のスキー合宿の後、幽霊学生の数名を除いてほぼ全員が、不眠症を訴え始めたのだ(尚、感染症対策は十分に講じている)すでに不眠を訴え始めていたH.M.は体調不良により、合宿を欠席していた。不眠症、いや、紛らわしいが無眠症というべきか症状が、2月の中頃から3月の頭にかけて私達全員に降り掛かった。私の研究室の生産性は極端に落ち込み、締め切りの迫っていた学会の申し込みのために今詰めていた博士課程の学生が1名、申し込み完了後に病院に担ぎ込まれた始末である。

 結局、学会の締め切りは2週間ほど延長されたから、彼がそのような疲れを負債として抱える必要があったのかは疑問ではあるが、H.M.の兄流に言えば、疑問に思うのは私の頭が悪いことが原因かもしれない。私が矯正された幾つもの徹夜により冷え固まったバターのようになった意識のまま、研究室全メンバーの脳波を長時間記録したところ、睡眠を表象する遅い波の一切はやはり、完全に消失していた。私たちは、眠ることのできない研究室になったのだ。生産性の低下、などと言っていられない状況。誰一人として眠れない、支離滅裂な打ち合わせ、議論、締切間際でないのに呻き出す学生たち。

 しかし、ただ1名だけが、それを免れていた。

 そのただ1名とは、特任助教のZ.K.である。学生時代から伸ばし続けた自慢の髪は腰にかかり、機嫌の悪い時以外は高い位置で結んで流している。機嫌の悪い時は顔側に掛けて光を遮断しているから、さながら井戸から出現する悪霊のようにも見える。

 彼は相当に厭世的な疑り深い男で、SNSの一切を行わず、Gmail等の私企業の提供するメールアドレスはおろか、大学から支給されるメールアドレスの利用すら拒否し、彼自身が用意したメールアドレスに対するPGP(メールの暗号化ソフトウェア)を利用したメール以外の連絡は一切受け付けない。疑りと諦めまじりの、怯えつつも尊い、絶滅危惧の小動物を思わせる目をした彼との研究室の運営に関する打ち合わせをした時、彼が驚くべきことを口にした。彼は全く不眠状態に陥っていないどころか、自由なタイミングで好きなだけ、望む深さで眠ることができるという。

 なぜなら彼は、眠りを好きなタイミングで入手することができ、もし足りないときは購入しているからだという。眠りの購入。生理現象を、売買できるというのか。

 それを聞いた私は彼にその場に残るように言い、研究室棟の端のトイレで何度か顔を洗い、瞳の潤いをもたらす水分が全部入れ替わってしまうくらい入念に、まぶた全体をひっくり返してオーバーホールするかのように激しく顔を洗って(そもそも、私自身が不眠に陥っているから、眠りと覚醒のどちらにいるのか区別がつかないかもしれない)目を覚まそうとしたが、結局の所、彼の発言は事実を述べているに過ぎなかった。彼は至って平静な無表情で、精読中の論文に赤線を引きながら、二面の縦型ディスプレイ上、ダークテーマの海に、右肩上がり踊り抜ける稲光のようなチャートを私に示した。

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 眠りの価格表だという、今年に入り、価格が時間とともに反り上がっている。あたかも、多くの不眠症患者が求めるがゆえに価格が高騰しているかのように。いつぞやの仮想通貨バブルや不動産バブルを彷彿させる。激烈な、荒れ狂い滝を登る龍のような流線を見た。

 Z.K. は半信半疑の男に乱雑に質問を飛ばされるのを嫌ったのか、私をある研究者コミュニティのメーリングリストへ追加し、何編かの論文を印刷し、カラフルな付箋を丁寧につけてファイリングして私に手渡した。以下ではZ.K.に伝えられた論文から私が読み取った、今目の前で起こっている現象に対する仮説を順に述べていこう。

 Z.K.から資料を受け取った2月下旬のその夜、私はZ.K. の「所有」する睡眠を分け与えられ、久しぶりの熟睡をした。いつまでも抱きとめていたかった。入眠の際、イヤホンをつけ、私のスマートフォン上のアプリケーションへ彼が睡眠を送信すると、どんな睡眠導入剤も受け付けず、いくら疲労感を覚えても睡眠状態になることのなかった脳が、穏やかなリズムとともに、愛おしい眠りの世界へと落ちていったのである。

 Z.K. の提示した論文の中で、特に重要なものが以下の3編である。論文は全て英語であるため、タイトル及び概要は全て拙訳であることをご了承されたい。1つは国立睡眠未来研究所(米)のPaprikaらがCell誌に報告した「ラット皮質グリア細胞に対する任意の計算機構の挿入可能性」[1]、2つ目はテルアビブ大学理論脳科学センター(イスラエル)のSuneらがbioarXiv(論文のプレプリント=査読前論文の投稿サイト)に投稿した「グリアの高周波活動によるヒト間ピアツーピアコミュニケーションのプロトコルに関する予想[2]、3つめが今年の初頭に正体不明の研究者Sotomakaによりメーリングリストに投稿された「ビットスリープ」[3]と題する論文である。本文末尾に参考文献及び概要を引用して記載しておくゆえ、私の仮説の反証をしようと多くの読者が見ていただけることを期待する。以下、なるべく神経科学または情報科学の言葉を使いすぎないように気をつけながら、不眠症患者数の増大に関する仮説を述べる。a

 Paprikaらは米国の国立睡眠未来研究所に所属する研究チームであり、米国民の健康促進イニシアティブに含まれる大統領予算が割り当てられたプロジェクトの一員である。研究チームの素性の確かさも去ることながら、査読も受け、Cell誌という重要誌に掲載されていることを鑑みると「ラット皮質グリア細胞に対する任意の計算機構の挿入可能性」は信頼できる結果であると言えるだろう。グリア細胞とは、神経細胞(ニューロン)とは別の種類の細胞であり、神経細胞よりも圧倒的に数が多いことが知られており、脳の容積の大半はグリア細胞で占められる、グリア細胞の役割は、正直言って長い間わかっていなかった(手が回っていなかった)と言える。神経細胞を補助する役割があると長年言われ続けてきたが、ようやく近年になって、学習や情動などの脳の機能に関与することが明らかになってきた。

 Paprikaらのチームは、外的な刺激によりグリア細胞に任意の計算をさせることが可能であると主張しており、いくつかの計算について実験を行い検証を終えている。突飛なことに聞こえるが、神経細胞もしくはグリア細胞を何らかの人工的な刺激で操作する例は枚挙に暇がない、彼女らの結果は一般的なコンピュータで行えるような計算を脳に行わせようとしている点と、実際に実験に成功している点が素晴らしい。Paprikaらは、フーリエ変換や暗号化の再現にもチャレンジしており、結果は全面的に成功とはいい難いものの、人間の脳に自由に汎用的な計算を実行させる可能性を示している点では、相当にスケールの大きい結果であると言える。

 対照的に、Suneらは素性のよくわからない研究チームである。イスラエルは科学技術面で相当に進んだ国であり、テルアビブ大学は名門校かつ最先端の研究機関ではあるが、軍との関係の深さも示唆されており、ゴシップは耐えない。また、理論脳科学センターは設立間もない研究機関であり、ウェブサイトにも簡単な説明とミッション及び、問い合わせ先のメールアドレスが記載されているのみで、詳細は人目をはばかるかのうように、霧に包まれて不透明である。彼らの成果である「グリアの高周波活動によるヒト間ピアツーピアコミュニケーションのプロトコルに関する予想」はテレパシーの神経学的基盤を明らかにするような野心的な試みである。野心の大きさは認めるものの、1MHzもの高周波活動をグリア細胞が示すという報告は一見すると与太話めいている。

 しかし、目の前の現象を前にして、今やその与太話を信頼せざるを得なくなっている私がいるのだが。テレパシーを含む超能力は冷戦時代は旧ソ圏で熱心に研究されており、スパイ活動への応用まで真剣に検討されていた記録が残っているが、理論的基盤、科学的基盤は明らかでなかった。彼らは、先に述べたグリア細胞が特定の条件下で見せる高周波の活動が、別の頭蓋骨に包まれた(つまり別人の)グリア細胞群へ情報を伝達するために利用されていると主張しており、いくつかの古典的、もしくは一般的に用いられている通信プロトコルを脳で再現することを試み、成功している。彼らの主張をそのまま受け入れれば、遠く離れた人間に対しても、意識・無意識の状態を問わず情報を伝達することが可能となる。

 私は上記2つの結果に人間の脳のコンピュータ化という壮大な夢を見た。その一部が、すでに実現されているのだ。人工知能と呼ばれるものが人間を凌駕する前に、人間の脳がある種の自然計算を体現する計算機として扱えることが示されはじめたのだ。2つの結果を踏まえると、理論上は、我々が知っている任意の計算を実行させることができさせることができ、任意の通信プロトコルを用いて情報を伝達できることになる。Suneらの結果の残念な点を1つ上げるとすれば、比較的高い周波数の波を用いているため、インターネットのように任意の遠隔地にも楽々接続できるというような楽観はできず、彼らの実測値によると、彼らの30名の研究チーム全体に埋め込んだ情報が伝搬するまでに5日ほどの時間がかかったそうだ。

 さて、3つ目の論文の衝撃は計り知れない。Z.K.も加入する研究者のメーリングリストにSotomaka. Nという名義で唐突に投稿された論文は、日本で不眠患者の数が爆発的に増え始める直前に、つまりは昨年の末に一部の界隈で大いに話題になった。「ビットスリープ:電子的な睡眠の市場システム」と題された論文。タイトルはかの有名なサトシナカモトによるビットコイン論文へのオマージュであると見られ、一見すると明らかなお巫山戯である。

 Sotomakaの主張はこうだ。グリア細胞に特定の計算機構を含ませることで、眠りの発生を完全にあるアルゴリズムに従わせることができること。容易に検算可能な難しい問題の解を睡眠の発生のトリガーとできること。眠りの発生を制御するアルゴリズムは、同じ計算機構を含むグリア細胞を持つ者同士の間に等しく適用されることである。

  私の脳が不眠に負けないうちに噛み砕いて文字化したい。PaprikaらとSuneらの論文を含むいくつもの神経科学の論文と、サトシナカモトによるbitcoin論文を含む暗号学の論文の多数を引用した本論文の結果が正しいとすると、眠りの発生を、グリア細胞に埋め込んだ特定のアルゴリズムに完全に従わせることでコントロールすることが可能であり、さらには同じ計算機構を共有する者同士の間での眠りの発生数を、情報にも関わらず無限にコピーが出来ないビットコインと同じ様に、本来自発的に現れる生理現象にも関わらず、一定の量(求解が難しい問題の解の数以下)に抑え込めるというのだ。Z.K. 曰く、初期実装と称して彼の示したトレードサイトが公開され、数日後には最初の購入者が現れた。グリア細胞にあるプログラムを埋め込まれた者同士の間では、眠りは希少な資源となり、市場化され取引されうるというのだ。どうやら「それをお金で買う」対象がまた一つ、増えるらしい。今後も生理現象が経済活動に組み込まれるとすれば、かなりの市場規模が立ち現れることになろう。

 Z.K. は私に解説をした後しばらくして、研究室に現れなくなった。その時点で何も知らなかった我々は4月になると、新規配属の学部生を6名ほど受け入れ、部屋の端から順に、毎年と同じ用に座席をあてがったのだ。配属からきっかり5日目、ランチの場でH.M. の真隣りの座席の女子学生が寝付きの悪さを訴えた。ちょうど翌週の論文輪読会に置いて、その隣の男子学生が睡眠の不調を訴え始めた。どちらの学生も、H.M.と同じく、睡眠時を表す脳波が完全に姿を消していた。

  極めつけは、その翌週である。不調を訴えるものが物理的配置に従って増えていくのではなく、今度は一番壁際の学生が不眠を訴え始めた。彼にヒアリングしたところ、前日、前々日に夜通し遊ぶために、ベンチャー企業のインターンシップに参加する熱心な友人からオルトデルタを分け与えられ、服用したとのことだ。私は熱心な学生が所属する企業を十数件洗い出し、不眠症状の訴えをしている者の座席の位置とオルトデルタの服用状況を時系列に基づいて精査した。結果は明らかだった。データは雄弁に語っていた。服用したものは、服用をやめた翌日から、服用しないものは、隣席のものが不眠の訴えをし始めた平均して5日後に、不眠状態に陥っている。

 オルトデルタの薬理的作用の中にSotomakaが提案したプロトコルの実装が含まれており、一度実装が取り込まれたグリア細胞から高周波活動によるテレパシーでそのアルゴリズムが伝搬しているのだ。私はオルトデルタを提供するソムヌス社に問い合わせを行ったが、一切の返事は得られていない。ソムヌス社の販売方式は巧妙で、彼らはいくつかのサブスクリプションプランを提供しているが、大抵の場合初年度を無料にするオプションがついている。おそらくは服用を続ければ、眠りが失われた状態にならないのだろう。

 正常な眠りを失った人々が増えるほど、オルトデルタの需要は高まり、真の眠りの価値は際限なく高騰する。私の研究チームはオルトデルタの成分の分析と、薬理的作用及びそこに含まれる計算機構の原理を解明しようと試みているが、まだその途上である。本レポート作成の基となったデータに関しては、N社の玄鳥至氏か私に取り合わせをいただければ、余すことなく提供することができる。重ねてになるが、読者の誰かが、私の仮説を反証してくれることを大いに期待する。

 オルトデルタを始めとする睡眠代替薬によってもたらされる新たな日常、睡眠を前提としない新たな文化、労働に従事する人間が増えないうちに、人類が睡眠を捨てるという甘い罠に飲まれないうちに、私はこの機構を打ち消したいと考えている。しかし、あまりにも眠い。ここまで書くことができたのが奇跡とも思える。これ以上は、何も出てこないように思える。眠りを買うか、眠りを代替するか、選択肢が喉元に突きつけられているようだ。願わくば、私の推論が反証されることを期待し、無眠族に憧れる皆さんにおきましては、どうか静けさの中眠る日々を過ごしていただきたいと思う。

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参考文献
[1] C. Paprika, S. Inui, R. Simatorata, K. Tokitac. On Injectability of Arbitrary Computation Dynamics into Cortical glial cells in rats. the New Scientific Perspectives, 2018.

哺乳類の脳に備わる低次の知覚機能や高次の認識、学習機能は個々の神経細胞のミクロな発火活動または神経回路網のマクロな振る舞いとしての同期活動や永続的活動、さらにマクロな計測結果としての脳波を通じて生み出されている。脳を構成する細胞であるグリア細胞は神経細胞を補佐する役割を担い、高次機能に直接関係しないと考えられてきたが、近年解明が進み、グリア同士が相互に情報伝達を行い、神経細胞のシナプス形成を制御していること、恐怖や驚き等、情動を感じる際に神経修飾物質と結合して情報伝達を誘発することなどが知られている。グリア細胞の活動を外的な光刺激や薬理的な刺激でコントロール可能であることも示されている。我々は薬理的な刺激または光学的な刺激に対するグリア細胞の活動の変化を観察し、四則演算や条件分岐等の基本的な演算をグリア細胞の回路網にエンコードできること、特定の条件下ではフーリエ変換や暗号化、復号化、ハッシュ計算などの複雑な計算を実行する能力を持たせることができることを示した。本研究に結果により、神経回路網の各種振る舞いが外的にインプットした計算によりコントロール可能であることが示唆される。

[2] L. Sune, K. Moses, H, Karn. Hypothesis on Peer to Peer Communication Protocol Between Humans with Glial Cells Ultra High Frequency Activity. Frontlines in Neurosciences, 2019.

言語や身振り手振りなどの媒体を介さず、複数の個体間で、脳がエンコードする情報を直接伝達することはテレパシーと呼ばれ心理学や神経科学の領域でその可能性が研究されてきた。Wackermannらの脳波及ぶfMRIの計測結果によれば、離れた場所にいる二者間で脳活動が同期発生する可能性が示唆されたが、その神経基盤は解明されていない。また Radinにより、繋がっているという感覚を持つもの同士はお互いに脳の活動に影響を与える可能性があることが示唆され、脳が示す量子力学的効果がもたらす脳活動の相関が背景にあると提案されているものの、具体性に欠けると言わざるを得ない。我々は光学的マーカーを用いた非侵襲的な手法により、グリア細胞のある種の超高周波数(> 1MHz) のうち、頭蓋の共鳴周波数に該当する波が、複数の個体の脳の間で、神経細胞やシナプス、及びグリア細胞自体にエンコードされた情報の伝達手段として利用されている可能性を示した。片方の被験者にのみ提示される刺激または記憶が、少し離れた別の被験者のグリア細胞に再エンコードされる形で伝達されることが観測された。その上で、 Paprikaらの結果を応用し、比較的簡単な通信プロトコルやGnutellaに代表されるようなP2Pの通信プロトコル、Bitcoin Protocolのような情報共有プロトコルのをグリア細胞にエンコードさせるような実験を行い。既存の通信プロトコルの再現可能性を示した。上記をもって、我々はヒト間のP2Pのテレパシー的なコミュニケーションの神経基盤の解明及び理論的基盤の提案を行う。

[3] Sotomaka. N BitSleep: A Peer-to-Peer Electrc Sleep Market System. 2021.

侵襲型・非侵襲型を問わず、特化型の機器を用いて脳の様々なレベルの活動を計測し、内容を読み取り、神経の活動に含まれる意志を外界の機器の操作に結びつける操作、あるいは外部スクリーン上に可視化を行うことはしばしば行われており、自動運転車との意志疎通、スマートフォンによるナビゲーションの補助、思考の可視化によるコミュニケーションの円滑化、ないしは嗅覚や触覚がもたらすイメージの視覚的解析は今や巨大な応用領域である。また、倫理的な問題は指摘されているものの、警察機関による容疑者の取り調べに際し、神経活動及び脳波からの情報読み取りによる偽証発見の応用も見られる。先行事例において、ほぼ例外なく脳に対する外部機構または神経活動を一元的に計測、記録、加工を行うシステムが要求され、システムを経由しなければ機械、ヒトを問わず、外界とコミュニケーションすることは不可能である。これは、脳の計算活動を物理的な装置を使って読み取ろうというパラダイムの限界である。一元的なシステムを仮定しないコミュニケーションの手段としては、テレパシーを分子生物学もしくは生化学の立場で暑かった先行研究が挙げられるが、コミュニケーションのチャネルを開くための薬品が高次聴覚野の再帰性神経回路の活動に深刻かつ不可逆な影響を与え、聴覚を利用したコミュニケーションの基盤となるガンマ波の位相をランダムに遅らせてしまうなど、人体に無害な方法は確立されていない。本研究は神経細胞のシナプス形成をコントロールするグリア細胞の高周波の「振動」が、頭蓋を超えて近接した脳へと情報伝達をする可能性と、グリア細胞の持つある種の「計算機構」をRNA制御機構の改変によりプログラムすることで、眠りと夢を誘発および制御できること。また、既存のP2Pプロトコルを用いることで、眠りの発生条件に一定の制約を加えることが可能であり、複数の個体間でも制約が共有されることを示した。以上の結果より、睡眠をグリア細胞の特定の計算結果という情報としてコードすることができ、情報の正当性が無い限り眠りにつくことのないヒトの脳、またはヒトの脳のネットワークを作り、コントロールすることが可能である。

[4] M. サンデル それをお金で買いますか 2012 早川書房

尚、本文は SFマガジン「異常論文特集(仮)」の公募落選作です。

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