神経たち #1

体温が、室温を上げていく様、閉じられた空間内の熱を持った個体の存在証明、それ見る瞬間、瞬間の連続としての変化を捉えることが、僕はたまらなく好きだ。一人の孤独な計測者として、僕は自室でかれこれ三時間、ある知らない女性の部屋の温度変化、それと一緒に彼女が動く度に生み出される振動を計測し、記録している。記録は画面上に色とりどりの画素と、その集合体としてのグラフとして描かれ、時折現れる動き、変化の様子に僕はうっとりと見惚れていた。黒く冷たい金属製のアームで僕の右上に固定されたディスプレイ上、赤く塗りつぶされたいくつもの点と、点と点とを結ぶ短い線分、折れ曲がった線分の繰り返し、図形という形をとって立ち現れる時間の流れ、ある物理的な量を表す数字の連続、変化、変化点、変化量、線それ自体は明らかに無機的で、どこをどうとっても図形でしかない。図形の背後の有機的な実態、点列を生み出している源、赤く湧くような熱を秘めた肉体の感触。それらを想像しているのは僕の心であり、僕の脳だ。数字の背後で、見知らぬ女性は確かに運動している。何かを口にしたり、時に立ち歩いたりと。
左上のディスプレイは最近調子が悪く、今もまさに暗転していて、パッとしないのっぺりとした僕の顔と、床に散らばったスナック菓子のゴミが薄っすらと映っている。僕は映り込んだ自分の口元が緩んでいることに気がついて、口元に入る力に意識を向けると、緩んだ顔は一瞬僕に笑いかけて消えていった。息を、普段より大きく、鼻から大きく吸い込んで、吐いた。
いつも通り、計測対象である彼女の行動の変化に伴う振動と温度の変化から、これからどういう風に彼女が動くのか、今日一日をどう過ごしているのかを想像する。確かこの女性は、二十代前半の女性だったはずだ。役所に勤め、残業はそれほど多くなく、いつも夕方過ぎには帰宅する。僕が彼女の家に仕掛けたセンサの数はそれほど多くなく、住所から割り出した彼女の部屋の間取りの中で、彼女がいつ、どの位置で、どんな振動を発して、部屋の温度と彼女の体温がどれくらいなのかを粗く記録できるのみで、記録から行動を推測するのはヒントの少ない、答えに到達できないパズルを解いているみたいだった。それはそれで、想像の余地が広く、僕にとっては楽しいことだった。体温、人の身体は三十六度近辺の温度を持つ質量の塊だ。発せられる熱は運動後や入浴後は増し、デザートやら冷やし麺やらの冷たいものを食べた後は短い時間の間低下する。もっと長い目で見ると、女性の場合は特に、ホルモンのバランスやら排卵の周期に合わせて体温もある周期を持って動いている。僕が使うセンサはそれを捉えて、計測対象を露わに数字に起こして描き出す。
いつから始めたのか、はっきりと思い出すことができないけれど、僕はこれまで数えられないくらいの人を計測してきた。今この瞬間も、同時に千人くらいを計測している。画面を読み込み直すと、真っ白な画面に新しく変化が刻まれ始めた。僕は刻一刻と、短い時間間隔で刻まれる変化の先端、時間の流れが図形として刻まれて、新しい点が白い背景に打ち付けられて、次の点の到来を待つその繰り返しの最前線をじっと見つめながら、だいぶ氷が溶けて薄くなってしまったウイスキー少しだけ口に含んで、微かな樽の香り、そのほんの残り香を鼻に通し、暗転したディスプレイの中にまた、口元が緩んでいる自分の間抜けな顔が映り込んでいることに気がついて、もう一度、口にギュッと力を込めて、間抜けな顔をした僕をもう一度追い払った。
いいじゃないか、誰が見ているわけでもない。
ニヤけ顔のそいつはそう言ってまた、僕を笑って去っていった。
だらしない自分の表情を見るのは好きでなかった。
強いて言えば、他の誰でもない僕が僕を見ているのだ。
点が描く曲線が少しずつ曲がり方を変えて、高く立ち上がろうとしていた。何か大きな変化が起こる予兆に思えた。僕は下側のディスプレイの表示を、彼女の家の間取りの中で、どの部分がどの温度であるかを立体的に、温度別の色合いで表示する、ある種のサーモグラフィ的な画面に切り替えた。キーを叩く音がパチパチとやたらと高く軽やかに部屋に響くように思えた。
キーにより操作されるのは、この計測行為を始めたての頃、大学やインターネットでプログラムについて学んで自作した、お手製の計測のためのシステムや道具箱だ。計測の対象者の家に設置した温度センサと振動センサの数や精度にもよるが、部屋の間取りの中で計測対象が存在するエリアは黄色や赤の暖色で表示され、色で暖かさと冷たさを連想できるようになっている。秋や冬であれば冷えきったエリア、例えば、温度の放射を受けていない部屋の隅の壁やら床やら、大きな窓やらは濃淡様々な青で表示され、計測相手が存在するエリアは温もりの色で塗り上げられる。今見ている彼女は、台所に立って料理を始めたらしい。ガスの強い発熱、強い熱源が、濃い赤で表示される。
材料として何を買ったのか、何をどう刻んで、どういう調味料を入れて消化器官に入れるつもりなのか、その後どういうゴミを出すつもりなのか、直接的に映像で見ることはしていない。
温度と振動、僕の興味がその二つだけだからだ。
物体の表面の温度の変化と、捉えられた者たちの振動のアンサンブル、大抵のものはじっと動かないから、振動するのは生きて動き回る計測相手達だ。明確な映像は撮っていないから、ディスプレイを通じて、それら二つの情報だけを見ることができる。
今、図面上に一つの熱源があり、煌々と赤く、暖かに塗られている。エネルギーの持つ芯の強さ、エネルギーを得て軽やかになった空気が上へと楽しそうに羽ばたいて、もともと上の方に陣取っていた別の分子たちを押し出して対流していく。やがて、ガスと材料の持つ熱量は、彼女の体温へと変化していく。彼女の身体の持つ熱は、彼女の小さな部屋の室温へと乗り移っていき、壁に囲まれた冷え切った空間をなめらかな温もりで包んでいくはずだ。
赤、黄、そして青、各色のグラデーションで彩られた温度の世界の中に、僕は彼女の行動や内面の無数の可能性を想像する。
体温の移り変わり、室温の移り変わり、そして動きの一つ一つは時には大きく、時には小さく、揺れの大きさとして僕のディスプレイ上に表示される。僕はそれを、長い期間観察している。
無意識的にパターンを見つけようとしている。
大まかな行動とそれが起こる時間帯。
何も知らなかったときは色も形もない液体だった輪郭が、センサが数字を捉えるとともに具体的な形状を持って、体温、生き物の温もりを持って僕の頭の中で動き始める。
段々と彼女の行動は僕の頭の中で顕になり、いつ何をするのか、大体の行動を当てることができるようになる。
推測の繰り返し、繰り返すことで僕の頭の中の、透明な温もりはより固く、確固としたテクスチャを持つようになる。
今日は水曜日。彼女はいつも通り、早く仕事を終え、少し手の混んだ料理をしていた。何かを長い時間煮込んでいるのか、ガスが発する熱が長い時間かけて、部屋の温度を徐々に押し上げていた。
実際に幾つの料理が食卓に並ぶかを見なくとも、料理の時間と食事の時間から、彼女が作る副菜の数を想像することができた。水曜日だけは、少し手の混んだものを、いつもより一つ多く用意するのだ。僕の頭の中で彼女のイメージが透明な温もりになって、嬉しそうに跳ねながら食事の準備を始めていた。
ツバを飲む音がゴクリと音を立てた。もう一口、水に近くなったウィスキーを呷った。香りはもうほとんどしなかった。
来週の水曜日も、同じ様に彼女は料理をするだろうか?
透明な温もりは僕が来週のことを想像すると、今の食事の準備を一旦やめて、来週の動きを始めた。でも結局、同じように一つ多くの料理を他の曜日よりも長い時間をかけて作り始めた。
さて、僕は別段、彼女に性的な興味がある訳でも、彼女をどうしても監視したくてこんなことをしている訳でもない。透明な温もりを作り上げること、予測する行為に気持ちの高ぶりを感じて興奮することはあるけれど、彼女の身体に性的な関心は全くなかった。僕は彼女の部屋の温度がどう変化するかを眺めながら、彼女の動き、彼女の生活、それか、らインターネットを駆使して入手した写真、彼女が友人たちとニコニコと笑いながら写っている幾つかの写真を眺めながら、彼女の肢体、全身の様子、質感、部屋の中でどのような温度を持っているか、どの部位がどれだけ温まり、抱いたときはどのような肌触りなのか、冷えやすいのは何処なのか、冷えるならば冷えの理由を想像し、身体の性質、健康状態まで、諸々含めて、彼女の様子をあれこれと思い浮かべることに楽しさを感じるものの、これまで僕が計測し観察してきた多くの女性達に対するのと同じ様に、僕は性的には何も感じていなかった。
つまりは、僕の性器の方は、ただの一度も反応することはないのだ。物理的な刺激を外から加えようとも、梨の礫だ。僕に住み着く怠惰な軟体動物として、何の反応もせず生き続けている。とはいえ、僕は全くもって不能者ではなく、普通に生活しているとインターネット上にちらつき、嫌でも視界に入る忌々しいアダルトサイトの広告や、丁寧に並べられたアイドル達の写真を見て、不意に駆り立てるような下半身のごわつきを感じ、思い出したように活動を始める軟体動物を前にして、もっと目に、なにか視覚的に刺激的なものを入れたいと強く感じることはあった。そういう時、確かに僕の性器は硬直し、立ち上がり、何らかの摩擦的刺激を求めて空中を浮遊するかのようだったけれど、その度、僕は突然掻き立てられた性欲を、ただ処理するためだけに放出する気持ちになれず、特に何もすることなく時間が経つのを待つのだったその度、自分がある種の不能者でないことを確認するのみであった。僕の性的関心を基に計測の相手を選ぶことはなかったから、計測され、グラフ化されて、諸々の行動と表面の形状、輪郭、身体つきを露わにされる女性たちは多様だった。顔を確認してから選ぶなんてこともなかったかし、年齢だって気にしちゃいなかった。それ故、老いも若きも、時にはとんでもなく太っている女性も、不安になるほどやせ細った女性もいた。
身体のサイズやら、体格と体温の関係やら、顔と体温の関係やら、普段の体温の感じと行動パターン、それから健康状態の間に関係性を見出すことには興味があったが、それだけだった。まんべんなく計測をしたいという意味で、計測の正しさを保つために体重や身体つきを気にすることはあった。彼女たちの写真を入手し、計測対象の性質が偏らないように、あまりにも標準的な体型に近い女性が連続した場合は、意図的に肥満体や拒食気味の女性を探すことはあった。その場合は、まず外見を調べてから、計測するかどうかを決める。
あくまでも比較のために。
あくまでも僕の計測の考え方を守れるように。
守るのと同時に、自分が性的目的のために相手を選んでいないことに、論理的に説明を与えるために。
科学的に計測するという大義名分を掲げて。
だってそうだろう?性欲のためにやってるなんて不純だ。
実際に僕は、言い訳を必要としていた。というのも、これまでの僕の計測対象は全て、一人の例外もなく全員が女性であった。そして、次こそは男性を計測対象に選びたいとは微塵にも思わないのだ。心を隅から隅まで羽箒で掃いてみたところで、そういう感情がただのひと欠片も転がっていないことに気づくだけだった。
いつもそれに気付かされて、理由を考えている。理由を、求めている。
計測を始めて、大学を休学して以来これまでの間、数年間、僕が選ぶのは常に女性だ。女性の身体も持つ温度から、振る舞いを想像し、その女性の身体の持っている温もりを脳に描くこと、振動から想像される歩き方や振動の大きさの変化、行動の変化から心の中身を覗き見るような心地を得ること、僕の日課でありライフワーク、その論理の枠組に男性が入り込む余地は全くなかった。その理由をこれまで何度も考えているけれど、すぐ嘘と分かるような、ハリボテの、立て付けにもならない程度の言い訳すら考え出せず、自分自身で納得できずにいる。
それでいうと、実際のところ、こうして計測を続けている理由も非常に不明瞭で、何がきっかけで始めたのか、抑えることのできない強い欲求や衝動が僕の中にあるのかないのか、隠れているのかいないのか、自分の内側にある景色はすっかりぼやけきってしまっていて、理由もわからないまま、計測行為をほとんどただの日課として、仮に僕が機械であれば、設計された一つの機能としてこなしている感じだった。大昔にそう設計され、そう動くように命じられたかのように。
時たま、僕の内側の景色が見える気がした。広い草原、無限に広がる地平線に、僕が計測してきた幾人もの女性たちの影がチラチラと行き来する。時たま彼女たちは視界を遮ったり、退いて僕を見たりする。僕は彼女たちの胸元からそっと、像の中に入り込みたいと思うけれど、その度それが叶わないことを知る。草木をかき分けて進むと水が流れていて、濁った底の方に黒い箱が見える、見える気がする。明けて中を見れば、僕の衝動がしまわれている気がする。
僕は僕の行為を、監視ではなく計測と呼ぶことにこだわりがある。事細かに全て彼女たちの動き全てを把握して監督したいなんていう欲求はない、根源に彼女たちへの好意や性的関心がないのだから、受け入れられずに打ち捨てられたような、歪んだ恋愛感情なんてものも存在しない。僕が使っている各種のセンサ、それを僕が設置する能力が高いのか、それとも単純に運が良いだけなのか分からないが、これまで一度も計測していることを察知されたことはなかったし、仮に見つけられた機器が破壊されたとして、僕は執拗に彼女達個々人を追いかけることはしなかっただろうし、これからもするつもりがない。する動機がない。
彼女たちひとりひとりに、あまり執着がない。
感情を向けないようにしている。
というよりは、向くべき感情がない。
計測でなく監視をするやつらは、愛情やら憎悪やらそういう物を振りかざすから事細かに見たがるのだと思う。
計測している家から彼女たちが何らかの事情、転勤やら転職やら、恋人との同棲や気分転換の名目で去っていったら、それで終わり。僕は彼女たち個々人の名前か、名前を知らない場合は、僕が降っている通し番号を、僕のマシンの中に保管しているリストから外すだけの話だった。それは一つの手続きで、感情の入る余地がないはずだ。
世の中には、振り払っても執拗にまとわりつく砂やペタつく泥水のような本性を持ったストーカーと呼ばれる人間たちが、男女問わず、恋愛感情や嫉妬、怨恨、歪みきって固まりきった、これまたネバついた感情に駆り立てられて異性を付け回し、時には相手の家の前まで出向いて監視をしたり、郵便物やら電子的な連絡手段で自分の存在を誇示し、挙げ句は不法侵入だとか殺人だとかにコトを発展させて、悲惨な結末を招いた結果社会から一時的、もしくは半永久的に取り除かれることがあるのを聞くと、僕にはそうなってしまう原因がほとんど理解できないのだった。
兎にも角にも、僕の行っていることは計測で、人間の活動が生み出す計測値の羅列、変化、時系列、職業も年齢も、生活の時間帯も分散した計測対象の女性達の活動を、こうしてウイスキーでも呷りながら眺め続けること、時には似たりよったりなプロフィールを持つ二人の女性の生み出す時系列間に差異を見出し、時系列の周期性であるとか、波形の持つ周波数の特性であるとかまで解析をして、時たま、差を綺麗に理屈付けることができたとき、僕は差異を表す表やグラフと、その背後に存在する理由の筋道に美しさを感じずにはいられない。
それは確かに、美しかった。うっとりするほど。
行動の予測をすることで、心はいつも昂ぶる。中学の頃、幾何学の時間、初等幾何の証明問題の解を発見した時の感動や、書籍の中に古代から受け継がれる美しい作図原理や証明手法を発見したときの感覚に似ていた。計測の到達点がどこにあるのかは未だ僕にはわからないし、到達点を定めたいのか、ずっと今のまま、同じ様に計測を続けたいのかは、僕自身つかめていない。
自分の動機や内面、目指すところは、暗闇に包まれている。
たまに光が欲しくなる。
いや、何度も欲しくなっている。
その度、草原が現れて、女性たちの像がちらついて。向こうから指す光に影を刺すように僕の視線を遮った。おそらくそれは誰の、意図もなく、ただ自然に、そうなっていた。
ピンポーンとインターホンが鳴る。計測を始めたばかりの頃は、いつかこの計測行為が発覚し、逮捕状を携えた複数の警察官が家に訪問する時が来ることを覚悟していたから、インターホンの音を聞くたびに、この計測行為の終焉を通告される恐怖を感じて、胸がキュウと萎む感覚を覚えていたのだが、それはかなり昔の話だ。僕の家にやってくるのは、大抵はろくでもない勧誘か、時間を余り守らない配送業者に決まっていた。僕は「配達です」と言う男の姿や顔をロクに確認もせずに、オートロックを解除し、伝票に名字を書きつけるためのボールペンをくるくると回しながら玄関へ向かった。続けざまに部屋に備え付けのチャイムが鳴り、ドアを開けると、男は僕宛の荷物など持っていなかった。見覚えのある顔が、少し緊張した面持ちで、僕を見て小さく笑って口を開いた。
「よう。久しぶり。ダイゴ、元気か?かなり前にも配達って言って開けてもらった気がするけど、お前、相変わらず不用心だな」 その顔を僕はよく知っている。しばらくぶりだけれど、忘れることはない。他の人間なら、親でも兄弟でも無碍に追い返すか、玄関先で当たり障りのない話をして、ただ時間の経過を待ってやり過ごすのだが、この男、ケイゴだけは話が別だ。僕の殆ど唯一の友人だからだ。
僕は久しぶりに顔を合わせる相手に向かってどういうトーンで話し始めればいいか戸惑った。そもそも、人間相手に口から声を出して会話をすること自体がかなり久しぶりのことで、乾いた喉は震えるばかりでうまく動かなかった。喉の辺りで何度か声をこねくり回して、上ずらないように、噛まないようにと気を使いながら言葉をひねり出す。
「ケイゴ、久しぶり。二年か、三年ぶりくらい?」
「なんか、結構会ってなかったな。相変わらずお前、不健康そうな見た目してるな。太陽の光、浴びてるか?陽の光浴びると、心が元気になるらしいぞ」
「そんなに不健康そうに見えるかね」
「見えるさ、白いから。色白になりたい女の子たちに羨ましがられるぞ、大学の頃みたいに」
買い物やら計測機器の材料の調達のために外には出てはいるものの、僕の肌は酷く白く、体格が良く日に焼けて、健康的なスポーツマンを思わせる小麦色よりは茶色に近い色をしたケイゴに横に並ばれると僕は明らかに不健康そのものだった。外見だけを見れば、誰が見ても僕ら二人がお互いに接点を持っているとは思わなそうだった。
肌の色や体格の違いが社会階層の違いを表しているなんて軽々しく言うことはためらわれるけれど、現に、僕自身も、ケイゴと接点を持ち続けていることが不思議なくらいだった。
ケイゴの着るスーツは所々にシワがついているものの、しっかりと着こなされており、足元で磨かれた革靴がピカピカ光りながら跳ねていた。ケイゴの靴は世の中の踏み固められた硬い地面を歩き回るための規律をしっかりと守りながらも、履き主と同じように外向的で、僕が玄関に脱ぎ散らかした履き古しの、底に穴が空いた見た目ばかりは開放的だが、内向的で伏し目がちなスニーカーにも話しかけ、自己紹介をした後に仲良く喋り始めているようにも見えた。ケイゴの見た目も話し方も、大学の頃から変わっていなかった。柔らかな口調、話しやすさ。何一つ。彼は昔から、気まぐれに人に声をかけたり、海で過ごし真っ黒に日焼けして現れることもあれば、時たま携帯端末でのゲームや、オンラインでのゲームにのめり込んで全く人と話さなくなったり、資格の試験のために一定期間、友人知人との交流を一切断って真面目に勉強に打ち込む時期もあったり、それでも最終的には人と交流を保つ場所に帰ってくることのできる人間だ。そういう人間とそうでない人間がいることを僕は知っているし、僕はどちらかというと後者で、そもそもどんな種類の人間とも交流を保つのが苦手な性質だった。話すきっかけや話し方の手続きが異なるのだと僕は自分を納得させていた。ケイゴはどちらのタイプの人間とも別け隔てなく話す性質の人間で、大学時代、休学するまでの間、僕とケイゴは定期的なやり取りをしていた。彼だけはなぜか、特に理由を考えたこともないし、その必要性も感じないけれど、今も昔も交流のある唯一の、特別な存在だった。
彼を、僕が他の人間にしているように無碍に追い返すことは、僕と光との本当に弱い微かな繋がりを引きちぎることのように思えた。
僕はいつも、彼が来るたびに、柔らかな場所で息をしているように思えるのだった。息が軽く、旨が軽い。
でもその感覚は、ほんの気まぐれのような気もした。
彼が僕を訪ねてくるのに理由なんかいらない気がしたし、僕が彼に話しかけるのにも理由はいらないように思えた。なんだか、本能でそれを感じていた。
「でだ、ほらお前、ウイスキー好きだっただろ。スコッチなのかバーボンなのか、何が好きなんだか忘れちゃったけど、お土産にちょっといいやつを買ってきたからさ、飲もうぜ」
彼がカバンと一緒に、窮屈そうに右手に握っていた有名百貨店の紙袋から、金文字入りの黒い箱が姿を見せていた。
「入って」
身体の底の方から軽やかでしなやかな鳥が飛び上がってきて、生まれたての子犬のようにぴょんぴょんと跳ね回って僕を笑わせた。僕はドアを大きく開いて、ごちゃごちゃした玄関の中に彼が靴を脱ぐスペースを作った。

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